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占いの歴史夜話⑧…遣新羅使随行占い師 雪連宅満

 2016-11-23
占いの歴史夜話⑧ 

…遣新羅使随行占い師 雪連宅満



万葉集巻十五には、天平8年(736年)に派遣された第20次遣新羅使
(けんしらぎし) 一行の詠んだ歌群145首が収められている。

飛鳥時代の663年、朝鮮半島で唐と新羅(しらぎ)の連合軍が、日本の友好国
百済(くだら)に侵攻していた為、天智天皇は援軍として、2万7千人の兵力と
艦船400隻を派兵し、日本軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐軍13万人、
新羅軍5万人の連合軍に大敗北を喫した。

交戦した経緯からして、外交上、緊張関係にあったはずの両国であったが、
日本としては大陸の先進技術や海外情勢などの新情報を導入する必要が
あったのであろう、668年に高句麗が唐に伏し、朝鮮半島を統一した新羅に対し、
天智天皇7年(668年)の第1次遣新羅使から、延暦18年(799年)の
第25次遣新羅使に至るまで、正規の使節を新羅に派遣したと記録されている。


第8記事1


天平8年(736年)、聖武天皇が派遣した第20次遣新羅使の随員40数名の
中に雪連 宅満(ゆきのむらじ やかまろ) が居た。
彼の詠んだ歌も、万葉集巻十五(3644)に収められている。

「大君の命かしこみ 大船の行きのまにまに宿りするかも」

「おおきみの みことかしこみ おおぶねの ゆきのまにまに やどりするかも」
   
【通解】
天皇のご命令に謹んで従い、大船で行く途中、暴風に遭い、船は荒波に揉まれ、
思わぬ所で宿りするようになってしまったことよ。
(文責在詠山史純)

第8記事2
「ながさき旅ネット」様のHPより、月読神社(長崎県壱岐市芦辺町)の画像を拝借。

第8記事3
「洛西総氏神 松尾大社」様のHPより、摂社月読神社の画像を拝借。


雪連宅満は渡来人の子孫であり、京都に移住した天児屋根命十八世孫、
大和朝廷の信任厚かった壱岐県主(いきのあがたぬし)押見 宿禰(おしみの
すくね)が始祖という壱岐の卜部(うらべ=占い師)の一族で、父親の名は
伊伎連古麿(いきのむらじ こまろ)であるから、今で言う苗字は「伊伎」
であったが、彼は「雪連」と「伊伎」の字を「雪」で飾った。
「宅満」は「宅麻呂」とも書いた。

押見宿禰は、壱岐にある月読神社(つきよみじんじゃ)の祭神を勧請し、
京都の月読神社を創建し、その子孫は卜部氏を称し、代々神職を務めた。
壱岐の卜部は朝廷や斎宮に出仕し、陰陽道の一大勢力を成したという。
月読神社は格式の高い独立した神社であるが、古来、松尾大社の勢力下に
在って、「松尾七社」の一社とされて来た。
その縁であろう、松尾社家系図に依れば、雪連宅満の官位は従五位上、
松尾大社の宮主(みやじ)を務め、月読長官、伊伎(壱岐)島司を兼ね、
神祇官として、卜占(ぼくせん)を行っていたという。

雪連宅満は、「亀ト(きぼく)」という、亀の甲羅を焼いて、そのひび割れの
入り方で吉凶を占う、奈良時代にシナより伝来した卜占術の専門家「卜部」と
して、遣新羅使に随行していたという。
「かめうら」とも言い、亀卜の技法は秘伝であった為に、詳細は不明である。
卜部であれば、天文学の知識も豊富であったろうし、航海をする上で、航海士
や気象予報士のような重要な役割を果たしていたのではなかろうか。

第8記事4
佐賀県HPより、佐賀県重要文化財 牟田寄(むたより)遺跡出土卜骨の画像を拝借。
(獣骨や亀甲を灼き、焼けひびの形状で吉凶を占う卜占(ぼくせん)の内、
獣骨を灼く骨卜(こつぼく)に用いた卜骨)



万葉集に依れば、天平八年(736年)6月に難波津を発った遣新羅使船が
壱岐の島に立ち寄った段階で、雪連宅満は「鬼病(えやみ)」に罹って、
同年11月に死亡したとある。
「鬼病」は当時、邪悪な霊鬼や死神に起因する疫病と考えられていたようで、
宅満の死因は、天然痘もしくは麻疹ではないかと考えられている。


彼は相当に人望の厚い人物であったようで、万葉集巻十五には、
「壱岐島に至り、雪連宅満のにわかに鬼病に遇いて死去の時作れる歌」として、
その死を悼む挽歌が九首(3688~3696)も収められている。


「石田野に宿りする君家人の いづらと我を問はばいかに言はむ」
(3689)
「命を落とし、石田野(いわたの)に留まっている君よ、あなたの家族に
 あなたはどこに居るのかと尋ねられたら、何と答えたら良いのだろうか」
(文責在詠山史純)


「新羅へか家にか帰る壱岐の島 行かむたどきも思ひかねつも」
(3696)
「新羅へ行くか、家に帰ろうか、壱岐の島の『いき』ではないが、
 どのようにして行けば良いのか分からないよ」
(文責在詠山史純)


第8記事5
「壱岐観光ナビ」様のHPより、雪連宅満歌碑の画像を拝借。


壱岐出身の卜部の子孫である雪連宅満が、奇しくも家祖発祥の地で身罷った。
島の人々はルーツを同じくしながら、都人として華々しく出世した彼を
郷土の英雄を迎えるかのように、さぞかし親愛の情を露わに包み込んで
くれたに違いない。
島の人々は墳墓を築き、彼を手厚く葬ったのみならず、信じ難いほどに稀な
厚情であるが、1300年の歳月を経ても尚、彼の命日である11月8日には墓前
で慰霊念仏を唱え、毎月8日にはお参りし、守り続けているということである。




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