華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 大祓詞(おおはらえのことば)…年越しの大祓え

大祓詞(おおはらえのことば)…年越しの大祓え

大祓詞(おおはらえのことば)

                    …年越しの大祓え 



私たち日本人の伝統的な考え方では、日常生活の中で知らず知らずの内に
犯してしまったであろう諸々の罪や過ち、心身の穢れ(けがれ)を祓い(はらい)
清めて、また新たに清らかな気持ちで日々の生活に勤しめるよう、半年毎を
節目と考えるサイクルで、新年を迎える。
6月の大祓(おおはらえ)を「夏越し(なごし)の祓(はらえ)」と呼び、
12月の大祓は「年越しの祓」とも呼ぶが、私たちにとって、その年々の節目は、
自らを振り返る為の良い機会になっている。
日本古来の神道で言うところの「穢れ(けがれ)」は、「キカレ」「気が枯れる」
という意味で、心身共に弱まって、元気が無くなった状態のことを言う。
日本神界の神々は、私たちが日々、明るく元気で心軽やかに過ごされるのを
好まれるようである。
大晦日の今夜は、心にシャワーを浴びるかの様に、御魂をリフレッシュさせて
新年を迎えたいものである。

神前で唱える言葉は「祝詞(のりと)」であり、その根底には言霊信仰がある。
祝詞は平安時代中期に選進された「延喜式」巻第八「祝詞」に収められている
27篇が現代の祝詞の規範となっている。
その「延喜式祝詞」の中でも、現在も奏上され、神聖視されているのが
「大祓詞(おおはらえのことば)」である。


神社450A


「大祓詞」

高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 
たかあまはらに かむづまります すめむつかむろぎ かむろぎの 
みこともちて

八百万神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて
やおよろづのかみたちを かむつどえにつどえたまい かむはかりに 
はかりたまいて

我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂国を 安国と平らけく
あが すめみまのみことは とよあしはらみづほのくにを 
やすくにとたいらけく

知ろし食せと 事依さし奉りき。 
しろしめせと ことよさし まつりき。

此く依さし奉りし国中に 荒振る神等をば 
かく よさしまつりし くぬちに あらぶるかみたちをば 

神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 
かむ とわしに とわしたまい かむ はらいに はらいたまいて

語問ひし 磐根 樹根立 草の片葉をも語止めて
こと といし いわね きねたち くさのかきはをも ことやめて

天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて
あめのいわくら はなち あめのやへぐもを いつの ちわきに 
ちわきて

天降し依さし奉りき。 
あまくだし よさしまつりき。 

此く依さし奉りし四方の国中と 大倭日高見国を安国と
かく よさしまつりし よもの くになかと おおやまと 
ひだかみのくにをやすくにと

定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て
さだめまつりて したつ いわねに みやばしら ふとしきたて

高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて
たかあまはらに ちぎたかしりて すめみまのみことの みづの 
みあらか つかえまつりて

天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安国と平けく
あめのみかげ ひのみかげと かくりまして やすくにと たいらけく

知ろし食さむ国中に 成り出でむ天の益人等が
しろしめさん くぬちに なりいでん あめの ますひとらが

過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 国つ罪
あやまち おかしけん くさぐさの つみごとは あまつつみ くにつつみ

許許太久の罪出でむ。
ここだくの つみ いでん。

此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 
かく いでば あまつ みやごと もちて あまつかなきを もとうちきり

末打ち断ちて 千座の置座に置き足らはして
すえうち たちて ちくらの おきくらに おきたらわして

天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて
あまつすがそを もと かりたち すえ かりきりて やはりに とりさきて

天つ祝詞の太祝詞を宣れ。
あまつのりとの ふとのりとごとを のれ。

此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 
かく のらば あまつかみは あめのいわとを おしひらきて

天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ。 
あめの やへぐもを いつの ちわきに ちわきて きこしめさん。 

国つ神は高山の末 短山の末に上り坐して
くにつかみは たかやまのすえ ひきやまのすえに のぼりまして

高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ。 
たかやまの いほり ひきやまの いほりを かきわけて きこしめさん。 

此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと
かく きこし めしてば つみという つみは あらじと

科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く
しなどの かぜの あめの やへぐもを ふきはなつことのごとく

朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く
あしたのみぎり ゆうべのみぎりを あさかぜ ゆふかぜの 
ふきはらうことのごとく

大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 
おおつべに おる おおふねを へ ときはなち とも ときはなちて

大海原に押し放つ事の如く
おおうなばらに おしはなつ ことのごとく

彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 
おちかたの しげきがもとを やきがまの とがま もちて 
うちはらう ことのごとく

遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を
のこる つみは あらじと はらえたまい きよめたもうことを

高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ
たかやまのすえ ひきやまのすえより さくなだりに おちたぎつ

速川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持ち出でなむ。
はやかわの せに ます せおりつひめ というかみ おおうなばらに 
もちいでなん。

此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す 
かく もちいでいなば あらしおの しおの やおじの やしおじの 
しおのやおあいにます 

速開都比売と言ふ神 持ち加加呑みてむ。 
はやあきつひめ というかみ もち かかのみてん。 

此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神
かく かかのみてば いぶきどにます いぶきどぬし というかみ

根国 底国に気吹き放ちてむ。
ねのくに そこのくにに いぶき はなちてん。

此く気吹き放ちてば 根国 底国に坐す速佐須良比売と言ふ神
かく いぶき はなちてば ねのくに そこのくにに ます 
はやさすらひめ というかみ 

持ち佐須良ひ失ひてむ。 
もち さすらい うしないてん。 

此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと
かく さすらい うしないてば つみという つみはあらじと

祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 国つ神 
はらえたまい きよめたもうことを あまつかみ くにつかみ 

八百万神等共に 聞こし食せと白す。
やおよろづの かみたちともに きこしめせと もうす。
(文責在詠山史純)


※ 私は最後の「白す」の部分を、「畏み畏みも申す(かしこみかしこみ もまおす)」
 と奏上することにしている。


お手水舎450


「大意」

高天原の神々のご意思に依り、豊葦原の瑞穂の国に遣わされた皇祖神の子孫が、
壮麗な宮殿を造り、統治されるようになった。
そこに住む人々は、ついつい様々な罪を犯してしまう。
その時には、高天原の神々が行なったのと同じ遣り方で祝詞を読めば、神々が
きっと聞いて下さる。
そして、強い風が雲を吹き飛ばし、朝夕の風が霧を吹き払うが如く、港の船を
大海原に解き放ったり、繁茂した木々を切り払うが如くに、あらゆる罪を祓い
清めようと、急流に住まう「瀬織津比売」という神が、大海原に罪を持ち去る。
更に、大海原では潮の集まる所に住まう「速開都比売」という神が罪を呑み込んで、
「息吹戸主」という神が息と共に地底の国に吹き放ち、それを地底の国に住まう
「速佐須良比売」という神が持ち流離い、罪を無くして下さることであろう。
このようにして、罪を祓い清めて下さいますよう、神々にお願い申し上げます。
(文責在詠山史純)


神宮450


この大祓詞(おおはらえのことば)の前段では、我が国の建国物語である
天孫降臨神話が描かれている。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)に、葦原中国(とよあしはらのなかつくに)
の統治を委ねられた、御孫の邇々芸命(ににぎのみこと)が天岩屋(あまのいわや)
神話で活躍した神々を従えて、筑紫の日向(ひむか)の高千穂の霊峰に天降り、
太い柱を立て、千木(ちぎ)を高く掲げた壮麗な神殿を建てて、葦原中国を
治める拠点としたという神話である。

後段の「天の益人等が…天つ罪 国つ罪 許許太久の罪 出でむ」からは、
「瀬織津比売(セオリツヒメ)」、「速開都比売(ハヤアキツヒメ)」、
「息吹戸主(イブキドヌシ)」、「速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)」、
四柱の祓戸(はらえど)の大神たちが、人の犯した罪を祓い清める様子が
描かれている。

先ずは、「天津金木(あまつかねぎ)」という祓物である宝具が用意され、
高天原から伝えられた「大祓詞」を唱えると…。
①「瀬織津比売」という女神が、罪・穢れを川から海に持ち出す。
②「速開都比売」という女神が、海で全ての罪・穢れを飲み込む。
③「息吹戸主」という男神が、罪・穢れを根国(ねのくに)・底国(そこのくに)
に霧状にして、吹き払う。
④「速佐須良比売」という女神が、全ての罪・穢れを引き受けて、
遠くに持ち運ぶ為に流離う。
こうして、四柱の祓戸の大神たちが、人の罪・穢れを消し去って下さると
いうのであるが、古代の人々は、何と発想が豊かであったことか。

私は、この「大祓詞」の「罪と言ふ罪は在らじ」「遺る罪は在らじ」との
フレーズが好きである。
祓えない罪・穢れなど無いのだと心機一転、不如意な過去を引き摺ることなく、
ポジティブシンキングで、いつでも再スタート地点に立てる気がするのである。

フレーフレー!






スポンサーサイト

テーマ : 宗教・信仰 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2016/12/30 23:45 | 天神地祇COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

コメント

コメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

 | BLOG TOP |