華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 イエローファイター菅野直海軍大尉 …荒ぶる魂の光芒

イエローファイター菅野直海軍大尉 …荒ぶる魂の光芒

イエローファイター菅野直海軍大尉               

                  …荒ぶる魂の光芒


菅野直海軍大尉(海軍兵学校70期)は士官パイロットとして、
「ラバウルの貴公子」「ラバウルのリヒトホーヘン」と称えられた
台南航空隊の笹井醇一中尉(海軍兵学校67期 
1942年 昭和17年8.26戦死 享年24歳)
に次ぐ撃墜数を誇るとされている。



※ リヒトホーヘンは第一次世界大戦でのドイツの撃墜王 80機撃墜
搭乗機を真っ赤に塗装していたことから、「レッド・バロン」
 「赤い男爵」と呼ばれた。 プロシア貴族の出身。 享年25歳
 騎士道精神を発揮した紳士的な戦い振りは、敵軍からも賞賛されたとのこと。


菅野直大尉の撃墜数は、個人・協同を含めて、72機。
搭乗機種は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、局地戦闘機紫電改。

1963年に公開された東宝映画「太平洋の翼」の劇中では、加山雄三さん
演じる瀧司郎大尉として、菅野大尉が描かれている。



僕が、彼に関心を抱いた切っ掛けは同姓ということもあるが
1944年 昭和19年10月、フィリピン レイテ海戦で開始された
特攻作戦に於ける最初の特別攻撃隊隊長の人選に当たり、
最も相応しいとして、最初に名を挙げられたのは、
実は菅野大尉であったということを知ったからであった。

しかし、その時、彼は所属部隊であった第201航空隊が受領するゼロ戦の
テスト飛行の為に、群馬県太田市に在った中島飛行機小泉製作所に
出張中であったので、フィリピン戦線には居なかった。
そういう経緯があって、実際には菅野大尉と海軍兵学校同期の関行男大尉が
神風特別攻撃隊「敷島隊」の指揮官に任命されたのだった。

後にその経緯を聞いた彼は
「俺が関のところをとるんだったんだがなぁ…」と呟いたというが、
その心境はとても計り知れない。

その後、彼は直掩隊(ちょくえんたい)の指揮官として、
特攻隊を敵機動部隊上空まで護衛し、特攻の戦果を確認する任務に就いたが、
出撃に際しては部下にも落下傘の装備を禁止したそうである。
特攻隊を戦場に送り込み、戦果を確認するという任務の哀しみが
伝わって来るような逸話ではないか。

彼は「猛将」と渾名されたそうだが、その猛々しいまでに破天荒で
勇猛果敢な戦い振りは、想像するだけでも鳥肌が立つ。

B-24_convert 400

南方戦線では米陸軍爆撃機コンソリデーテッドB-24リベレーター攻撃に
際して、自機ゼロ戦の主翼を相手機の垂直尾翼に打ち付けて破壊し、
撃墜したこともあったという。 正に、体当たり攻撃である。
B-24の尾翼の形状は特徴的で、双垂直尾翼であり、水平尾翼の先端に
垂直尾翼が装備されていたので、なるほど、ゼロ戦の主翼で引っ掛ければ、
吹き飛ばせたであろうことは想像に難くない。

B-29-400

戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスに対して、
彼が編み出した戦法がまた狂おしいほどに凄まじかった。
B-29邀撃に際しては、B-29の進行空路の延長線上で、
高度を敵機より上方に取り、真逆の進路を進んで接近する。
接近した時点で、搭乗機紫電改を背面の体勢とし、
衝突寸前のタイミングでB-29のコックピットを狙って、
20mm機銃を掃射しながら、急降下する。
急降下しながらであるから、弾道が流れたことだろうが、
射角を広く取れるので、命中率は高かったのではないか。
B-29のパイロットからすると、眼前に紫電改が腹を見せながら、
真上から降ってくるように見えたことになる。
これは、正気の沙汰ではない。

彼の搭乗機の胴体には、指揮官認識マークとして、
黄色い帯が描かれていた。
彼の勇猛果敢な戦い振りを見た米軍パイロット達は、
彼を恐れて、「イエローファイター」と渾名したとのことだ。

菅野直大尉愛機仕様400


彼は宮城県角田の出身で、旧制中学時代は石川啄木に傾倒して
文学サークルを作ったほどの文学少年であったそうだ。
当時を知る人々の証言では、勇猛果敢な撃墜王のイメージは
少年時代の彼からは遠く掛け離れたものであったらしい。
その片鱗を見せ始めたのは、きっと海軍兵学校を卒業後、
戦闘機専攻学生として配属された大分海軍航空隊での
飛行訓練からではないか。
教官機との模擬空中戦でも衝突寸前の荒々しい飛行などをして、練習機を何機も
壊してしまい、そんなことから「菅野デストロイヤー」と渾名され、
他の基地にまでその名が知れていたとのこと。

上官を打ん殴ったり、343空では夜毎、女の肌を求めては基地を
抜け出したなどの破天荒なエピソードも多々伝えられている。
絶望的な戦況の中で日々、死と隣り合わせで戦い抜いた23歳の青年である。
飛行隊指揮官の重圧は、如何ばかりであったことだろうか。
滅茶苦茶したのは、無理も無い。
高杉晋作の「狂うことよ」の言葉を思い出す。

第343海軍航空隊(通称 剣部隊)では、
戦闘301飛行隊(通称 新撰組)の隊長であった。

1945年 昭和20年8月1日
九州に向けて北上中のB-24邀撃の為に、
隊長菅野大尉以下20数機の紫電改が大村基地を出撃。
屋久島近海上空にB-24の編隊を発見して、
敵上方から急降下で突撃を始めた時に
「われ、機銃筒内爆発す。われ、菅野一番」との
無電があったそうだ。
彼の二番機であった堀光雄飛曹長の回想に依ると、
菅野機の左翼、日の丸の右脇に大きな破孔が確認出来たとのこと。

坂井三郎氏の証言では、20mm弾は初速が遅いが、
当たれば翼を捥ぎ取るほどの威力があったそうだ。
その20mm弾が暴発したのだろうか。

菅野機の2番機であった堀機は、彼の護衛に就こうとしたところ、
戦闘空域に戻るように鬼の形相で拳を振り上げて怒られたことから、
堀機は泣く泣く命令に従い、戦闘に戻ったそうだ。
その後、彼から「空戦止め、全機集まれ」との無電が入り、
菅野機がいると思われる空域に向かう途中で、更に「われ、機銃筒内爆発す。
諸君の協力に感謝す、われ、菅野一番」と入電したのが最後であったそうだ。
その後の消息は判らない。

彼の戦死から9日後の8.10付で、343空飛行長志賀淑雄少佐が
戦死状況を記録する「見認証書」を認めた。
それに依ると「10時15分、高度6千メートルの優位より
P-51 6機の奇襲を受け、壮烈なる戦死を遂げたり」とある。

P-51 400

ノースアメリカンP-51ムスタングは、最高のレシプロ機と評価されており、
戦後、アメリカで試乗した坂井三郎氏がその性能を絶賛しているほどである。

米軍側の記録ではこの日、4機のP-51が九州西南の海面上空で、B-24を
攻撃していた陸軍の四式戦闘機「疾風」を4機撃墜したとある。
米軍では、紫電改にはジョージ、疾風にはフランクとニックネームを付けて
いたそうだ。
この日、陸軍航空隊の疾風は出撃していなかったことから、
機種の識別を誤認して報告した可能性もある。
301飛行隊の損害は3機であったことからすると、米軍側の撃墜報告4機ではあるが
この戦闘であったことは間違いないのではないか。

でも、僕は、彼は撃墜されたのではないと想像している。
彼の最後の無電で再び「われ、機銃筒内爆発す」と言っている。
その後に「諸君の協力に感謝す」と、死を決しての訣別の言葉を続けている
ことから、撃墜されたのではなくて、再度20mm弾が暴発したか、
機体の損傷の具合が絶望的な状況に至ったのではないかと想像している。
そして、きっと彼は、直掩隊として実見して来た特攻機の最期のように
海面に突っ込んで自爆したのだ。

さぞや無念であったろうと思われることは、この日の搭乗機は
彼の愛機「343-A-15」ではなくて、どういう理由か、
「343-A-01」であったことである。

菅野直大尉搭乗機400


菅野 直大尉の名相には、全体運たる総格33が表われている。
運数33は、帝王として、人の上に立つという、天下に名を成す
頭領運を暗示する大吉数である。 
姓名学で頂点を極める数とも言える。
しかし、強過ぎる暗示を持っていて、盛運の絶頂に在っても、
剛毅果断過ぎて、一気に転落してしまう可能性のある危うさを秘めている。
極盛と極衰の二面性を同時に蔵しているのだ。

また、副運たる外格には15の徳望運が表われていて、
厚い人望を得て、人の上に立つことに依って、
更に尊敬されるという指導者の資質が暗示されている。

彼は指導者として優れていただけではなくて、
一戦闘者として、有能であったが故に気難しい
歴戦の下士官パイロットにも慕われたのであろう。

終戦後の9月20日、正式に8月1日の戦死が認定され、
二階級特進で中佐に昇進した。
8月1日は、終戦の僅か二週間前である。

彼の荒御魂(あらみたま)はきっと、
天に召されて安らいでいるに違いない。


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2010/09/10 23:49 | 随想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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