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ジャップとは呼ばせない! …米陸軍日系二世部隊 忠誠の証

 2010-09-17
ジャップとは呼ばせない! 

…米陸軍日系二世部隊 忠誠の証



442の20

第二次世界大戦時、ヨーロッパ戦線で最高の殊勲を挙げたアメリカ陸軍部隊は
どの部隊かと言えば、それは日系二世部隊である第100歩兵大隊(100th
Infantry Battalion)、第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)
であると言っても過言ではあるまい。
彼らは祖国アメリカ合衆国に忠誠を誓い、父祖の祖国である日本、及びドイツ、
イタリアの枢軸国と戦った。
我ら日本人からすれば、敵国の兵士達であった訳であるが、彼らの祖国アメリカからは
敵性外国人として扱われ、財産を没収された上、生まれ育った土地を追われ、
日系人強制収容所に隔離されるという屈辱の中、白人種以上に勇戦することで、
自らが国家に忠誠を誓うアメリカ人であることの証を立てるべく、父祖から
受け継いだ大和魂を発動させ、延べ死傷率314%(延べ死傷者数9,486名)という
多大な犠牲を払い乍らも、激戦を勇猛果敢に戦い抜いた彼等3万3千名の
日系二世兵士達を、同じ民族の血を引く者として、私は誇りに思うのである。

442の19
名誉勲章

アメリカ合衆国への日本人の移民は、ハワイ準州(統治領)、カリフォルニア州への
移住が圧倒的に多かった様であるが、1885年のハワイ移民を皮切りに、19世紀以降、
日本政府も積極的に移民政策を推進した結果、アメリカに於ける日系人の人口が
急激に増加したのは、20世紀初頭であったという。

442の18

日系人は主に農業に従事、劣悪な環境や白人からの差別をも克服して、
開拓に奮闘し、細やかな管理を必要とされる果実栽培などの分野を中心に、
見事に頭角を現わす様になると、特に西海岸地帯では激しい排日感情に
晒されたという。

442の17
エグゼクティブ・オーダー№9066

1941年12月7日(現地日付)日本海軍に依って、ハワイ真珠湾の
海軍基地が奇襲攻撃されると、日系人は「敵性外国人」として、
厳しい監視の対象となった。

翌年の1942年2月19日、偏狭な人種差別論者で、特に日本を蔑視
していたフランクリン・ルーズベルト大統領はエグゼクティブ・オーダー
№9066に署名し、裁判や公聴会の承認を得る必要無く、特定地域から
日系人を排除出来るという絶大な権限を陸軍に与えた。
このことに依り、日系人達は財産を没収された上で、強制立ち退きを
強いられ、12万人が全米10ヶ所に設置された日系人強制収容所に
収容されたのである。

442の16

442の15

注目すべきは、ハワイ日系人とアメリカ西海岸居住の日系人とでは、
地域社会での地位や取り巻く環境が著しく異なったことであろう。
ハワイ準州では人口の40%を日系人が占め、築き上げたそのプレゼンスの
大きさから、日系人をハワイから排除しては、ハワイ社会自体が成り立たず、
ましてやハワイ防衛そのものが不可能であることをハワイ地区司令官
ディロス・C・シモンズ中将でさえもが認識していたという事情から、
ハワイ当局は日系人会幹部や僧侶などのリーダー的存在であった数百人程度を
強制収容したに止まり、ハワイ日系人本土移送案は潰えたのであった。

アメリカでは戦雲急を告げていた真珠湾攻撃の前年、1940年11月に
全米で徴兵制度が再導入されていた。
当時、日系人はハワイ全人口の37.3%を占めており、白人の24.5%を超えて、
人口比率トップであった為、徴兵されたハワイ統治領防衛兵3000人の約半数が
日系人であったという。
当時、米国軍部が抱えていた不安は、日本軍のハワイ侵攻であり、西海岸への
侵攻であった。
日本海軍の機動部隊はミッドウェー海戦での敗北まではニミッツ提督率いる
米海軍太平洋艦隊を遥かに上回る戦力を保持していたことから、日本軍の
ハワイ上陸作戦は現実的に起こり得るものと想定されていたのであった。
ハワイ準州の各島では日系人兵士が沿岸警備に当たっていた訳で、仮に日本軍が
上陸作戦に際し、米軍の軍装をした特殊部隊を潜入させた場合などには、敵味方の
識別さえ困難となり、甚だしく混乱を来たすであろうことが予想され、米軍は
防衛上の危惧を抱いていたのであった。
そこで、ハワイ地区司令官シモンズ中将はワシントンの陸軍省に、日系二世兵士だけを
一極集中させることを提案し、受諾されたのであった。

442の14

1942年5月、現役の日系二世兵士約1400名はオアフ島に在るスコフィールド陸軍基地に
集められ、武装解除された上で、日系人兵士の「ハワイ緊急大隊」が組織された。
その後、軍の機密扱いで極秘裏に、米本土オークランド港に移送され、ウィスコンシン州の
キャンプ・マッコイに駐屯して、基礎訓練を受けることになった。
この段階で、彼ら1400名の日系二世兵士達はどの師団、どの連隊にも属さない
日系人のみの独立大隊として編成されたことを知ったのである。
米陸軍史上、同一民族だけで編成された唯一の部隊「第100歩兵大隊」の誕生である。
但し、大隊長以下三名の幹部将校は白人であった。

442の13

この「第100」をどう理解すべきか。
米陸軍では通常、歩兵3個大隊で歩兵連隊を編成するものなのである。
であるからして、第4大隊、第5大隊さえも存在しないにも拘わらず、
「第100歩兵大隊」とは、どういう意図の下に命名されたものなのか。
実は、この「第100」は蔑称であり、上部組織の「連隊」を持たない
「私生児大隊」であり、「誰も欲しがらない」「お前達などは要らない」
という悪意が込められていたと言われる。
隊名自体が差別の象徴であった訳で、これが深刻な差別と偏見に
晒されていた日系人達を取り巻く現実であったのである。

米軍上層部は編成当初、日系人部隊を戦力としては左程期待していなかった
節がある。
そもそも、白人に比べて貧弱な体躯であり、平均身長は5ft3in約160㎝に
過ぎなかったのである。
ところが、キャンプ・マッコイでの訓練が開始されると戦闘訓練に於いても、
座学に於いても抜群の成績を表わし、彼らの訓練振りを視察した将校には
「今までに訓練したどんな100人よりも、彼らのような100人を部隊に持ちたい」
とまで高い評価を受けるに至り、精鋭部隊の呼び声が高まったという。
1943年2月にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーに移駐した。
ここが、日系二世部隊のメッカとなったのである。

第100大隊の兵士達は基地外での喧嘩でも実力を発揮したという。
「ジャップ!」と侮蔑の言葉を吐いたテキサス第2師団との大乱闘で白人兵士
38名を入院させるに至ったが、日系二世側はMPに暴行された1名が入院した
だけであったというから、実に痛快である。
日系二世の多くに、柔道や空手など、武術の心得があったという。

442の12

第100大隊の日系二世兵士達の士気は高まり、参戦への機運が高まっていたにも
拘わらず、日本を毛嫌いしていた人種差別論者のルーズベルト大統領は
日系二世部隊を編成はしたものの、彼らを前線に投入することは躊躇っていたと言われる。
連合国軍最高司令官アイゼンハワー陸軍大将もまた、日系二世部隊の前線配備には
消極的であったと伝えられている。
それに対して、そもそも日系人の隔離政策には懐疑的であったという陸軍参謀総長の
ジョージ・C・マーシャル大将や海軍のニミッツ提督は日系二世部隊の参戦を
容認していたことから、ルーズベルト大統領も第100歩兵大隊の派遣を決断せざるを
得なかったのである。

1943年8月20日、1年3ヶ月もの長い期間の訓練を経て、遂に第100歩兵大隊は
勇躍、待望の出征を果たした。
これで、自分達日系二世は敵性外国人ではなく、星条旗に身命を捧げ、忠誠を尽くす
アメリカ市民であることを、ヨーロッパ系アメリカ人以上に勇猛果敢に戦うアメリカ人で
あることを実証出来るチャンスを得たと喜び勇んだのであった。

9月2日、北アフリカアルジェリアのオランに上陸。
所属連隊の無い独立大隊であるので、どこかの連隊に編入されない限りは
前線には出られないのであるが、「ジャップが何で、こんな所に居るのだ!?」という
奇異な視線と激しい差別を浴びて、受け入れ先の連隊が見付からず、司令部は
北アフリカの鉄道守備を打診して来たという。
しかし、後方勤務では戦功を得て、忠誠の証を示し難いのである。

司令部の意向に対して、大隊長のファラント・L・ターナー大佐が飽くまでも
前線への配備を繰り返し強く求めた結果、第34師団のライダー少将が受け入れる
ことになり、第100歩兵大隊は第5軍第34師団第133連隊の傘下に編入され、
イタリア戦線に投入されることになったのである。

1943年9月22日、イタリアのサレルノに上陸。
彼らはモンテ・ミレト攻略戦に参加、この初戦から激戦に見舞われ、上陸から
一週間で戦死者3名、負傷者36名の損害を出すに到った。

442の11

第100歩兵大隊が遭遇した敵は、ドイツ空軍のエリート部隊として名高い
降下猟兵(空挺兵=パラシュート降下兵)であり、その中でも精鋭中の精鋭で
知られた第1降下猟兵師団という強敵であったのである。
装備にしても、降下猟兵部隊はドイツ軍の最も優秀な武器を供給され、FG42
自動小銃などが配備されていた。
降下中にパラシュートの紐が引っ掛からないように、標準型の庇や膨らみを
切り詰めた形状の特殊なヘルメットを装備していたので、降下猟兵部隊であることは
一目瞭然であった。

442の10

第5軍は米英混成であったが、友軍がドイツ降下猟兵部隊の猛攻に戦線を
維持出来ずに放棄、撤退する中で、第100歩兵大隊だけは頑強に前線を維持し続け、
遂には勝利に導いたのであった。
彼らは「前線で、決して振り返らない兵士」と讃えられ、その勇敢で献身的な戦い振りは
新聞で大きく報道されたのであった。

442の9

サレルノからアリーフェに到る100kmの進軍で、第100歩兵大隊は
常に第133連隊の斥候役で先鋒を務め、約100名の死傷者を出した。
この戦いでは、連隊全体での死傷者が多かったことから、日系兵士を理解、擁護し
続けた大隊長のターナー大佐は、その責任を問われて解任されてしまった。

この後、第100歩兵大隊はドイツ軍の防衛線を突破すべく、ナポリ・フォッジア作戦に
投入され、11月3日にナポリ南方のボルツレ川敵前渡河を敢行した。
この一連の戦いで、第100歩兵大隊は約140名の戦死者を出し、入院戦傷者は
400名を越えるという大損害を被ったのである。
大隊6個中隊の内、2個中隊を失うほどの犠牲を払った。

この激戦の最中、後に日系二世部隊の代名詞となる「バンザイ攻撃」が
初めて行われたと言われる。
銃剣を着剣して、全力で敵に肉薄する突撃を中隊規模で行った戦法であり、
日本軍の自殺を目的としたような玉砕戦法とは違った。
切っ掛けは、ドイツの狙撃兵と対峙したある日系兵士のライフル銃が故障したのか
不発で、彼は咄嗟の決断で勇敢にも傍にあったスコップを振り上げて突進したところ、
そのドイツ兵は銃を捨てて逃げ出したことに依るとも言われている。

日系二世部隊の有名な合言葉、「Go for broke!」は、「撃ちてし止まむ」などと
堅く和訳しては、彼らが語っていたニュアンスからは遠ざかるような気がする。
「当たって砕けろ!」の意味で間違いは無いのであろうが、実は、日系ハワイアンは
相当な博打好きであったようで、元来、有り金総べてを注ぎ込むということを意味する
ギャンブル用語であったということから悲壮感漂うというよりも、むしろハワイアンの
楽天的な陽気ささえ込められている言葉のような気がする。

442の8

1944年1月17日、ローマ進攻の前哨戦として、ドイツ軍の防衛線を突破すべく、
第100歩兵大隊も連合軍の第一次総攻撃に参加したが、ドイツ軍は機甲師団、
降下猟兵師団、重砲隊など圧倒的な戦力で頑強に抵抗し、連合軍は敗退したが、
第100大隊は両翼のイギリス軍、自由フランス軍が総崩れとなり、前線で孤立するという
極限状況の中でも戦い抜き、連合軍唯一の橋頭堡を維持し続けたのである。
この有名なモンテ・カッシーノの激戦で、第100歩兵大隊は負傷率97%、
死亡率50%という大損害を被ったのであった。
通常、軍隊の常識として、負傷率60%は全滅扱いで戦闘続行不可能と判定され、
部隊の再編成が為されるものなのである。

1944年3月26日、転戦を命じられた第100歩兵大隊は、連合軍が攻めあぐね、
膠着状態となっていたアンツィオの戦いに参加し、ローマ進攻の先兵役を務めて、
ローマの手前10km地点まで進軍したが、彼らにローマ進攻一番乗りの手柄を
挙げさせたくなかったようで、そこで待機命令が下った。 
ローマ解放の栄誉を、どの部隊に与えるかという司令部の政治的判断が
働いたとされている。
それでも第100歩兵大隊は、イタリア戦線で最初にアメリカ合衆国大統領から
表彰されるという栄誉を得たのである。

442の7

時間は遡るが、1943年2月、ルーズベルト大統領は、将校は白人とすることを
条件として、日系人志願兵からなる連隊規模の部隊編成が発表された。

こうして、ハワイから約2600名、米本土の日系人強制収容所から約800名の
日系二世志願兵達が第442連隊に入隊した。
当初はハワイ出身者と本土出身者間での対立があったそうであるが、これは双方を
取り巻くアメリカ社会の相違が意識の温度差を生んだものであったろうことは
想像に難くない。
本土出身者にしてみれば、自分達を強制収容所に送り込んだ、その国に忠誠を誓って
戦う訳で、親兄弟は依然として檻の中で屈辱的な生活を強いられていたのであるから、
複雑な心理状態であったことは無理もない。

この第442連隊の軍制上の編成も、第100歩兵大隊同様に、通常の部隊編成とは
明らかに異なっていた。
部隊名は連隊であるが、歩兵連隊を中核にして、砲兵大隊、工兵中隊を加えた
独立連隊であり、独立戦闘可能な部隊であることから、第442連隊は独立戦闘可能な
師団編成に近く、
第442連隊コンバット・チーム、第442連隊戦闘団と呼ばれるに相応しい。
また、第100歩兵大隊が徴兵に依る編成であったのに対して、第442連隊は
志願兵に依る編成であったことが特徴的である。


この第442連隊はイタリア戦線に出撃し、1944年6月には第100歩兵大隊が編入され、
第一大隊扱いで統合された。
ここで、日系二世部隊が合流を果たしたのである。
但し、その戦功に敬意を払い、第100歩兵大隊の名称はそのまま継続して
使われることになる。

442の6

イタリア北部での戦闘を経て、1944年9月にはフランスに転戦、アルザス地方の
山岳地帯で戦闘を繰り広げた。
この9月、連合軍の伸び切った前線に戦車軍団を先頭に突破するというドイツ軍の
大反攻作戦に遭い、この不意打ちのバルジの戦いで兵站線が寸断され、各地の部隊は
孤立して、連合軍は大混乱に陥った。
この戦況の中で急遽、第442連隊はフランスの山間都市ブリエラの解放を命じられ、
フランスに向かったのである。

442の5

テレビドラマ「バンド・オブ・ブラザース」で名高い、第101空挺師団
506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊が、退却して来る友軍に逆行して、
不充分な装備のまま、ベルギーのバストーニュの森に向かったのと同じ事情である。

ブリエラで第442連隊を迎え撃ったのは、周囲の高地と市街に陣地を構築した
降下猟兵部隊と武装親衛隊のドイツ軍精鋭部隊であった。
山岳森林地帯であったことから戦車を投入出来ず、歩兵のみの攻撃に依るしかなかった
ことから、損害は甚大であった。
特にこの年のヨーロッパは、数十年に一度という大寒波に見舞われ、食料、弾薬などの
物資も不足し、援軍もない悪条件の中で彼らは孤立無援の戦いを強いられたのであった。

442の4

10月19日、強力な火砲に晒され、死傷者続出の中でも怯むことなく、第100歩兵大隊を
先頭に、高地に陣を敷くドイツ軍への突撃を敢行し、これを撃破、翌10月20日には
壮絶な市街戦の末に、ブリエラの町の解放を見事に果たしたのであった。
ブリエラ市民達は第442連隊の戦功を讃え、感謝の念を込めて、街から森へと向かう
通りの名称を「442連隊通り」と改称し、その記念碑には「国への忠誠とは、
人種の如何に関わらないことを改めて教えてくれた米陸軍第442連隊の兵に捧げる」と
刻まれているという。

10月24日、ブリエラ解放直後に第34師団141連隊第1大隊、通称テキサス大隊が
ドイツ軍に包囲される事態が起こり、彼らを救出することは最早困難であると
判断された為に「失われた大隊」とまで呼ばれるようになった状況下翌10月25日に
ルーズベルト大統領直々、テキサス大隊救出命令が第442連隊に下され、
休養不充分なままにボージュの森に出撃し、ドイツ軍と激しい戦闘を
繰り広げたのであった。
強力な火砲を浴びながら、ボージュの森を6日間も駆け抜け、第442連隊第3大隊
I中隊がテキサス大隊を救出した時には、中隊185名中、僅か8名しか残って
いなかったという激戦を戦い抜いたのである。
文字通り、中隊全滅の犠牲を払ったのであった。
この戦闘は後に、米陸軍史上の十大戦闘の一つに挙げられることになったほどの
大激戦であったということである。

442の3


テキサス大隊の211名を救出する為に、第442連隊の日系二世兵は約800名もの
死傷者を出したのである。
それにも拘わらず、テキサス大隊のバーンズ少佐は「ジャップ部隊なのか?」との
言葉を吐いた為、日系二世の少尉は激怒し、「俺達はアメリカ陸軍442部隊だ!
言い直せ!」と掴み掛かり、バーンズ少佐は少尉に対して謝罪し、敬礼したとの
エピソードが残っている。
軍隊では、下位の階級にある兵士からの敬礼に、上官は返礼するが、上官から先に
敬礼することは有り得ない。
これは最大級の敬意の払い方であったと言えるのである。

ブリエラの山岳戦からテキサス大隊救出戦に到る1ヶ月の戦闘で第442連隊は
戦死者216名、負傷者856名という多大な犠牲を払い、戦力は半減したのであった。
テキサス大隊救出後、ダールキスト少将が部隊を閲兵した際に、少将は「部隊全員を
整列させろといったはずだ!」と文句を垂れたそうで、連隊長代理のミラー中佐は
「目の前に居並ぶ兵が全員です」と答えたというエピソードが残されている。
第36師団編入時には約2800名であったものが、1400名に半減していたのであるから、
この損害率は常識を超えていた訳である。

部隊の再編成を行った第442連隊はイタリアに移動し、そこで終戦を迎えた。
連隊の一部、野戦砲兵大隊はドイツ国内に進攻し、ミュンヘン郊外ダッハウの
強制収容所を解放したが、これが日系二世部隊の戦功であったという事実は、
1992年まで公表されることはなかったという。

第100歩兵大隊を含めた第442連隊の個人叙勲総数は1万8000個で、
米陸軍部隊史上第1位である。

「大統領部隊感状」は7枚で、米陸軍部隊史上最多受賞部隊である。
7度目の「大統領部隊感状」は米陸軍史上初めて、トルーマン大統領が
自らの手で連隊旗に取り付けたのであった。

442の2


累積死傷率320%も、米陸軍部隊史上、第1位である。
約1400名の第100歩兵大隊は900名以上の死傷者を出し、第442連隊に編入され、
その後、連隊は約680名が戦死、不明67名、負傷9486名の凄まじい犠牲を払ったのである。

トルーマン大統領は全米に向けた演説の中で、「戦中、我々は日系人に対して
不当な差別を与えてしまった。これはアメリカ史上に於ける最大の汚点であり、
反省しなければならない過去である。それに気付かせてくれたのは第442連隊の
勇敢な日系兵士達であり、彼らには特別の感謝の気持ちを伝えたいと思う」と語った。

しかし、このように日系二世部隊が壮絶な犠牲を払い、アメリカ陸軍史上、
類を見ないほどの輝かしき武勲を挙げ、祖国への忠誠を証明したにも拘われず、
戦後のアメリカ社会でも日系人達への差別や偏見に変わりはなく、家も財産も
奪われたままに職も無く、復員兵達の悪戦苦闘は続いたのであった。
彼らがアメリカ市民として、「模範的なマイノリティー」として、正当な評価を
受けるには、公民権運動が高揚した1960年代の到来を待たなければならなかったのである。


ロナルド・レーガン大統領は、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と戦い、
その両方に勝利したのだ」と彼らの殊勲を讃えた。

442の1

アメリカ陸軍では、彼ら日系二世部隊第442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は
必修課程となっているという。













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