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社名(商号)変更の歴史夜話(59)…森下仁丹㈱

 2017-07-16
社名(商号)変更の歴史夜話(59)

…森下仁丹㈱



我が国では1980年代、社名(商号)を変更する企業が急激に増加した。
「早稲田商学」357号(1993年7月)所収論文「社名変更に対する株式市場の反応」
の研究に依れば、「1981年4月から1992年3月までに,東証1部上場企業で
社名を変更した企業は175社に及ぶ」とのことである。

企業は様々な理由で、社名を変更する。
社名変更の主な理由としては、「事業の多角化や業態の変更、事業領域の拡大」、
「合併や吸収」、「略称や通称への変更」、「ブランド名への変更」、「イメージ刷新」、
「系列や傘下入り」等が挙げられる。
何れにせよ、企業は経営全般の革新、イメージの向上、社内の活性化など、
何らかのプラス効果を期待し、社名変更を行なうはずである。

相と実体は相関関係にあり、人物の名相にその後天運が暗示されている様に、
会社名(法人名、商号、屋号)の名相にも、その企業の栄枯盛衰の有り様が
暗示されている。
不思議なもので、成功する企業は自ずと吉祥名を選定する様になっている。



森下仁丹㈱

明治26年(1893年)、森下博氏が大阪市で、薬種商「森下南陽堂」を創業。

明治33年(1900年)、笹川三男三(ささがわみおぞう) 医学博士の処方に依る
梅毒薬「毒滅」を発売。
梅毒が猛威を振るっていた当時、このプロイセン宰相ビスマルクを商標にした
梅毒薬「毒滅」は画期的な新薬として注目され、この成功で「森下南陽堂」の
販売業績が軌道に乗り始めたという。

明治38年(1905年)、「森下博薬房」と改称。
懐中薬「仁丹」(赤大粒)を発売。


第95記事1
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


大正10年(1921年)、梅毒薬「毒滅」を処方した笹川三男三博士は、
北里柴三郎博士、体温計製造の竹内製作所社長竹内英二氏らと共に、
「赤線検温器株式会社」(現在のテルモ株式会社)を設立。

大正11年(1922年)、森下博氏は、「赤線検温器株式会社」が体温計
「赤線検温器」を発売するに当たり、出資。

因みに、「赤線検温器」は、昭和11年(1936年)に「仁丹体温計」と改称し、
更に昭和38年(1963年)、「仁丹テルモ」と改称。
「テルモ」の名は、ドイツ語で体温計を意味する「テルモメーター」
(Thermometer)に由来するという。


昭和2年(1927年)、「赤小粒仁丹」を発売。

昭和4年(1929年)、「銀粒仁丹」を発売。

昭和11年(1936年)、「森下仁丹株式会社」を設立。


第95記事明治40年1907年大阪駅前の大広告塔
明治40年(1907年)大阪駅前の大広告塔
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


創業者の森下博氏は、類い稀なる優れた発想力や天性の事業手腕、管理能力、
成功運に恵まれた人物であったに違いない。
「仁丹といえば広告」との定評がある程に、明治年間の「森下博薬房」時代から、
瞠目すべきダイナミックな広告宣伝戦略を展開し、その販売方式もまた、実に
ユニークであった。

薬種商「森下南陽堂」創業当時、25歳の若き森下博氏は事業の基本方針として、
①原料の精選を生命とし、優良品の製造販売。
② 進みては、外貨の獲得を実現し、
③広告による薫化益世を使命とする。
との3ヶ条を掲げたという。
如何にも、明治青年の清新な気概が迸っているかの様である。

この3条目の「広告による薫化益世を使命とする」の条であるが、企業が
営業利益を追及する為の広告宣伝を、尚且つ「世を益する」こととして、
具体的に実践するのは難しい。

しかし、優れたアイデアマン率いる「森下南陽堂」「森下博薬房」「森下仁丹」は、
奇想天外な方法でこれを遣って退けたのである。

明治40年(1907年)、大阪駅前にイルミネーションで飾られた大広告塔を
建築したが、これは都市の新名所作りをも意図したものであるという。
その後、順次、他の都市でも大広告塔が造られた。

明治43年(1910年)、当時、町名の表示板が無く、来訪者や郵便配達人でさえもが
道に迷い、苦労していた事情に鑑みて、大礼服マークの入った仁丹町名看板を
掲げ始めたという。
大阪、東京、京都と、先ずは都市部から掲示を始め、やがて、この仁丹町名看板は
全国津々浦々にまで行き渡ったという。

大正3年(1941年)、「天は自ら助くる者を助く」等、5000種もの古今東西の金言を
新聞広告や電柱広告、看板などに書き込んだ「金言広告」を開始し、学校等から
感謝状を寄せられる程、世に好評を博したという。


第95記事1910年頃仁丹町名看板
明治43年(1910年頃)「仁丹町名看板」
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


「広告益世」の事例ではないが、「森下南陽堂」「森下博薬房」「森下仁丹」の
主力商材は安価で小粒なのにも拘わらず、広告戦略、販売戦略の視野が広く、
とにかくスケールが大きい。

1900年(明治33年)、梅毒薬「毒滅」の発売に当たっては、森下博氏は
家財の一切を広告費に注ぎ込み、日刊紙各紙に全面広告を出し、更に全国の
街角の掲示板にポスターを貼り出したという。


「仁丹」の販売に際しては、全国の薬局に突き出し屋根看板や幟、自動販売機に
至る迄を設置し、日刊紙各紙に全面広告を連続掲載した。
その結果、「仁丹」は発売僅か2年で、売薬の売上高第1位を達成したという。


明治38年(1905年)の「仁丹」発売開始の僅か2年後、明治40年(1907年)には、
「森下博薬房」に輸出部が開設され、海外市場開拓作業が開始された。
販売委託した先方に「仁丹」を送付する、通信委託販売システムが考案され、
海外市場開拓の手始めに、明治41年(1908年)には、中国全土4000ヵ所の
郵便代弁処(郵便局)に「仁丹」の現物と宣伝ビラを小包で送り、委託販売を依頼。 
天津、漢口、上海には出張所を開設。

明治44年(1911年)にはインド、大正4年(1915年)にはインドネシア、
ハワイ、チリ、その後も順次、タイ、フィリピン、シンガポール、マレーシア、
エチオピア、モンバサ、ウガンダと南米やアフリカに至る迄、輸出されたという。


第95記事大正6年1917年仁丹金言看板
大正6年(1917年)「仁丹金言看板」
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借


大正11年(1922年)、「赤線検温器」(体温計)発売開始当初、「売薬屋の体温計」と
揶揄され、売上げ不振であった状況を打開する為に採った販売方法が非常に
大胆であった。
全国8万3千人に直接、「赤線検温器」を送り付け、不要な場合は返品して貰う
というダイレクトセールスを行なって、次第に業績を上げて行ったとのこと。
半ば押し売りに近い強引さであるが、商材の品質に自信があったのであろう。


昭和4年(1929年)10月24日(暗黒の木曜日)のニューヨークウォール街での
株の大暴落に端を発する昭和恐慌をも創意工夫で乗り切った「森下仁丹㈱」は、
戦時中の昭和17年(1942年)、「仁丹」の生産実績で1,300万円を超え、
医薬品業界のトップになったという。


第95記事2
「仁丹」と言えば、携帯性やデザイン性、時代性を考慮した、
弛まぬ新容器開発の努力もその特徴に挙げられる。
※画像は、森下仁丹株式会社様のHP依り、拝借



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