華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 美しき姫神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

美しき姫神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

美しき姫神 木花咲耶姫命

(このはなさくやひめのみこと)



木花咲耶姫、木乃花咲耶媛(このはなさくやひめ)は
「古事記」では木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)とも
「日本書紀」では木花開耶姫、(このはなさくやひめ)とも
表記されている。
木の花(桜)が見事に咲き誇るかのように美しい女性という意味である。
山に見立てれば、日本一の秀峰富士の山、日本の美を代表する美しい
姫神である。

「姫(媛)」とは、女性に対する敬称と愛称を重ねたやまと言葉(和語)
であり、日(太陽)の女子という意味が込められている。
つまり、「日女」で「ひめ」ということである。



ご本名を「古事記」では、神阿多都比売(かむあたつひめ)
「日本書紀」では、鹿葦津姫(かしつひめ)、吾田鹿葦津姫
(あたかしつひめ)とされている。
「あた」は、薩摩国阿多郡阿多郷(現在の鹿児島県南さつま市
金峰町周辺)であるとされている。
姫は原日本人隼人の出身であり、その首領の娘という意味がある。

神話に依れば、木花咲耶姫は
大山を司る神・大山見津神(おおやまつみのかみ)の末娘である。
大山津見神は大山祇神(おおやまつみのかみ)とも和多志大神
(わたしのおおかみ)とも表記し、大山津見とは大山に住むという
意味で、各地の大山を統括する山神様ということである。

日本神話に登場する天津神と国津神との分類では、
木花咲耶姫の父大山見津神は国津神である。
国津神は原日本人、縄文人の神で、被征服者の神、出雲大社系、
天津神は天孫降臨と称して、水稲耕作技術の観点から推測するに、
おそらく長江河姆渡(かぼと)遺跡のある地帯から九州に上陸して来た
弥生人で征服者の神、伊勢神宮系。
両者は激しい戦いの後に、国譲り(くにゆずり)と称して、原日本人、
縄文人側が降伏、統一国家建設の為に和睦したのであろうと思われる。

弥生人の征服路400

天孫降臨で日向国高千穂に降った邇邇杵尊(ににぎのみこと)は、
九州南西にある笠沙の岬の地を選んで、宮を営んだ。
ある日、邇邇杵尊はその岬で見目麗しい乙女に出会った。
それが大山津見神の娘、木花咲耶姫であった。
邇邇杵尊は直ちに求婚し、父の大山津見神の下に赴いた。
大山津見神は大層喜んで、結婚を許し、木花咲耶姫の姉
石長比売(いわながひめ)も添えて、邇邇杵尊に献上した。
ところが、石長比売は大変に器量が悪かったので、直ぐに
親元に返し、木花咲耶姫だけを留めて、一夜を共にした。
  ……………………………………………………
その後、遠征から帰還した邇邇杵尊の下に木花咲耶姫が
大きなお腹を抱えて、出産を告げに来た。
ところが、邇邇杵尊は一夜だけで身籠ったことに不審を抱き、
「お前は、たった一夜で身籠ったというのか。それは、きっと
私の子ではなく、国津神の子であろう」と意外な言葉を吐いた。
そこで、木花咲耶姫は不貞を疑われ、悲しみながらも、「もしも、
この子が国津神の子だとしたら、無事には産めないでしょう。
でも、貴方の子なら安産に違いありません」と決然と言い放って、
出入り口の無い産屋を建てて中に入り、壁を土で塗り固めて、
火を放った中で出産を迎えた。

その火が真っ盛りの時に産まれたのが火照命(ほでりのみこと)
次に産まれたのが、火須勢理命(ほすせりのみこと)
最後に産まれたのが、火遠理命(ほおりのみこと)であった。
こうして、三柱の神々を無事に出産し、身籠った子が邇邇杵尊の
子であったことを証明した。



木花咲耶姫が火の中で出産したこと、総べての山を司る父
大山津見神が特に好んだ日本一の秀峰富士を娘に譲ったことで、
この姫神が富士山の神とされ、浅間神社の祭神として厚く信奉
されることになった。
実は文献学上、富士山と木花咲耶姫を結び付ける信仰は
江戸期以降のものとして、歴史は浅い。
古文書で最古の記述は、慶長19年(1614年)
浅間神社社伝に祭神としての初現は、寛政年間(1789~1800年)
と新しいのだ。

では、それ以前の富士山の神は一体、如何なる神であったのか。
「延喜式」神名帳に、正三位と格の高い位階とされた「あさま神」
が記されている。 
「あさま」は「浅間」であるが、まだ「せんげん」ではない。

「あさま」の「あ」は、浅間、熱海、阿蘇……などの「あ」の音を
持つ地域は火山や温泉に関係していることを示しているようである。
ポリネシア語で「あそ」は「煙」「湯気」を意味し、
アイヌ語では「燃える岩」「噴火口」を意味するという。
「あさま神」は火山の神で、富士山が激しく噴火を繰り返すことから、
その荒ぶる火山の神を鎮謝する為に、「あさま(浅間)神」を祀ったのが、
おそらくは浅間神社の起源なのであろう。
実は、富士山は嘗て「あさま」と呼ばれていたという説もあるのだ。

木花咲耶姫には火中出産のエピソードがある所為で、
火の女神のイメージがあるが、実は噴火を繰り返す富士山を鎮める為、
「水神」として祀られたらしいのだ。
姫神の水徳で、富士山の噴火が静まり、その御神徳は篤い崇敬を受ける
ことになったのだ。

木花咲耶姫の御子、火照命は「古事記」に於いて「海幸彦」、
火須勢理命は「日本書紀」に於いて「海幸彦」とされて、
そもそも、火を制御する水神的な性格が表わされている。
因みに、火遠理命は「山幸彦」で、神武天皇の祖父である。

姓氏の語源を探求していると、音自体に意味があり、
用いられている文字は当て字の場合が多いことが解る。
そこで「コノハナサクヤヒメ」を、音の観点から別角度で考察してみる。

「コノ」はおそらく、「コウノ」の変容で、「神野」であろう。
とすれば、「コノハナ」は「神野鼻」で、「神野の突き出た所」の意味で、
富士山頂の火口を取り巻く「神野」に在る剣が峰(標高3776m)
などの高い箇所。

「サクヤ」は「サクラ」の変容で、「狭倉」ではないか。
「サ」は接頭語で美称、「クラ」は場所を表わし、原日本人、縄文人の
祭りの場が「サクラ」なのではないか。
「ラ」は、空(ソラ)や浦(ウラ)など、空間を表わし、
「ヤ」は、屋敷(ヤシキ)社(ヤシロ)など、場所を表わしている。

従がって、「コノハナサクヤ」は「コウノハナ」で神様を祀る
お社(やしろ)という意味なのではないか。
その神聖な場所にいらっしゃる神様を、「コノハナサクヤヒメ」と
お呼び申し上げるということなのではないだろうか。

富士山頂400

秀麗な富士はその姿に似合わず、気性の激しい火山である。
夫邇邇杵尊に不義を疑われ、貞操を証明する為に火中出産をした
美しき木花咲耶姫に相応しい富士のお山である。

浅間神社の創建は大同元年(806年)で、東海地方最古のお社である。
全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、昭和56年(1982年)
以降、正式には「富士山本宮浅間大社」と称する。
浅間神社は富士山の周囲だけで、147社を数える。

浅間大社は主祭神について、公式に
「木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)
(別称浅間大神(あさまおおかみ))」と同一視して表記している。

しかし、元々のご祭神は富士山のご神霊「浅間大神(あさまのおおかみ)」
であり、神話に登場する木花咲耶姫と同一視されて、それが定着したのは、
江戸時代である。 
この二柱は明確に区別されておらず、習合した状態であると言える。

境内は富士宮市に在る本宮境内と富士山頂の奥宮境内がある。
平城天皇の命に依り、坂上田村麻呂が現在地に社殿を造営し、
朝廷から駿河国一ノ宮として、大いに崇敬された。
武将からも崇敬を受け、源頼朝、北条義時、足利尊氏、足利持氏、
武田信玄・勝頼父子、豊臣秀吉、徳川家康などが社領を寄進、
社殿を造営、修造を行って、深く崇敬した。

1779年には江戸幕府寺社奉行より、富士山八合目以上全域を
境内地として寄進されている。
明治新政府は一旦、国有地とした上で無償貸与という形式を踏んだ。
第二次世界大戦後、日本国憲法下で政教一致政策を清算する必要に
迫られ、昭和21年に無償譲与する法律が出来たが、その無償譲与する
範囲を、政府側は富士山頂にある神社境内部分だけとした。

しかし、浅間大社側は、もともと江戸幕府から寄進を受け、
八合目以上全域を総べて境内として管理していた訳であるから、
そのように返還せよと主張していた。
昭和49年の最高裁判決で、浅間大社側の主張が認められ、
平成16年にやっとのこと、財務省東海財務局が神社の所有権を認め、
土地を無償譲与する通知書を浅間大社に交付した。
富士山八合目以上の約400万㎡の内、登山道と旧富士山測候所を
除く、実に約385万㎡が浅間大社の境内である。



昭和9年(1934年)、王子製紙に依って、富士宮駅前に大鳥居が奉献
された。 
この大鳥居は富士宮の象徴的な存在として、僕も少年の頃に幾度か
目にしていたものであるが、昭和56年(1981年)に当時、
富士宮市政に隠然たる影響力を持っていた宗教団体S教団が
岳南地域都市計画の名目で撤去させてしまった。

創建以来1200年の歴史を刻み、全国に1300社在る浅間神社の
総本社として、全国的に崇敬を受け続けて来た東海の名社の大鳥居を、
昭和の仇花とも言える、ぽっと出のインチキカルト教団が生意気にも
撤去させるなど、言語道断の所業であったことよ。
神様は罰は下されないが、彼らは勝手に自滅への道を歩んでいる。

この大鳥居の復活を望む要望は流石に多かったようで、
平成18年(2006年)御遷座1200年祭の開催に合わせて、
富士宮駅前から500mほど西の神田川沿いに移動して、
高さ16mの大鳥居が見事に再建されたという。

富士山上空の雲 天女?400

ともあれ、木花咲耶姫は火山(噴火)鎮護、五穀豊穣、酒造、養蚕
の守護神、縁結び、子授け、安産の守護神として、崇敬を受けている。
また、美しく貞淑で、夫を支え、しかも自分の意志を明確に持った
女性の鑑であり、閃きを与え、決断力や行動力を与えるご神徳があり、
美を司り、女性の魅力を増進させてくれる姫神様である。


私が崇敬している神社は「江戸総鎮守」たる神田神社(神田明神)と
富士神界箱庭に坐す(ます)「関東総鎮守」たる箱根神社(箱根権現)
である。
当然のことながら、「日本神界の頂点」たる伊勢神宮は言うまでもない。

神社にも序列があり、神々のネットワークから、会社で言えば、
出張所、支社、本社と秩序立てられており、参拝に際しては、
その序列を意識していた方が良い。
買い物でも、購入するものに依って、コンビニ、スーパー、
デパートと使い分けているのと同様である。
(深見東州氏談)

神田神社は首都東京を担い、箱根神社は関東一円にご神徳を及ぼす。
箱根神社のご祭神は、瓊瓊杵尊(邇邇杵尊)、木花咲耶姫命、
その御子神である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の三神を
「箱根大神」と称している。

平安時代の武将、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任ぜられ、
東北鎮撫に向かったが、その時に武運長久を祈願したのも、伊豆に
配流されていた源頼朝が、源氏再興を祈願したもの箱根神社であった
ことから、武将達の崇敬の念は篤く、特に関東八カ国を領した
徳川家康は自ら参拝し、三島に二百石を寄進し、所領を安堵するなど
手厚い守護を行ったことから、以後、歴代将軍の崇敬の範となった。
また、箱根山創建以来、朝廷の崇敬を受けて来た箱根神社には
明治天皇始め、三代の天皇がご参拝されているほどである。

箱根神社のご神徳を慕い、政財界の大立者も陸続と参拝したが、
吉田茂元首相や西武グループ創立者堤康次郎元衆議院議員などが
有名であり、ご子息の堤義明氏は箱根大神のご眷属九頭龍神社の
社殿を寄贈している。
堤康次郎氏はホステスさんから、独立してお店を出すなどと
いう話を聞けば、関東で成功する為には是非、箱根神社に
参詣するようにと必ず勧めていたという逸話も残っている。

箱根神社400



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2010/10/07 22:12 | 随想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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