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最初の一発を撃たせる様に… アメリカの戦争責任

 2010-10-31
最初の一発を撃たせる様に

…アメリカの戦争責任


ルーズベルト米国大統領

昭和16年(1941年)日米開戦の仕掛け人は、アメリカ合衆国第32代
大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1933年 - 1945年)
その人である。
彼こそが、真のスーパーA級戦争犯罪人なのである。

極東国際軍事法廷「東京裁判」に於ける判決趣意書で
日本の無罪を主張したインドのパール判事は
「アメリカが日本に送ったと同一のものを他国に通告して、
このような無理難題を吹っ掛けたら、非力なモナコ公国や
ルクセンブルク大公国といった欧州の弱小国でさえ、必ずや
アメリカに対して、自衛の為に武力を以て立ち上がったであろう…」

更に、「時が熱狂と偏見とを和らげた暁には、また、理性が虚偽から
その仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に
保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求する
であろう」と語った。

また、 イギリスのオリバー・リットルトン軍需生産大臣は、
昭和19年(1944年)6月20日、ロンドンのアメリカ商業会議所で
「アメリカが戦争に追い込まれたというのは、歴史上の狂言である。
アメリカが日本を追い込んだのだ。日本がパールハーバーを攻撃せざる
を得ないまでに、アメリカが強圧したのである」と語った。

パール判事の「アメリカが日本に吹っ掛けた無理難題」、
リットルトン大臣の「追い込んだ」「強圧」とは、日米交渉に於ける
最後通牒「ハル・ノート」の内容を指す。
「ハル・ノート」とは、正式には「合衆国及び日本国間の基礎概略」と
言い、開戦前夜の昭和16年(1941年)11月26日、アメリカ国務長官
コーデル・ハルが日本政府に通告してきた文書である。

米国務長官コーデル・ハル

開戦に至る当時の状況としては……

我が国は昭和12年(1937年)12月、中華民国の首都南京を陥落させたが、
蒋介石は首都を重慶に移し、「援蒋ルート」と呼ばれた輸送路、香港からの
ルート 、仏印ルート(フランス領インドシナ、ベトナム)、ソ連からのルート、
ビルマルートを通じて、軍需物資などの援助をアメリカ、イギリス、ソ連、
ドイツなどから受け、抵抗を続けていた。

昭和13年(1938年)11月3日、第1次近衛内閣は、欧米帝国主義支配からの
アジアの開放と反共産主義、日本、満州、中華民国3ヶ国の連帯を謳う
「東亜新秩序声明」を発表した。

「今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、
支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、
同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は
断じて矛を収むることなし。帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保
すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。

この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り、
互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、
共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。
是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。

帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。
帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを
期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を
改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を
拒否するものにあらず。

帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを
信じて疑はず。就中、盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とする
ものなり。

惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、
これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。
帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、
万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。 茲に政府は帝国不動の
方針と決意とを声明す」



★この声明にアメリカ政府は態度を硬化させ、
昭和14年(1939年)に日米通商航海条約の廃棄を通告して来た。

★昭和15年(1940年)1月、アメリカ政府は、
屑鉄・航空機用燃料などの輸出に制限を設けた。
この輸出制限措置に依って、日本はハイオクタン価ガソリンや屑鉄など
日中戦争継続に必要不可欠な軍需物資が入らなくなった。
このアメリカ政府の措置に依る経済的圧迫で、地下資源に乏しい日本は
窮地に立たされた。

★ 昭和15年(1940年)9月、米英が中国国民党政権に物資を補給する
援蒋ルート、ビルマルートを遮断する為に、ドイツの傀儡政権であった
のフランス・ヴィシー政府との条約締結の下、仏領インドシナ北部に
平和進駐した(北部仏印進駐)。
また同月、我が国は、日独伊三国軍事同盟を締結した。
この同盟締結に依って、アメリカ政府の日本敵視は決定的となり、
北部仏印進駐に対する制裁として、アメリカ政府は屑鉄と鋼鉄の
対日輸出を禁止した。

★ 昭和16年(1941年)、我が国は状況を打開する為に、蘭印(オランダ領
東インド、インドネシア)からの石油輸入が出来るように資源買付け交渉
(日蘭会商)を行ったものの、オランダの提示する供給量が、日本の要求量
に満たず、実質的には拒否であった為、6月には交渉を打ち切った。
同年4月には、アメリカ・イギリス・オランダの三国は「軍事参謀会議」
を開催し、対日戦略を合同協議している。

★ 昭和16年(1941年)7月、石油などの資源獲得を目的として、南方進出
に必要な基地を設置する為に、我が国は仏領インドシナ南部にも進駐した。
(南部仏印進駐)。
これに対する制裁という名目で、遂に対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、
イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の
凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。

これで、我が国への貿易制限、経済封鎖である、アメリカ(America)、
イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国
(China)に依るABCD包囲網、ABCD経済包囲陣が完成し、我が国は
絶体絶命の窮地に陥ったのである。

この対日経済封鎖網に依って、石油・ゴム・タングステンなどの資源の殆ど
総べてを供給停止(禁輸)されてしまい、我が国には国民生活に必要な資源
さえもが供給されないという非常事態に陥ったのである。
当時、我が国には戦時で1年半分、平時で二年分しか石油の備蓄が無く、
正に究極的な死活問題であったのだ。



このABCDラインの対日経済封鎖について、
イギリスのチャーチル首相は、
「英米両政府は緊密な連繋のもとに日本に対して行動していた」
「イギリスも同時に行動を取り、オランダがこれに倣った」と述べている。
また、「我々の共同禁輸政策は確実に、日本をして平和か、戦争かの
瀬戸際に追い遣りつつあります』と書簡に記した。

当時のアメリカ駐日大使、ジョセフ・グルーは、
「もし日本が、南方における主導権を軍隊によって追求しようとするならば、
日本は直ぐにABCD諸国と戦争になり、疑問の余地なく敗北し、三等国に
なるであろう」と述べている。

イギリスの戦史家リデル・ハートは、
「アメリカ政府の資産凍結措置と同時に、イギリス政府も行動をとり、
ロンドンのオランダ亡命政府も誘導されて、追随した」
「このような措置は、日本を戦争に追い込むことは必定だった」
「いかなる国にも、とりわけ日本のような面子を重んじる国にとっては、
このような要求を容れることは不可能であった」
「日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていた
ことは、注目に値する」と述べている。

イギリスのJ・F・C・フラーは「経済戦争の宣言であり、実質的な闘争の
開始であった」と述べている。

ルーズベルト大統領は大西洋会議で、チャーチル首相に対し、
「私は決して宣戦布告をやる訳にはいかないでしょうが、戦争を開始する
ことは出来るでしょう」と、我が国を開戦へと誘引する戦略が成功するで
あろうとの見通しを明らかにしている。 
ルーズベルトは、1940年の大統領選挙で当時、自国の参戦を忌避していた
アメリカ世論を慮って、フランスがドイツに敗北しても「ヨーロツパ戦線には
加わらない」との不戦の公約で大統領選挙三選を果たしていたことから、
日米開戦を望む彼としては、西部のガンマン宜しく、ファースト・ショット
を日本に撃たせて、愛国心を盛り上げ、好戦気分を醸造する必要があった。
奴らは正しく、我が国を地獄に導く悪霊、「鬼畜米英」であったのだ。


このような状況下に追い詰められながらも、我が国政府は日米戦争を回避す
べく、譲歩出来る限りの条件を提示して、外交交渉の努力を続けたのである。
しかし、日米交渉は進展せず、近衛内閣は総辞職、政府が最後の望みを賭けて
継続していた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることが出来る唯一の人物で
あるとして、東條英機陸軍中将が組閣の大命を受け、
昭和16年(1941年)10月18日、第40代内閣総理大臣兼内務大臣、
陸軍大臣に就任した。(陸軍大将に昇進)

東條内閣

東條内閣は日米開戦を回避させる為、一旦「帝国国策遂行要領」を白紙に戻し、
「戦争決意の下に、作戦準備を整えるとともに、外交施策を続行して、これの
妥結に努める」「外交交渉を続けるも、止むを得ざる場合は開戦とする」と
して、日米交渉の妥結を願ったのである。

東條内閣は対米交渉案件として、二段構えの「甲案」「乙案」を策定した。

第一段階の「甲案」は、
① 通商無差別問題においては、無差別原則が全世界に通用されるのであれば、
 太平洋全地域即ち支那においてもその適用を承認する。
② 三国同盟に依る参戦義務が発生したかどうかの解釈は、
 あくまで自主的に行う。
③ 支那駐兵は防共政策から概ね25年程度駐屯を続けるが、平和成立と
 同時に撤兵を開始し、2年以内に撤兵を完了する。
④ 仏領印度支那に駐留している軍隊は、支那事変の解決又は公正なる
 極東平和の確立と共に撤兵する。

「乙案」は「甲案」が妥結に至らなかった場合に備え、それでも日米交渉を
継続する為の暫定措置案として、作成されたものである。

① 日米両国政府は、何れも仏印以外の南アジア及び南太平洋地域に
 武力進出を行はざることを確約す。
② 日米両国政府は蘭領印度に於いても、其の必要とする物資の獲得が保障
 せらるる様互いに協力するものとす。
③ 日米両政府は相互に、通商関係を資産凍結前の情況に復帰すべし。
 南部仏印進駐の日本軍は北部へ移動し、米国政府は年100万トンの
 航空機用揮発油の対日供給を確約す。
④ 米国政府は、日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に
 出ざるべし。

「乙案」は、「甲案」での交渉決裂に備え、日米戦争勃発を未然に防ぐ為
の暫定協定案として、日米間の基本問題を一応棚上げし、事態が決定的に
悪化した南部仏印進駐以前の状態に事態を戻して、交渉を遣り直そうと
いうもので、東條内閣が如何に日米開戦を避けようと外交努力していた
かが理解出来るのだ。

hideki_tojo東條英機

我が国としては経済封鎖が解除され、石油等の資源が供給されるという
状態に戻るのであれば、資源確保の為に南方(仏印や蘭印)へ進出する
必要性はなかったのである。
しかも、その代価として、我が軍は支那・仏印からの全面撤退に応じる
という内容のものだあったのだ。

ロバート・クレーギー駐日英国大使は帰国後、政府に提出した報告書で
「日本にとって、最大の問題は「南進」(仏印・蘭印への進出)では無く、
耐え難く成り行く「喉輪攻め」(経済封鎖を意味する)を、何としてでも
振り解くことだった」 と述べている。
彼は、日本の南方進出が「領土的野心」からでなく、必要に迫られた、
止むに止まれぬ軍事行動であったことを理解していたのだ。

東京裁判に於いて、日本側のブレークニー弁護人は
「日本の真に重大な譲歩は東條内閣が作成した「甲案」であり、
「甲案」に於いて、日本の譲歩は極限に達した」

この「甲案」「乙案」の内容は、野村大使、来栖大使がハル国務長官と
会談の上、提出するまでもなく、アメリカ側は無線を傍受、暗号解読
していたのだが、日本政府が心血注いで作成した「甲案」「乙案」の
両案共に完全に否定されてしまったのだ。
そもそも日本側がどのような譲歩を示そうと、日米開戦を望んでいた
アメリカ政府は、日本に譲歩するはずもなく、対日戦争を選択することを
既定事項としていた戦略を遂行する為に、受諾不可能な要求を突き付け、
我が国が好むと好まざるとに関わらず、対米開戦に踏み切らざるを得ない
状況に追い込み、対米開戦を選択させる様、仕向ける方針だったのだ。

東京裁判で、ブレークニー弁護人は、
「アメリカ国務省は、乙案について対案を出すこともなく、
日本側の説明に注意を払うこともなかった」と述べ、アメリカ側の
不遜で不誠実な対応を非難している。



実は、アメリカ国務省は一般案と暫定協定案に分けて作成し、その内の
暫定協定案を削除されたものがハル・ノートとして、日本に提示された
のであるが、暫定案では南部仏印からの撤兵を求める代わりに、
北部仏印での駐兵を制限付きながら認めていたり、両国の資産凍結解除、
民需用石油の輸出許可などが盛り込まれており、もしこれが日本政府に
提示されていたとしたら、日米交渉が継続されていた可能性が高いのである。

しかし、実はこの暫定案さえもが、巧妙な罠であったのだ。
ハル国務長官は「我ら5ヶ国にとって大いなる利益は向こう3ヶ月に渡り、
日本を平和路線に縛り付けることであり、かつ、5ヶ国に於いてはその間
更に戦争への諸準備を整える余分の時間を持ち得る等の利点がある」
と述べている。
日本に交渉妥結の期待を持たせ続けて、戦争準備が充分に整う時期の
開戦まで、自国に有利な時間稼ぎをしようという魂胆であっただけなのだ。

アメリカにとっての時間稼ぎは、何の為であったか。
それは当時、アメリカ軍に依って、フィリピン・コレヒドール島や
グアム島、ウェーキ島の要塞化が着々と進められていたからなのだ。
また、アメリカの半植民地であった準州のフィリピンには
マッカーサー元帥が着任して、フィリピン国軍の全指揮権を掌握、
装備としては「空の要塞」B-17爆撃機が配備され、長期防衛可能な
準備を進めている真っ最中であった。
日本陸軍の統帥部が開戦を急がねばならなかった理由の一つは、
軍事的見地からして、何れ戦うならば、アメリカの防御要塞が完成
する前に攻撃を開始する必要があったからなのだ。
そういう意味でも、我が国にとっては一刻の猶予もなかったのだ。
日露戦争開戦の時期を、ロシア軍の大量動員が可能になるシベリア鉄道
複線化工事が終了する前にしなければならなかったのと同じ事情である。


ハル国務長官自身は、暫定案を日本政府に提示する積もりでいたというが、
イギリス・オランダ、支那・オーストラリアの各大使を呼び、この暫定案
に付いての意見を求めた際、支那が猛烈に反対し、一時的にせよ日米が
暫定協定締結しようとしたことを知った蒋介石は、イギリスのチャーチル
首相にまで工作を行なうなど、形振り構わぬ抗議を行ない、阻止したのだ。
何故なら、支那にはアメリカの支援無くして、抗日戦を継続する国力など
無かったからだ。


アメリカ政府は、11月7日に「甲案」を、11月20日に「乙案」をも
拒絶、11月26日、遂に「ハル・ノート」を突き付けて来たのだ。

因みに、この「ハル・ノート」を作成したのは対外政策担当の首席補佐官
ハリー・デクスター・ホワイトで、ルーズベルト大統領の首席秘書
ラフリン・カリーと共に、ソ連KGBの諜報員であったことが現在では
判明している。

ハリーデクスターホワイトとケインズ

………………………………………………………………………………

日米交渉 昭和16年(1941年)11月26日
アメリカ合衆国側提案(所謂ハル・ノート)

合衆国及び日本国間協定の基礎概略
第2項
合衆国政府及び日本国政府は、左の如き措置を採ることを提案す

①両国政府は、英蘭支ソ泰及び米国との間に共に多辺的不可侵条約を締結する。

② 両国政府は米英支日蘭及び泰政府間に、各国政府が仏印の領土主権尊重に
関する協定を締結する。

③ 日本国政府は、支那及び仏印より一切の陸海空軍兵力及び警察力を
撤収させる。

④両国政府は、臨時に首都を重慶に置ける中華民国政府以外の支那に於ける
如何なる政府、若しくは政権をも軍事的、政治的、経済的に支援しない。

⑤ 両国政府は、外国租界及び居留地に於ける諸権利、並びに1901年の
団匪事件(義和団事件)議定書による諸権利を含む、支那に於ける治外法権
放棄に付き、英国政府及びその他の諸政府の同意を取り付けるべく努力する。

⑥ 両国政府は互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする
新通商条約締結の交渉に入る。

⑦両国政府は相互に資産凍結措置を撤廃する。

⑧両国政府は、円ドル為替安定に関する案について協議する。

⑨両国政府は、その何れかの一方が第三国と締結した如何なる協定も、
同国により本協定の根本目的、即ち太平洋全地域の平和確立及び保持と
矛盾するが如く解釈されてはならない。

⑩両国政府は他国政府をして、本協定に規定せる基本的な政治的及び経済的
諸原則を遵守し、且つこれを実際に適用せしむる為、その影響力を行使する
ものとする。

……………………………………………………………………………

★ 日本軍の支那・仏印からの無条件撤兵、★支那に於ける重慶政府
(蒋介石政権)以外の政権の否定(詰まりは、日本が支援する
南京国民政府=汪兆銘政権の否定)、★日独伊三国同盟の死文化
(独伊両国との同盟を一方的に解消)を要求する内容であった。
要するに、日本が日露戦争以降に大陸で築いた一切の権益を
無条件で全て放棄しろということであった。
また、我が国が他国と結んできた条約を、外圧に依って放棄する
ことは国際社会に於いて、日本の信用を一挙に失うことになる。
それでいて、日本にとっての緊急課題であった「経済封鎖」の
解除には一切触れていなかったのである。

東郷重徳外務大臣は、
「米国は従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、最後通牒を突き付けて
来たのだ。我々は米側が明らかに平和解決への望みも意思も持っていない
と感じた。蓋しハル・ノートは平和の代価として日本が米国の立場に
全面降伏することを要求するものであることは我々に明らかであり、
米側にも明らかであったに違いないからだ。
日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、極東の大国たる
国際的地位を棄てることを求められたのである。之は国家的自殺に等しく、
この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された途は戦争であった。」
「眼も眩むばかりの失望に撃たれた」とハル・ノートを受電した当時の
心境を、東京裁判の口述書で述べている。

真珠湾攻撃 ハルノート400

一方、ハル国務長官は「ハル・ノート」を日本に提示した翌日、
スチムソン陸軍長官に、「私はこれで両手を洗った。これからは君と
ノックス海軍長官の手に移った」と語った。
詰まり、日本政府が受諾出来ない内容の「ハル・ノート」を提示した以上、
日本には戦争以外の選択肢は無いはずで、開戦は必至であるから、戦争は
陸海軍に任せるという意味であった。

更に、アメリカ政府はフィリピン・タイ・ボルネオなどに、「対日交渉は
既に終了した。日本の攻撃は数日以内に予測されるから、適切な防御を
行うように」と打電したのである。
そして、真珠湾攻撃の報告を受けたスチムソン陸軍長官は12月7日の
日記に、「日本が我が国を攻撃したという第一報を受けた時、私の最初の
気持ちは、救われたということであった…団結したわが国は、事実上
恐れるものはない、と感じたからである」と認めた。

日本は連合国側が仕掛けた、避け難く巧妙な罠に嵌められたのであった。

………………………………………………………………………

最近は勉学にもスポーツにも頭角を表わして来た優等生の日ノ本君。
日ノ本君は品行方正、その上、学業優秀であるが故にやっかまれて、
学校で底意地の悪い米助、英男、中太郎、仏太、蘭丸ども
悪党グループの陰湿で耐え難い虐めに遭っていた。

日ノ本君は稀に見る人格者だったから、馬鹿どもの虐めなんかに
負けないで、耐えに耐えていたものの、日に日にエスカレートする
虐めに閉口していた、そんなある日、教壇に上って、オチンチンを
みんなに見せろ、そうしないと二度と学校に来られないようにして
やるぞ!と決定的に脅されてしまった。
日ノ本君は、これはもう我慢の限界を超える仕打ちだなと受け取った。
そんなことまで言い成りになったら、誇りまで傷付けられてしまう
と深刻に悩んだ末、遂に堪忍袋の緒が切れて、大反撃を決意した。

実は、これは米助や英男が、目障りな日ノ本君をクラス中で袋叩きに
してしまおうの悪巧みだったのだ。
だが、それを知らない一本気な日ノ本君はまんまと罠に嵌ってしまった。
翌日、学校に木刀を持ち込んで、猛然と米助どもに殴り込みを掛けてやった。
最初の内は優勢で、日頃の恨みを晴らすべく、ボコボコに打った叩いて
やったまでは良かったが、所詮は多勢に無勢で、仕舞いにはガソリンを
浴びせられ、火まで掛けられて、遂に降参させられてしまった。

その上、正義面した米助に、査問委員会にまで掛けられて、
「全て、僕が悪うございました。許して下さいませ」と謝らされた。
更に、「これからはやられても、僕はやりません」「僕は殴られても、
人を殴りません。どうぞ、ご自由に為さって下さい」と、念書まで
一筆啓上させられてしまった。

日ノ本君は自分でも、自分が悪かったのだと思い込むようになって、
誰に対しても、会う度に「その節は、僕が悪うございました」と
米搗きバッタのように平身低頭してお詫びを続けている。
去勢された日ノ本君は未だに、トラウマから抜け出せないでいる。

最近では、顔も頭も性格も恐ろしく悪いが、背丈だけは伸びた中太郎が、
日ノ本君は手を出せないことを良いことに、調子に乗って何やかやと
言掛かりを吹っ掛けて来るようになった。

この日ノ本君の姿こそが、我が国の写し絵である。

 …………………………………………………………………………………

因みに、東條英機元首相は昭和23年(1948年)11月12日、
極東国際軍事裁判(東京裁判)に於いて、
「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」に問われ、
絞首刑の判決を受けた。
12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内に於いて、死刑執行。
享年65歳。 辞世の句は、
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」

コーデル・ハルは1945年、「国連憲章」の起草を理由として、
ノーベル平和賞を受賞者した。「国際連合の父」と称される。



日米開戦已む無しと血気に逸る陸軍を抑え、、陸軍部内から変節漢と
罵られながらも、開戦には慎重で、日米交渉妥結の努力を重ねた
東條元首相がA級戦争犯罪人として処刑され、
日本交渉を妥結させまいと陰謀を廻らせ、好むと好まざるとに関わらず、
我が国を開戦の選択肢しかない窮地に追い込んだコーデル・ハルが
ノーベル平和賞受賞とは…、パール判事が仰った如く、
「正義の女神にこの賞罰、そのところを変えることを要求」したいものだ。
少なくとも、日本人の心の中だけでも、東條元首相の名誉は回復される
べきであると願う。

因みに、彼のお嬢様のお一人は、私の母校の大先輩に当たる。

東條ファミリー
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