華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 「敵ながら、天晴れ」 …戦艦ミズーリ艦長キャラハン大佐

「敵ながら、天晴れ」 …戦艦ミズーリ艦長キャラハン大佐

「敵ながら、天晴れ」

        …戦艦ミズーリ艦長キャラハン大佐



神風(しんぷう)特別攻撃隊の突入場面を撮影した写真の中でも、
際立つ一枚がある。
爆装のゼロ戦が海面擦れ擦れの超低空で進入し、軍艦の舷側小口径砲塔
らしき部位に激突する寸前の瞬間を捉えた有名な写真である。
この特攻の標的となった戦艦は、1945年9月2日、我が国の降伏文書調印
の舞台となった戦艦ミズーリであったのだ。

4.11 500

1945年4月1日、米軍の沖縄本島上陸作戦が開始され、沖縄周辺海域には
18万2千名の兵員と約1300隻の艦船が集結していた。
この米海軍機動部隊に対し、4月11日には、海軍の特攻隊7隊76機が
鹿屋基地、国分基地、宮崎基地から出撃、陸軍の特攻隊5隊9機が
喜界島基地、徳之島基地、知覧基地から出撃している。

4月11日午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、この内の1機、
ゼロ戦52型が戦艦ミズーリの右舷艦尾に突入した。
写真を見れば、次の瞬間に何が起きたかは大体、想像出来る。
機体は僅かに左に傾斜した態勢で右舷後方からの突入であったことから
すると、最初に突入機の左翼が舷側にぶつかり、そこを軸として90度程
回転しながら、エンジン部分が甲板の高さまで持ち上がった状態で機体が
爆発したのではないか。

実際に、左翼が第3副砲塔上にぶつかり、最上甲板より1m下に突入した
そうだ。
特攻機の残存燃料に引火したことに依って、司令塔の下の部分まで
火の海となったという。

この特攻機は船体に対して、直角で突入した訳ではないので、弾頭信管が
着弾の衝撃を感知しなかったのであろう、爆弾は炸裂しなかった。
結局、戦艦ミズーリは甲板に火災が発生した程度のダメージしか受けず、
犠牲者は一人も出なかったという。
他艦からこの爆発の瞬間を偶然、撮影した映像も2種類残されているが、
特攻機の爆弾が不発であったと思われないほどに、大きな爆発が起きた
ように見える。



それにしても、全長 270m、全幅 33m、総排水量 53,785トン、
艦橋までの高さが64m、城郭のような戦艦ミズーリに、自重1,894㎏、
全装備重量でも2,743㎏という華奢なゼロ戦52型の機体が突入して、
その上、爆弾は不発であったとなれば、大きな被害を齎す訳もなかったのだ。
因みに、F4Fワイルドキャット戦闘機でゼロ戦に苦戦を強いられた米軍が、
捕獲したゼロ戦を徹底研究し、その優位性を崩壊させるべく開発した好敵手、
グラマンF6Fヘルキャットの全装備重量は5,162㎏もあったのだから、
ゼロ戦が如何に軽量であったかが解るのだ。
それでも52型は、ゼロ戦の中では最も重い機体であったのだが。



この突入で、戦艦ミズーリの甲板上に四散した特攻機の機体と共に、
投げ出された搭乗員の遺体の一部、焼け焦げた上半身が40mm機銃座から
回収されたという。
戦時中の新聞、ラジオなどのマスコミは、特攻隊員の戦死を讃え、
「若桜が散華した」と文芸的な美しい表現で報道したが、
実態はこういう凄惨な散り方であったのだ。

このエピソードは美談として語られることから、特攻隊員の遺体が
下士官兵に依って、陵辱を受けたことは語られない。

ミズーリ艦長ウィリアム・キャラハン大佐は、この勇敢なパイロットを
名誉を以って丁重に水葬に付すことを提案したが、「自分たちを殺そうと
した敵兵にそんなことをする必要はない」と大半の乗組員は反対したそうだ。
しかし、キャラハン艦長は艦内放送で、
「この日本のパイロットも、諸君と同じく国家の為に命を投げ出して
戦ったのだ。敵兵でも死んだら敵ではない。国家に命を捧げた勇士であり、
海軍式に水葬にすべきである」と自身の意志を周知徹底させたという。

キャラハン艦長が讃えられる由縁は、実兄を日本軍との戦いで失くして
いたにも拘わらず、その個人的怨讐を超えた武士道と騎士道の共鳴にある。
「キャラハン」という苗字からして、その家系はイギリス系であったに
違いなかろう。

翌4月12日、信号旗担当が、星条旗に日の丸を描いて作ってくれた
旭日軍艦旗で遺体は包まれ、礼砲五発、全乗組員の敬礼、戦場での
最大の敬意を払われて、手厚く海に葬られたのだ。
この出来事は、凄烈な地獄の戦場に咲いた一輪の心の華であったろう。



しかし、この葬儀の直後、艦長や乗組員達がそんな感傷に浸る間も無く、
再び戦艦ミズーリは激戦場の渦中に投げ出されたのである。
この日、4月12日、日本海軍は「菊水二号作戦」を発令、日本陸軍も
「第二航空総攻撃」を発令し、海軍9隊、陸軍14隊、計500機の
特攻機を投入した。
米海軍の記録にはこの日、151機の日本軍機を撃墜したとある。


この戦艦ミズーリに突入した特攻隊員は誰であったのか、長らく不明で
あったが、戦艦ミズーリ記念協会が調査してくれた結果、機体の型式及び
突入時刻からこの特攻機は、鹿児島県大隅半島の鹿屋基地から出撃した
第五建武隊(隊長矢口重寿中尉)16機の内の1機、石野節雄二等飛行兵曹
(19歳・岡山県和気出身)四班第4番機であると判定されている。
(戦死後、少尉任官)

但し、石井兼吉二等飛行兵曹(22歳、千葉県松戸出身)四班第3番機で
ある可能性もゼロではないようだ。(戦死後、少尉任官)


戦艦ミズーリでの水葬から56年後の平成13年(2001年)4月12日、
真珠湾ミズーリ艦上の特攻機突入の損傷が残る後甲板で、第五建武隊
遺族及び、キャラハン艦長の長男や乗組員など、日米双方が参列、
儀仗兵が弔銃を発射して、追悼式がしめやかに営まれたという。

軍艦にも運不運というものがある。
1944年(昭和19年)6月、戦艦ミズーリはアメリカ海軍最後の戦艦として
就役し、太平洋戦争、朝鮮戦争に参加した後、一度退役したがその後、
最新鋭の兵器を装備するなどの大改装が施され、1986年5月に再就役、
1991年1月の湾岸戦争にも参加しているが、ミズーリ艦上で行われた
海軍葬は、この我が国の特攻隊員の為に行われた1回だけなのだ。
つまり退役するまで、一人も戦死者を出さなかった軍艦ということになる。



ともあれ、国家に殉じた日本の勇敢な特攻隊員を「敵ながら、天晴れ」と
交戦の最中にも敬意を込めて、丁重に葬ってくれたキャラハン艦長もまた、
「敵ながら、天晴れ」であったと讃えたい。







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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

2010/11/12 00:30 | 随想COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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