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謎の美人易者 黄小娥女史のこと

 2011-06-19
謎の美人易者 黄小娥女史のこと


私の実用的な愛読書の一冊に、黄小娥(こう しょうが)女史の
「易入門」がある。

黄小娥女史は大正12年(1923年)のお生まれという。御年88歳。
1950年代半ばから「謎の美人易者」として話題となり、活躍された
そうで、昭和36年(1961年)にカッパブックスから出版された
「易入門」は大変なベストセラーとなり、その後、絶版となった為に、
私も古本街で探して、手に入れたものだ。
2004年にサンマーク出版から復刊されて、また話題になった。



「易入門」の記述にもあるが、当時は新聞記者や雑誌記者から
政治問題、社会問題についての易占まで依頼があったり、作家の
高木彬光さんは彼女の大ファンだったそうで、後にご自分でも
「易の効用」を執筆されたほどであったとか。
また、昭和37年(1962年)には大映で映画「B・G物語 易入門」
が制作されたそうだ。

…因みに、昔はBG(ビジネスガール)と称していたのだが、
アメリカのスラングでは商売女、娼婦の意味となってしまう為、
日本社会ではOL(オフィスレディ)という言葉に変更しようと
一斉にに切り替えたという経緯がある。


この「易入門」は、大衆から絶大な支持を得たのに対して、
易学、易占の専門家からは激しい批判の対象とされたようで、
特に加藤大岳門下であった彼女が師匠の加藤大岳氏からも非難を
浴びたことは、相当な痛撃であったろうことは想像に難くない。

問題とされたのは、彼女がその著書の中で提唱した
「擲銭法(てきせんほう)」(コイン易断法)であったという。
本来、易占は難解な「易経」に基づいて占いをすることで、
正式には筮竹(ぜいちく)を用いて、複雑な手続きの作法を
経た上で、卦を立てるものだが、彼女の「擲銭法」は伝統的な
「擲銭法」を更に簡略化した独創的なもので、1枚のコインを6回か、
6枚のコインを1回振って、その表裏の出方だけで64卦の成卦を
一気に出すというものなのだ。

そんな経緯があって、彼女は加藤大岳門下を離れ、最終的には
引退され、熊本に帰郷されたという。



師弟の関係については室町時代、能楽の観阿弥、世阿弥親子の教えと
して、芸道を極める為の成長過程の在り方を指し示した「守・破・離」
という奥儀が語り継がれている。
「守・離・破」の順で成長段階を説く向きもあるが…。


「守」の段階
学んだ基本に忠実に事を行い、その習熟を図るべき時期を指す。

「破」の段階
学び固めた基礎を土台にしつつも、既成概念に囚われることなく、
自由な発想で独自の工夫を重ねて応用し、師匠の教えを打ち破って
でも、独自の新境地を切り開くべき時期を指す。

「離」の段階
師匠から学んだ流儀や形式に一切囚われることなく、自由自在に
新境地を広く展開させて行くべき時期を指す。

「従藍而青」(じゅうらんにしょう)
「青は藍より出でて、しかも藍よりも青し」という言葉がある。
彼女は師匠からも大層非難を受けたそうだが、探求者、求道者と
しては天晴れな生き様で、それはそれで良かったのではないか。
彼女には難解で近寄り難い「易経」を大衆にも身近なものとして、
その裾野を広げた功績があったと言えるのではないだろうか。

ホロスコープ

同様のことは、西洋占星術の世界にも例がある。
「星座占い」というポピュラーな占法がある。誰もが自分は
蟹座だの、獅子座だのと意識している星座のことだ。


西洋占星術は本来、出生した時刻、地球上の位置に於いて、
その時点での10惑星、12星座の位置関係からホロスコープを
読み解く占術であるが、1930年代頃からの星座占いでは、単に
1惑星の太陽の位置でしか、その象意を解読していない訳である。

太陽の基本的な意味としては、月の人格や水星の知性、金星の感受性
などのパーソナルな能力を統合しようとする意志、バイタリティなので、
基本的な性格を表わす重要なものであるには違いないのであるが。

ただ、この西洋占星術の簡略化もまた、黄小娥女史の擲銭法と
同様、確かに占星術の大衆への普及に大きく貢献したのだ。


占術そのものに対する理念としては、易聖高島嘉右衛門氏や
私が「神なるものからのサインを読み解く」という方向性である
のに比して、黄小娥女史は「内なる予知能力に聞く」という姿勢
であったようだ。
究極的には、どちらも同じことである訳なのだが。



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殉国 …終戦後の特攻出撃

 2011-06-18
殉国 …終戦後の特攻出撃


私の友人、Mさんのご親族に、昭和20年8月15日正午、
昭和天皇が全国民に対して、連合国に無条件降伏する旨、
終戦の詔勅(しょうちょく)を発せられた玉音放送の後、
15日か16日かも判らないが、戦友の制止を振り切って
出撃された特攻隊員が いらっしゃったと伺い、
大変に感銘を受けた。
翻意を促そうとした、その同僚隊員ご自身からの
お身内への悲しい証言があったそうな。

その出撃がどこの基地からであったのか、
そのお身内が海軍の神風特別攻撃隊員であったのか、
陸軍航空隊の特攻隊員であったのかなどの詳細について、
Mさんはご存知でなく、さぞかし混乱が頂点に達したで
あろう終戦時の出来事だけに追跡調査は難しい。

宇垣纏中将400

Mさんにお話を伺って、最初に思い浮かんだのは「最後の特攻」と
呼ばれる、玉音放送後で無条件降伏を知った後の 宇垣纏(まとめ)
海軍中将と大分701航空隊彗星艦上爆撃機11機の特攻出撃だった。

宇垣纏海軍中将は第五航空艦隊司令長官として、約半年に渡り、
特攻隊の出撃を命令し、鹿児島鹿屋航空基地で彼らを見送った。
終戦時は大分航空基地に居た。

彼は正午の玉音放送で無条件降伏を知り、自身の自決の為に
敢えて「未だ停戦命令を受けていない」として、5機出撃の
特攻命令を下した。 その内の一機に自分が同乗する為に…。

ところが、隊長の中津留達雄大尉(23歳)は
「長官が特攻を掛けられるというのに、たった5機というのは
何ごとでありますかっ! 私の隊は全機でお供します」と応え、
11機の彗星艦上爆撃機で出撃したのだった。
中津留大尉は隊員達に「一度、爆弾を落としてから、
再度、敵艦に体当たりせよ」との命令を下したと記録にある。

彗星400

中津留隊の搭乗機となった「彗星(すいせい)」は単発複座で、
操縦士と偵察員の2人乗りであった。
宇垣中将が中津留機の偵察席に乗り込もうとしたが、
偵察員の遠藤秋章飛曹長(22歳)が既に乗っていて、
「降りろ」と命令されても聞き入れずに結局、狭い偵察席の
シートに宇垣中将が座り、遠藤飛曹長はその足元にしゃがみ
込むようにして、1機3名で出撃したそうだ。

因みに、中津留大尉は前月の7月に女児を授かったばかり。
遠藤飛曹長は新婚一週間目だったそうだ。

つまり、彗星1機には3名、他の彗星10機には20名
合計23名が搭乗していたのだ。
出撃した11機の内、途中で3機は不時着している。
不時着時に1名が戦死しているので、生還は5名
22名の内、生還した5名を除いて、「十七勇士」と呼ばれ
岡山護国神社に宇垣纏中将と共に祭られている。

アメリカ軍側の調査に依れば、
この攻撃で、テンダー水上機母艦が小破したとある。

実は、彼ら中津留隊は無条件降伏の玉音放送を聴いてはおらず、
自由意志ではなく、命令で特攻出撃させられたという説もある。
宇垣纏中将の「私兵特攻」であったのかも知れないのだ。

彗星艦爆400

Mさんのご親族は、中津留隊の名簿にはない。

終戦の8月15日午後と16日には、全国の航空基地から
日本近海に出撃している艦船に体当たり攻撃を考えたのか、
先に逝った戦友達の後を追うかのように、一人静かに出撃して
行った特攻隊員達がいたそうだ。
中には自ら海面に突っ込んで、自決を遂げた隊員も…。
彼らの最後の様子を伝える記録は、殆ど無いに等しい。

航空特攻作戦に限って言えば、
海軍の航空特攻の戦死者は2531名
陸軍の航空特攻の戦死者は1417名と確認されている。

しかし、Mさんのご親族や701空のような場合は
玉音放送後であった為に、特攻名簿には載っていない。

終戦当時、自決した人々は700名に及んだとのことだが、
阿南陸軍大臣やフィリピンレイテ湾で最初の神風特別攻撃隊
関行男大尉の敷島隊に出撃を命じた大西瀧次郎海軍中将以外に、
特攻作戦推進の責任を取って、自決した軍幹部など居なかった。

これで死なずに済んだと安堵した人々も多かったろうに、
Mさんの血縁である若き特攻隊員の彼は、戦友の制止を振り切ってまで、
何を思って一人静かに真夏の空へと飛び立って行ったのだろうか。
思いを馳せるだけでも、せめてもの慰霊になるような気がする。



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戦艦武蔵からの生還者だったHさん

 2011-06-18
戦艦武蔵からの生還者だったHさん



先日、ちょっと珍しい「H姓」を目にする機会があって
小学生の頃に、家族ぐるみのお付き合いで伊東温泉に
ご一緒したHさんのことをあれこれと思い出した。

Hさんは私の父より幾つか年上で、海軍特別年少兵として出征。
このHさんは何と、生還者の少ない戦艦武蔵の乗組員だったのだ。
子供の頃に初めて、そのことを父から聞いて、ビックリしたものだ。
お酒の好きな方で、会う時はいつも酔っ払っていたので
そんな凄い体験をされた方のようには、とても思えなかった。

1944年昭和19年10月に
戦艦武蔵は、米軍が進攻して来たフィリピンのレイテ湾突入を
目論んだものの、米軍の猛攻を受けてシブヤン海で沈没した。
出撃した武蔵の乗組員は2399人で、沈没した際に救助された
漂流者は1329人とこの段階では、他の艦艇と比較すれば多かった。

九死に一生を得た生存者達はコレヒドール島に上陸したそうだ。
しかし、その後、内地に向った輸送船が潜水艦の魚雷を受けて
沈没したり、マニラ攻防戦やフィリピン各地で陸戦を強いられて
その殆どの方々が玉砕為さったそうだ。

結局、最終的な生存者は2399人中、430人とのことだった。
Hさんは、その中のお一人であったのだ。
重油の漂う海で、丸太に掴まって何時間も漂っていたことまでは
お話してくれたが、その後のことは一切語られなかった。

大和と武蔵400

戦艦武蔵は、大和型戦艦の二番艦で、大和は広島呉海軍工廠で
建造されたが、三菱重工業長崎造船所で建造された。
兵装は主砲が46cm(45口径)砲3連装3基9門を装備していた。
横須賀にある記念艦三笠のタラップ近くに46cm砲弾が置いて
あるが、驚くほどに巨大なものだ。

実は、この主砲が実戦では何の役にも立たなかったのだ。
この46cm主砲の射撃時の反動は余りにも大きかったそうで、
最初の斉射の衝撃で、攻撃目標の照準を合わせるのに不可欠な
方位盤(照準器)が壊れてしまったそうなのだ。
自分で自分を打っ壊したということなのだ。

そもそも戦艦というものは、主砲自体の重量と発砲時の衝撃を
計算して、それに耐え得るものとして、総べての設計が決まる。
早い話が、大和にしても、武蔵にしても、46cm3連装3基9門を
載せたいが為に、建造されたに過ぎないという訳なのだ。

主砲400

大和型の一世代前の長門型戦艦の場合は41cm主砲二連装4基を
装備したいが為に設計、建造されて、あの大きさなったに過ぎない
ということだ。

敵の砲撃の射程外に居る内に、こちらは射程の長い大砲で
一方的に攻撃を開始したい。 
その為に、射程の長い大口径の主砲が欲しかったのだ。
しかし、航空戦力が充実して来た時代には殆ど意味を為さない
時代遅れの考え方であった。



これをアウトレンジ戦法というが、米軍はこの考え方を
空母艦隊搭載の雷撃機や爆撃機の「航続距離」「レーダーに
よる情報収集能力」に当て嵌めて、勝利した。

因みに戦闘機で言えば、あれは「空飛ぶ機関銃」に過ぎなかった
ということと同じ道理なのだ。
口径何ミリの機銃を何基装備出来て、弾丸を何発装備出来るかが
戦闘機のメインテーマだったのだ。

にも拘わらず…
人も組織も得てして、目的と手段を取り違えてしまうものだ。
その主砲が実戦で役に立たねば、世界一の戦艦と言っても、
戦力的には魚雷一本にも劣るのだ。何たる浪費であったことか。

戦艦武蔵はシブヤン海海戦で雷撃(魚雷)20本、爆弾17発命中、
至近弾は20発以上受けたそうだが、それでも直ぐには沈没しなかった
のだから、その造船技術レベルの高さは証明したことになる。
舷側を破壊されて浸水したら、反対側に海水を注入するなど
注排水をコントロールすることでバランスを保つことが出来る。

米海軍航空隊は、この武蔵攻撃の教訓を活かして、戦艦大和の
攻撃に際しては、徹底して左舷に攻撃を集中させた訳なのだ。

武蔵触雷撃400

温泉ホテルのプールで、Hさんの泳ぐ姿を見た。
日本泳法とか、古式(古流、和式)泳法とか言うそうだが、
斜めになって、見たこともない妙な手足の動かし方をされていた。
憶えているのは「抜き手」とか「もろ手伸び」「二段伸び」
といった変テコリンな名前だったこと。

武蔵から海上に逃れて、漂流されていた時には、こんな風に
泳がれたのかなと子供心にも勝手な想像をしてしまった。

夜になって、またプールで泳いだ。
そこに、お酒を飲んで酔っ払ったHさんがプールサイドに
やって来たのだが、その時、海水パンツの脇からもろに
オチンチンがはみ出ていた。
きっとトイレに寄って来て、酔っ払っていたから
オチンチンを収納し忘れたのだろう。

それを見たHさんの奥さんの発した言葉が、実に面白かった。
大きな声で、ただひたすら「玉(たま)!玉(たま)!」と
Hさんが気付くまで連呼した。

武蔵でのHさんの配置がどこであったか、憶えていない。
Hさんが砲塔や機銃配置であったなら、 戦闘中にきっと、
上官から「弾(たま)を持って来い!」
「弾(たま)!弾(たま)!」と怒鳴られたことだろう。

戦艦武蔵の栄えある水兵さんであったHさんが
奥さんに「玉!玉!」と怒鳴られていた。

やっぱり、戦争のない平和な時代が一番良いのだ。




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ある満州馬賊の首領との対話 …若き日の体験

 2011-06-18
ある満州馬賊の首領との対話 

…若き日の体験


私は子供の頃から、日本史を紐解くことが好きである。
昭和初期の5.15事件や2.26事件など、軍人に依るテロや
クーデター未遂事件を経て、旧憲法の統帥権を法的根拠として、
軍部独裁国家への道を歩んだ経緯には特に興味を引かれる。

昭和の歴史、大日本帝国の滅亡に至るまでのことは総べて
陸軍の暴走として、軍人が悪役になっている観があるが、
私はそれ以上に、政党政治の堕落があったと見ている。
歴史を顧みると、大正から昭和に掛けての軍縮の風潮の中で、
軍人が肩身の狭い思いをしていた時代もあったそうなのだ。

私が十代の頃にアルバイト先で知り合った年配の女性から、
彼女が生まれ育った日本の傀儡国家満州国での思い出を伺い、
そのお父様が辿られた数奇な運命を知って、大層驚いたものだ。
砦のような構造の住居に住み、馬賊の首領のお嬢様として育ったという。

満州地図400

後日、その女性からお父様が九州から遊びに上京して来ているが、
会ってみるかとお誘いを受けた。
歴史的な現場に立ち会われた方に、貴重なお話を伺う機会は
そうはないと、少年の僕は菓子折りをぶら提げて、緊張しながらも
お会いしに行った。

迎えて下さったそのご老人は物静かな方ではあったが眼光鋭く、
如何にも胆の据わったという風情に接して、大勢の敵をその手で
倒して来た武人が持つ、只ならぬ殺気漂う雰囲気を感じた。

戦いで人を殺した後、血を浴びた獣のままでは直ぐに家には帰れない。
幾日か遊郭に居続けして、女の肌の温もりで滾った血を治めてから
でないと、家族にはとても会えなかったと語っていた。

どういう経緯でそうなったのかは分らない。
彼は日本人でありながら、満州の地では満州人?中国人?
と偽り、馬賊と呼ばれた軍勢の頭領にまでなったのだ。

馬賊400

全盛期には3千人の部下を率いて戦ったそうだ。
軍閥と呼んでも良い戦力は持っていたのかも知れない。
しかし、実は日本陸軍の特務機関としても関東軍と通じていて、
祖国日本の国益の為にと活動されていたというのだ。

そのことが、五味川純平さんの著書に書かれていたことを知って、
どこから秘密が漏れたのだと、ご本人は大変に驚かれたそうだ。

そのご老人は満州に居て、日本の政界と大陸での権益で暴利を貪る
財閥と軍の上層部の癒着振りは目に余るものがあったと語っていた。

戦勝して占領した軍閥の屋敷を調べてみると、日本の政治家への
金の流れなど、贈賄を証拠付けるものが多々発見され、血気盛んな
青年将校達は、売国的なその不正に憤慨していたとも語っていた。

いつの時代も政財界の癒着、時代劇の悪代官と強欲な商人の腐れ縁は
断ち切れないものだ。

彼は、軍閥を率いていた張作霖の子息、張学良将軍とも
パルチザン時代の金日成とも、中国共産党の周恩来とも
面識があったそうだ。
張学良の部下達の命を救うことがあって、張将軍に大変感謝された
こともあったとか。

ノモンハン 行軍400

私が何よりも驚いたのは、彼がノモンハン事件で日本軍の道案内を務め、
その過酷な戦場の有様の生き証人であったことだった。

昭和14年(1939年)に勃発した満州国とモンゴル人民共和国間の
国境紛争を巡って、日本軍とソ連軍が武力衝突した事件。
第一次と第二次があり、5月の第一次ノモンハン事件は両軍合わせて
3500人規模の衝突であったが、7月、8月の第二次ノモンハン事件は
両軍ともに数万の兵力を投入した大規模な戦闘だったそうだ。

彼は、日本兵が擂り鉢で擂り潰されるかのように殲滅されたと
語っていたことからも、第二次ノモンハン事件の激戦の現場に
居たことになる。 

投入した戦車戦力が違い過ぎたのだ。
ソ連が500両の戦車と投入したのに対して、日本は僅か73両
それも中戦車と軽戦車、4日間で30両の損害を受けた後は
撤退させてしまったそうだ。

8割の損害を出した部隊もあったとか。全滅と見做す大損害だ。

日本軍の大敗北とされていたこの武力衝突だったが、
ソ連が崩壊し、1990年代以降に表に出てきたデータに依ると、
実はソ連も大損害を受けていたことが判った。
戦死はともに8000人前後、戦傷者は日本が約9000人、
ソ連は約15000人、航空戦は日本が優勢であったものの、
180機を失い、ソ連は250機を失った。

ノモンハン 戦闘400

彼は私に「旧満州、現中国東北部を訪れてみたいが、自分には国籍を
偽って戦った過去があるので、行けないのが残念だ」と寂しそうに
語っていた。
国家の罪を個人が背負っている構図が、そこにもあったのだ。



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沖縄県民斯ク戦ヘリ

 2011-06-14
沖縄県民斯ク戦ヘリ


沖縄上陸400


沖縄県の那覇市と豊見城市の境界に位置する小禄地区、
現在は海軍壕公園の一部となっている旧海軍司令部跡
の地下壕を見学したことがある。

1945年(昭和20年)6月に、陸軍との連携の不手際もあり、
米軍に包囲されて、海軍陸戦隊など約4000名が玉砕したと言う。

海軍部隊の指揮官であった大田実中将が自決前、海軍次官宛に
打電した訣別電報は、皇国に殉じた沖縄県民の実に見事な挺身振りを
切々と綴り、満腔の思いを込めて、敢闘の有様を称えたものだった。

その最後に綴られた一文が胸を打つ。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ 後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
「沖縄県民は、このように立派に戦いました。
 沖縄県民に対しては将来、格別のご配慮を以って
 報いて下さることを切にお願い申し上げます」趣意

本土復帰後、行政上の優遇措置など若干はあったものの
まだまだ不充分であることは、論を待たない。

少年兵400

6月13日、北沢俊美防衛相は仲井真弘多知事と沖縄県庁で会談し、
米軍普天間飛行場の移設先とする名護市辺野古に設置予定している
代替施設の滑走路形状をV字形と決めると正式に伝えた。
仲井真知事は会談で、「危険な普天間を一日も早く移設することが
大前提で、他府県へ移設するのが早いと思っている」と県外移設を
重ねて求めているが、北沢防衛相は日米が合意した2014年の移設
期限に付いて、「現実的に困難」とした上で、「普天間の固定化に
直結する危険性もあるので、出来るだけ早期の実現を図る為に
調整している」と述べるに止まった。

また、米国政府が2012年中に米海兵隊普天間基地(宜野湾市)に
垂直離着陸型輸送機MV-22オスプレイを配備すると通告した問題で、
宜野湾市役所前での座り込み抗議行動など、配備計画への反対運動が
起きている。

MV-22オスプレイ配備に付いて、仲井真知事は「しょっちゅう事故を
起こしたという記憶は鮮明に残っている。
こういうものを街のど真ん中に持ってくると言われて、分かりました
とはとても言えない」「東京で言えば日比谷公園でやるようなもの」と
反対姿勢を示したのに対し、北沢防衛相は「危険度に付いては、
技術的にクリアしている」と述べたという。



V-22オスプレイは、回転翼機(ヘリコプター)と固定翼機を合わせた
革新的な航空機であるティルトローター機で、その海兵隊仕様がMV-22、
現在普天間基地に配備されているヘリコプター、タンデムローター式の
CH-46シーナイトとの代替を予定されている。

軍事評論家などに依れば、MV-22オスプレイはCH-46ヘリよりも
エンジン出力が4.4倍(6150馬力が2基)にもなる為、騒音が大きい
ということで、懸念が広がっているようだが、ミラマー海兵隊基地の
記者会見で、オスプレイ飛行隊指揮官のエヴァン・ルブラン中佐は、
CH-46ヘリコプターよりも騒音は小さくなると語ったそうだ。

The Osprey is six times quieter than the helicopter it replaces,
the dual-rotored CH-46, according to the Marine Corps.
(オスプレイは、代替する海兵隊のヘリコプターCH-46よりも6倍静か)

旧式

ヘリコプターの騒音の大半は、エンジンからではなく、
ローターブレードから発生している為に、エンジンの出力が大きく
なるからと言って、騒音もそれに伴って大きくなることはないようだ。
ヘリコプター特有の「バラバラ」音は、ローターブレードから発生する
「スラップ音」というものだそうだ。
BVI(Blade-Voltex-Interaction;翼端渦干渉)という現象で、
先行するローターブレードの翼端渦が、後続のローターブレードと
干渉することにより発生する衝撃音で、これがヘリコプター特有の現象
であるという。
固定翼プロペラ機では、翼端渦は直ぐに機体後方に流れて、
後続のプロペラがそれを叩くことはないという。
離着陸時にはヘリコプター形態、巡航時には固定翼機形態に変形する
ティルトローター機MV-22オスプレイは、巡航時にBVI騒音が消え去る
ということであるらしい。

普天間基地C400

ところで、難題の普天間基地代替施設移設問題のこと。
鳩山前首相は一昨年夏の総選挙の折には「最低でも県外」
と言い、社民党に至っては「国外」との声まで挙げていた。
軍事問題に疎い政治家達が多いことの証左である。

当然のことながら、沖縄県民にとって、
米軍基地は実に迷惑な施設であるが、中国との軍事力が
均衡していない我が国の防衛には、不可欠な存在なのだ。

仮に、我が国が真の自主独立国家として、日米安全保障条約を
破棄し、覇権主義国家中国とならず者国家北朝鮮に囲まれた
状況下で、核武装も辞さぬほどに軍備を強化し、世界水準の
国防意識を堅持した国情であるならば、沖縄のみに軍事基地を
集中させる必要はないが、日米安保条約に基づいて、一応は
アメリカの戦略核兵器の抑止力に守られている現状では、
米軍の世界戦略との兼ね合いもあるのだ。

沖縄に在日米軍の兵力の75%が集中している理由は、
軍事的な見地からして、沖縄の地理的な好条件が要因としてある。
主に台湾海峡及び朝鮮半島での有事の際、米軍海兵隊が迅速に
対処出来る好条件が揃っているのだ。
他の移設案として浮上した自衛隊の大村航空基地や鹿屋航空基地、
硫黄島、テニアン島、海兵隊司令部機能を移設するグァム島に
実戦部隊を後退させては、現地への到着が半日、1日と遅れて
即応性に支障を来たすという致命的な欠点がある。

普天間基地

1996年から橋本政権に始まる「普天間基地の移設条件付き返還」だが、
事ここに至っては、現行案の「辺野古岬と、大浦湾・辺野古湾の
水域を結ぶ形で、V字型に2本の滑走路を設置する」日米合意を
実現させて「移設を実施する為には、充分な代替施設を用意」する
という合意を履行しない限りは、普天間飛行場の現状が固定化
された上に、日米の同盟関係に亀裂が生じることになるのだろう。

かつて、北海道の苫小牧や高知県も日本本土の移設候補地として
挙がったこともあるのだが、日米の仮想敵国が中国及び北朝鮮で
ある以上は、地理的に条件を満たすものではないのだ。

民主党政権が海兵隊の特質を弁えていないと思わせることの
一つに分散化の提案があった。
そもそも、海兵隊は単なる陸戦用の地上部隊だけではなく
ヘリコプターや支援戦闘機を含めた航空部隊と後方支援部隊が
一体化した機能を持つ、それだけで完結した戦力体系であって、
分散配備をさせてしまっては、戦略的海上輸送や空輸の為の
集結に時間を空費してしまう。
海兵隊の強襲揚陸艦の母港は佐世保であるので、現状でも
出動部隊の合流までには、かなり時間の浪費があるほどなのだ。

そういう理由から、アメリカ政府は海兵隊の地上部隊と
ヘリコプターの空輸部隊の駐留位置に関して、その距離を
65海里(1海里は1852m)以内に留めることを要望しているのだが、
そんな軍事機密に属する情報をも、平和ボケしている日本の
政府高官は漏洩させてしまうなどの体たらくであるのだ。

海兵隊は本国政府から、東アジアでの抑止力を維持しながらも、
在沖縄海兵隊を大幅に削減するようにとの命令を受けたことにより、
海兵隊の司令部機能はグァム島に後退させるものの、実戦部隊は
沖縄に駐留させ続けるという選択をした訳なのだ。

海兵隊を沖縄から完全に撤退させるということは、アメリカが
東アジア地域での紛争にはコミットしないという誤った
メッセージとして、中国や北朝鮮が受け取る可能性がある。



何れにせよ、アメリカは近い将来、東アジアに於ける戦略を
変更し、防衛ラインをグァム島、テニアン島、サイパン島の
ソロモン諸島のラインにまで後退させることだろう。
現実に、20世紀後半に一度、この撤退案が検討されている。

その段階で、尖閣諸島や竹島で中国軍や韓国軍との国境紛争が
勃発したとしても、アメリカは自国民を核攻撃の危険に晒してまでも
我が国の同盟軍として、軍事行動を起こすことは先ず無いはずだ。
日米安保条約は機能しないであろうことは、軍事専門家の
共通した認識である。

となれば、裕福でチャーミングな女性が裸で、歌舞伎町の路上に
放り出されるようなものである。
経済大国は、同時に軍事大国でないと、周辺地域のバランスを
崩し、侵略を誘発してしまうことになってしまうのだ。
金持ちが豪勢な屋敷に鍵も掛けずに、窓もドアも開け放して、
のん気に眠りに就くようなものなのだ。

辺野古V字滑走路

日米安保条約が機能している現段階では、沖縄県民の過重負担は
日本国民として実に不公平であって、大変に申し訳ないのだが、
海兵隊の駐留、基地の存続は我慢して貰うしか、手が無いのだ。
その制約の下で、政府は地域振興策や安全策など、県民に対して、
精一杯の誠意を尽くすことが絶対に必要な条件となるだろう。

成田空港反対の三里塚闘争のように泥沼化する前に、
早急に打開策を見出す必要がある。
普天間基地周辺の住民の安全を図ることは最重要課題であるが、
反基地運動に中国と北朝鮮の諜報機関も関与しているとの
情報もあり、共産同革マル派も中核派も関わっているので、
それらの破壊活動を封殺する為にも、早期に紛争を終結させる
必要がある。






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