スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)
タグ :

人種蔑視に基づく蛮行 …日本軍将兵の頭蓋骨は35$の土産物にされた!

 2012-04-22
人種蔑視に基づく蛮行 

…日本軍将兵の頭蓋骨は35$の土産物にされた!



米紙ロサンゼルス・タイムズは4月18日、アフガニスタンに駐留する米軍兵士
が、爆弾テロ容疑者の遺体と共に笑顔で記念撮影した写真を紙面に掲載した。
同紙に依れば、現役の或る兵士から軍規の乱れを告発することを目的として、
2010年に撮影された18枚の写真が、匿名を条件に提供され、その内の2枚を、
パネッタ米国防長官からの掲載を見合わせるようにとの申し入れを撥ね退け、
紙面に掲載したとのことである。

1枚は、路上爆弾を仕掛けようとして射殺されたテロ容疑者の遺体の手を、
米陸軍第82空挺師団の兵士が自分の肩に乗せて笑みを浮かべ、その後ろで
その遺体に手を伸ばす別の兵士が写っている写真である。


82空挺師団400


もう1枚は、米陸軍第82空挺師団が南部ザブール州の警察署を訪れ、
自爆テロ犯の遺体を検分した際に撮影されたもので、遺体の足を持ち上げて
いるアフガニスタンの警察官と思しき男たちと共に、米軍兵士たちが笑顔で
収まっている写真である。





パネッタ米国防長官や、国際治安支援部隊(ISAF)のアレン司令官も、
米国の法や価値観に反するとして、写真の行為を強く非難し、米国防総省
報道官は、事実関係を調査の上、懲戒措置を含めて、軍法に従って関係者の
処分を行うと表明している。


海兵隊放尿400


1月には、アフガニスタン反政府武装勢力タリバン兵士3人の遺体に、
「金色のシャワーだ」などと冗談を口にしながら、笑顔で小便を掛ける
4人の米海兵隊員の動画がインターネットに投稿され、その映像を観た
アフガニスタン国軍兵士が駐留外国部隊への反発を募らせ、報復として、
仏軍兵士4人を射殺した事件が起きている。


ドイツ記事400


2006年にも、アフガニスタン駐留の国際治安支援部隊(ISAF)独軍兵士が、
アフガニスタン人の頭蓋骨を掲げた記念写真がドイツの大衆紙「ビルト」に
掲載され、非難を浴びたことは記憶に新しい。
遺体を冒涜する5枚の写真は2003年に撮影されたもので、頭蓋骨を掲げた
記念撮影の他に、切り取ったペニスを頭蓋骨に接触させるシーンやパトロール
用のジープの先端に頭蓋骨を引っ掛けた異常なシーンの写真があった。


ドイツ兵300


問題とされている米陸軍第82空挺師団兵士に依る不祥事は、敵兵の遺体を
辱める行為であり、武力紛争による敵戦闘員の遺体は尊厳を持って扱うと
定めるジュネーブ条約に抵触し、倫理的にも非難されるべきは当然のことで
あるが、アングロサクソン主導社会である米国の一般世論も、米国防総省が
政治的判断で表明しているように、当事者の兵士たちを懲戒に処するほどの
非道と捉えているかは、甚だ疑問に思うところである。
何故ならば、当該の遺体への冒涜などは、20世紀半ばの太平洋戦争に於ける、
米軍兵士に依る日本軍兵士の遺体への惨憺たる陵辱の蛮行とは比較にならない
ほど、些細な行為と言えるからである。


頭蓋骨を煮る400
日本軍兵士の頭部を煮る米軍兵士(1944年)


クリント・イーストウッド監督作品である映画「硫黄島からの手紙」にも
描かれているが、硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、
水際作戦の防衛戦術を主張し、米軍を上陸させた後の撃滅作戦を意図した
総司令官栗林中将と対立したことで更迭され、アメリカ軍上陸前に本土へ
転任させられていたことで、生きて終戦を迎えた。
戦後、彼が天台宗の僧侶となり、硫黄島協会を設立して、硫黄島の戦闘に
於ける戦没者の供養と遺骨収容とに余生を捧げたことは世に知られている。

彼は戦後、硫黄島守備隊戦死者の遺骨収集の為に奔走し、未だGHQの占領下に
在った日本政府と米国政府に掛け合い、幾多の困難を経て、硫黄島に渡り、
玉砕した将兵の遺骨収集を実現させた。
その彼が現地で目にしたものは、「収集した遺骨の内、1000体分に頭蓋骨が
見当たらない」という異様な惨状であったのだ。
上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」に依れば、彼は硫黄島駐屯のヤングス
空軍少佐と、グアム島駐屯のコリンズ海軍大佐に、頭蓋骨の数が足りないこと
を告げ、米軍当局の釈明を求めて抗議をしたが、「そのことは承知しているが、
現段階では声高に糾弾せず、当方に任せて欲しい」との返答があったという。
また別の戦場のケースとして、戦後にマリアナ諸島から日本軍将兵の遺体が
送還された時、その約60%には頭蓋骨が無かったという記録もある。


魚雷艇400
米海軍魚雷艇341号艇甲板上で、日本軍将兵の頭蓋骨を弄ぶ
マクファーソン海軍中尉。(1944年4月30日ニューギニア戦線)


これが何を意味するかと言えば、日本軍と戦った太平洋戦線の米軍兵士の間
には、戦勝記念に日本軍将兵の頭蓋骨を持ち帰るという猟奇的な習慣があった
ということである。
頭蓋骨のコレクションどころか、米軍兵士に依る日本軍将兵の遺体損壊という
残虐な猟奇行為は日常化していたのである。
1927年(昭和2年)に、スピリット・オブ・セントルイス号で大西洋単独
無着陸飛行に初めて成功したチャールズ・リンドバーグが、その従軍日誌
「リンドバーグ第二次世界大戦日記」で、米軍兵士の日本軍将兵の遺体への
目に余る冒涜の目撃談を著わし、その実態を告発していることも有名である。
遺体に小便を掛けることや、遺体を的にしての射撃、頭蓋骨をボール代わりに
してサッカーをするなどは序の口で、ペニスを切り取って、口に咥えさせる、
耳や鼻を切り取って、ネックレスにする、帰還する時に持ち帰る為に耳や鼻を
乾燥させる、ゴールドラッシュと嘯きながら、金歯を抜き取る、砲弾が着弾
して出来た穴に遺体を放り込んでおいて、その場を残飯などの廃棄物の集積所
にするなど、獣にも劣る蛮行が日常化していたのである。

中には生首をそのまま持っていた海兵隊員がいて、悪臭が強くなり過ぎた
ことから、その首を上官から取り上げられたというおぞましい話もある。
馬鹿は馬鹿なりに知恵を働かせるもので、頭蓋骨から肉片を取り除く為に、
煮るようになったという。
そうして出来上がった肉を削ぎ落とした頭蓋骨は、一体35ドルの値で売買
されていたということである。


ビルマ戦線300
木に吊るされた日本軍将兵の生首。(1945年ビルマ戦線)


これほどまでの遺体への冒涜は、日本人に対する人種差別的感情が無ければ、
為し得なかったことであったろう。
ヨーロッパ戦線での激戦場でも、独軍兵士の遺体の切り取りが流行したなど
聞いたことが無い。
1952年に、米国の移民と国籍に関する事項を定めた法律である移民国籍法は、
ネバダ州選出の上院議員パトリック・マッカランとペンシルベニア州選出の
下院議員フランシス・ウォルター、二人の策定の下、制定された法律で、
マッカラン=ウォルター法とも言われるが、この人種差別主義者のフランシス・
ウォルターは、太平洋戦線で戦死した日本軍兵士の肘から手首に掛けての骨、
前腕骨で作つたペーパーナイフを嬉々として、フランクリン・D・ルーズベルト
大統領の贈呈した人物でもある。
日本を巧妙な謀略で対米戦争へと誘い込んだ、卑劣な人種差別主義者であった
ルーズベルト大統領は、そのペーパーナイフを愛用している自らの写真を
反日キャンペーンに利用していたという。


ライフ誌
日本軍兵士の頭蓋骨を送ってくれた米軍兵士に礼状を書く女性
「ライフ誌1944年5月22日」


ミズリー州のカトリック教大司教管区内の一教徒が、友人の子供が太平洋戦線
に従軍中の兄から送って来た日本軍将兵の頭蓋骨をおもちゃにして遊んでいる
のを目撃し、その旨教会へ通報したのが発端となって、米国内で遺体冒涜問題
が議論に上るに至った。
同教会は機関週報「アーチ・ディオシイス」誌上で、米軍兵士の背徳心を
非難し、「教会の掟は邪悪な目的を以って死体を冒涜することを禁じている。
死後の人間の身体に対する礼儀として、頭蓋骨は適当に埋葬されねばならない。
敵国人の身体の一部であるか、どうかに依って区別されるべき問題ではない」
との厳重警告を米国社会に発した。

また、米国のグラフ雑誌「ライフ」1944年(昭和19年)5月22日号に、
米軍兵士が戦地から米国本土の彼女に記念品として送って来た日本軍兵士の
頭蓋骨を使ったトロフィーが机の上に置かれ、それを眺めながら寄贈に対する
礼状を書く女性の写真が掲載された。
その写真を入手したドイツ外務省は、外国新聞記者団会見を開き、写真を公開
すると共に、「かかることは、ドイツ人の考え方を以ってしては到底、想像も
付かぬことで、アメリカの道義が如何に頽廃しているかを最も明らかに示す
ものと言えよう。 正に『首狩り時代』の再現である。
アメリカが、往昔の食人時代に復帰していることを物語るものに他ならない」
との見解を発表した。

このように、日本軍将兵の遺体損壊ブームが世論の非難を浴びる事態となった
のを受け、ルーズベルト大統領は慌ててその人骨ペーパーナイフを送り返した
という。
親が親なら、子も子であるというもの。
ルーズベルト大統領の息子である、ジェームズ・ルーズベルト海兵隊大尉は
カールソン中佐指揮下の部隊に配属されていた。
1942年(昭和17年)8月17日の早朝、そのカールソン隊は、西太平洋の
ギルバート諸島マキン島の日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させたが、
彼らは戦死した日本軍兵士の遺体を切り刻み、男根と睾丸とを日本軍兵士の
口中に詰め込むなどの蛮行を働き、20年後に遺体を陵辱した様子を記録した
写真が公表されると共に、その冒涜の有り様がテレビ番組で語られたという。


毎日信濃


米軍の残虐な遺体損壊行為の流行は、当時の日本政府の知るところとなり、
政府の広報誌「週報」第407号1944年(昭和19年)8月9日付には、
「人骨弄ぶ敵の本性 かかる民族こそ抹殺さるべきである」との記事を
掲載した。

『チューリヒ八月二日発の同盟電は、二つの驚くべき事実を我々に伝へてきた。
一つは、最近敵米国内において「太平洋戦線に出動中の米国兵から『記念品』
として戦死した日本兵の頭蓋骨が送られ、子供がこれをおもちやにしてゐる」
といふことであり、もう一つは、ペンシルベニア州選出下院議員フランシス・
ウォルターが、同じく「太平洋戦線で戦死した日本兵の前膊骨で作つたペーパー
ナイフ(紙刀)を「甚だ小さい部分で申訳ないが……」といつてルーズベルトに
贈呈したといふ事実である。

この二つの事実から推しても、かういふことが米国内で恐らく相当行はれて
ゐることは疑ひない。
流石に敵米国内でもこれは問題となつた。ミズリー州のカトリック教司教管区
の機関紙レヂスターが、米国民一般の背徳心を非難して「死体の冒涜を禁ずる
のは教会の掟である。死後人間の身体に対する礼儀として、頭蓋骨は適当に埋葬
されねばならない。敵国人の身体の一部であるか、どうかによつて区別される
べき問題ではない」と述べ、そのためにこの事実が明るみに出たのである。

一体、敵米国人は人間といふものをどう考へてゐるのであらうか。
人骨を弄ぶ、かういふことは、我々日本人の常識では考へられないことである。
我々はどの戦線においても、敵の死体は手厚く葬つて来た。墓標を建て、花を
供へ、供養もする。
昭南にも、マニラにも、戦死した敵兵の墓標があり、慰霊祭さへ行はれてゐる。
これは教会の捉にあるから、さうするのでもなければ、赤十字条約で「死者が
敬意を以て埋葬せられ、その墳墓が尊敬せらるべきこと」を約束し合つてゐる
からやるといふのでもない。
万物の霊長たる人間の人間に対する礼儀であり、道義である。
人骨を以て紙刀を作るに至つては論外である。水牛の骨か鹿の角で紙刀を作る
位にしか考へてゐないのであらう。恐るべき人間の人間に対する冒涜である。

成程、米国人は、立派な機械や優れた物質を産んだかもしれないが、人間の道義
といふものを持つてゐない。
人間の尊厳といふことを自ら放棄してゐるのであらう。
口に人道を称へ、博愛を称へ、白人を世界至高至善の民族と思ひ込んでゐるかも
しれないが、彼アングロサクソン民族の本性はこゝにあることが分つた。
彼等のなすところ、行ふところは、かくの如くである。彼等は黒人を動物といふ。
日本人を猿と好んでよぶのは、自らが畜生であり、畜生道を以て人間を律して
ゐる証左でもある。
 
この敵米国人の獣的人間観と野獣的行動は、決して今に始つたものではない。
建国以来の彼等の正体である。
彼等の建国の歴史も、原住民鏖殺の残虐の血によつて彩られ、東亜侵略の歴史も
彼等の獣性の発揮で築き上げられたのであつて、大東亜戦争以来も、珍らしい
ことではなかつた。
あのガダルカナル戦線において、我が将兵は彼等のためにどんな冒涜を受けた
ことか。
重傷で倒れた戦友は戦車で押しつぶされ、素つ裸にして逆さに生き埋めに
された者もあつた。
しかも彼等は、これらをスポーツの如く、また日常茶飯事の如く平然とやつて
のけ得るのである。
彼等はその獣性をいよいよ発揮し、こゝに及んだのである。そしてわが前線将兵
並びに在外邦人に襲ひかゝり、神州を抹殺せんとしてゐるのである。

かゝる民族を世界にのさばらしておいたのではどういふことになるか、
思ひ半ばに過ぎるものがある。
敵は「日本民族を地球から抹殺すべし」と呼号してゐるが、世界人類のために、
神意により、抹殺されるべきはかゝるアングロサクソンの畜生どもである。
我々は敵の野獣性をよく肚に入れて、この聖戦を戦ひ抜き、世界人類のために
断じて勝たねばならない』                           


米軍のみならず、英軍も豪軍も同様に、日本軍捕虜の虐殺、遺体への陵辱行為を
当然の如く行ないながらも、戦勝者である彼らがその罪過を問われることはない。
幕末の開国から昭和20年の敗戦に至るまで、大日本帝国はその本性に野蛮性を
蔵する白人至上主義の国家群と孤軍奮闘、滅亡に至るまで戦い抜いたのである。






タグ :

何故、日本語で祈らないのか? …仏教経典の起原を辿れば…

 2012-01-09
何故、日本語で祈らないのか? 

…仏教経典の起原を辿れば…


仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ逝去(北伝では、紀元前383年)の後、
その弟子達はブッダの教えを、話し言葉に近い簡潔な形に表現し、口伝えに
伝承して行ったと思われる。
暗唱の便宜を意図としたものと思われるが、如何にもインド人らしい韻文の詩
や簡潔な文に纏められた。
古代インド人は、宗教聖典は暗記するもので、文字に書き起こしてはいけない
という考え方をしていたようで、バラモン教では教師がヴェーダ聖典を唱え、
弟子がその後に付いて唱え、ひたすら暗記することが学問であったという。
そういう伝承文化を背景にして、仏教徒はブッダの教えを耳で聞いて、
口伝えに伝承して行ったのである。
そして、或る時期(アショーカ王以前であるから、紀元前268年以前)に
サンスクリット語のプラークリットと呼ばれる俗語(地方口語)である
パーリ語に書き起こされるようになり、それらがパーリ語の仏教経典
「スッタニパータ」や「ダンマパダ」に伝えられているということになる。
しかし、口伝えの伝承の経緯からして、仏典は飽くまでも読まれるものでは
なくて、「吟詠されるべきもの」として在ったのである。



ゴータマ・ブッダが2500年前に語った言語が何語であったのか、断定出来る
だけの明証はないが、古代マガダ語、或いは古代マガダ語の影響の強い俗語
(東部インド語の一種)ではなかったろうかとの説がある。
公用語であったサンスクリット語がバラモンなどの用いる難解な言語である
のに対して、古代マガダ語は庶民が日常的に使う話し言葉であったという。
パーリ語仏典の詩文に古代マガダ語の痕跡が見受けられることが、ブッダが
古代マガダ語を語っていたのではないかとの根拠とされているのだ。
そうであるから、パーリ語に書き換えられる以前は、同様にブッダの教えは
古代マガダ語、或いは古代マガダ語の影響の強い俗語で仏教徒に口唱されて
いたものと推察される。
古代マガダ語に依る伝承が何故、パーリ語に書き換えられたのかに付いては、
仏教を広めるに当たり、土着の言語である古マガダ語よりも広範に語られて
いたパーリ語の方が都合良いと判断されたものであろうと思われる。
当時の公用語として普及していたサンスクリット語は、学術用語、宗教用語に
適していたようで、パーリ語はその俗語であったという事情に依る。


こうして、パーリ語で書かれた原始仏典の中で最も有名な仏典はおそらく
「ダンマパダ」(Dhammapada)であろうと思われる。
日本語では「真理のことば」と訳されていることが多く、
中村元博士訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」(岩波文庫)や、
初代の日本仏教会事務総長を務められた友松圓諦(ともまつ えんたい)師訳
「法句経(ほっくきょう)」(講談社学術文庫)が有名である。

南アジア諸国の仏教徒は現代でも「自国語」で、この生活の指針となるような
人間の真理を端的に述べている「ダンマパダ」の文章を愛唱している訳である
が、当然のことながら、唱える人もそれを聞いた人も、聞いただけでその意味
を理解しているのである。
そもそもそのことに、ゴータマ・ブッダが庶民の日常的に使う話し言葉で
あった古代マガダ語で教えを説き、仏教徒が古代マガダ語で口伝えの伝承をし、
原始仏典がサンスクリット語の俗語であるパーリ語で書かれた意義があった
のである。

釈迦像400

しかし、思想、宗教は発展して行くもので、当初は韻文や簡潔な詩文で纏められた
ブッダの教えも、やがて散文で説明されるようになり、「経」だけではなく、
「律」と「論」の三蔵が成立し、サンスクリット語に訳され、紀元前後には
大乗経典が成立し、やがてシナに伝播し、シナでは創作、編纂を交えた漢訳が
為され、それらの大乗仏典が煌びやかな仏像を伴なって、ブッダの教えとは
似ても似つかぬ宗教が、これぞ仏教なり!として、日本に伝来したのである。
我が国は仏教を、先進国の神「蕃神(となりのくにのかみ)」として受け入れた。
その段階で既に、仏典を読誦すること、仏典を書写すること、仏典の首題を
口にすること、仏典に触れることにさえも「ご利益」があると考えるように
なっていたのである。


日本の仏教徒は仏典の読誦「読経」を、そのパーリ語やサンスクリット語の
仏典を訳経僧達が漢訳つまり「意訳」したものを、そのまま漢音、呉音を
織り交ぜて「音訓み」しているのである。
千数百年の間、我が国の仏教徒が、漢訳された仏典をやまと言葉で読み下して、
読経したことがあるなどとは寡聞にして、私は聞いたことがない。
キリスト教で言えば、英訳の聖書にカタカナのルビを振って、それを読み上げ
ているのと同様である。
キリスト教では既に、カソリックとプロテスタント共訳聖書が出版されている。


身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の機関紙「日蓮宗新聞」2009年12月
10日号に、「現代日本語訳の法華経読誦を考える」というテーマの論説が掲載
されたことがある。
さすがに、全国5200ヶ寺を包括する延山だけのことはあると、その慧眼には
敬意を表するが、その後の動向は耳にしていない。
その論説の中に「…これらを何とか違和感のないようにまとめて、人々が
釈尊の真意に触れ、生きる指針となるよう努力したい…」とあったが、
この『違和感』というのが、なかなかの曲者なのである。

かつて、中村元博士が「スッタニパータ」を岩波文庫で邦訳された時の
エピソードであるが、仏教界から「その訳文に聖典としての壮重さが無い」と
批評されたという。
それに対して、中村博士は「『聖典としての壮重さ』なるものは、漢訳を用いた
シナ・日本に於いて、教団としての権威が確立した後に必要となったもので
あり、インドや南アジア諸国では、それを目指していなかった。ただ、人間の
真理を端的に述べていただけである」と述べられた。

仏教伝来400

要するに、日本語にしてしまったら、勤行の格好が付かない、有り難味が
薄れるということなのだ。

例えば、妙法蓮華経如来寿量品第十六(法華経)
自我得仏来(じがとくぶつらい)所経諸劫数(しょきょうしょこっしゅ)
無量百千万(むりょうひゃくせんまん)憶載阿僧祇(おくさいあそぎ)
常説法教化(じょうせつぽうきょうけ)無数億衆生(むしゅおくしゅじょう)
令入於仏道(りょうにゅうおぶつどう)爾来無量劫(にらいむりょうこう)

などと、訳の解らない音訓みをしていないで、
「私が仏になってからというもの、数えきれないほどの永い永い歳月が
 経っている。
 ずっと遠い昔より仏として法を説いてきた。
 そして無数億の数え切れないほどの沢山の者を教化して
 仏道に入らしめた。 そうして、その時以来、無量劫である」と、
日本人なのであるから、日本語で読誦すれば良いのだ。

小難しい顔をして、押し殺したような渋い低声で
「爾時世尊」(にーじーせーそん)などと唸っていないで、
「その時、世尊は」と素直に唱えれば良いではないか。
「如是我聞」(にょーぜーがーもん)などと音訓みしていないで、
「私はこのように聞いた」と唱えれば良いのである。


どの経典を依所として教義を展開したかに依って、宗派が分かれているが、
それぞれ立宗の根拠とする経典を絶対的なものとして大層、有り難がっている
割には、その仏典を和訳して、日本語で読経しようという運動が起こらないのは
至極、不思議なことである。
現代ならば、シナ仏教に依る加上を排除して、パーリ語仏典やサンスクリット語
仏典から直接、日本語に翻訳出来る環境が整っているにも拘わらずである。
原典を「意」訳したものを「音」訓みして、その読誦には大変な功徳があると
充分に満足しているのであるから、その「音」自体に意味を見出していると
しか考えられないのである。
思考は言語に依るもので、日本の仏教徒の頭脳が常に、サンスクリット語を
意訳した漢字のその音で、物事を考えているなどということは有り得ないのだ。

読経400

これでは、仏教と言い難いのではないのか。 
むしろ、ヒンドゥー教に近いのだ。
ヒンドゥー教のタントラ教義を取り入れて、ヒンドゥー化した仏教である。
世界観を表現した曼荼羅に向かい、口に呪文(真言、マントラ)を唱え、
手に印契(いんけい)を結び、心に大日如来を思い浮かべる密教の三蜜に、
どこの宗派の行法も大なり小なり類似しているのだ。
念仏を唱える浄土宗系にしても、題目を唱える法華宗系にしても、顕教と自任
していながら、自分でも訳の解らないお経を唱え続けて、その功徳広大無辺と
有り難がっているところなど、むしろ呪文に近いものがある。
結局、行法は密教そのものと言えるのだ。


日本の仏教徒の「口唱」に付いては、鎌倉時代に大きな変革があった。
鎌倉時代には、貴族階級御用達仏教から庶民化への広がりの中で、
厳しい修行を求めない「易行(いぎょう)」の中で、唯一の救済方法を選ぶと
いう「選択(せんちゃく)」に依って選択した修行にひたすら専念するという
「専修(せんじゅ)」の傾向性を顕わにしながら、浄土信仰からは、法然の
浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、天台宗の法華経信仰から日蓮法華宗
などの新興仏教が生じた。


現代では、「念仏」とは、浄土教系の信仰で合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と
称えることを言うが、初期の仏教では本来、読んで字の如く、「仏を憶念する」
こと、つまり「仏を思う」ことを意味した。
仏弟子達が「南無仏」と唱えたのは、ブッダに対する追憶の念仏であった。
大乗仏教に於いては、多仏思想が生まれ、念ずる対象となる仏の多様化に伴い、
諸仏を礼拝、讃嘆することが行と化して行ったようである。
浄土教系の信仰では、「礼拝」「讃嘆」「作願」「観察」「回向」という方法があり、
「阿弥陀仏を拝み、阿弥陀仏の名号を讃え、阿弥陀仏の浄土の生まれることを
願い、阿弥陀仏の浄土の美しさを観察し、功徳を阿弥陀仏の浄土に生まれる為
の因として、差し向けるという行為」が「阿弥陀仏を思う」ということの内容である。

日本浄土教の基礎を築いた恵心僧都(えしんそうず)、源信はその著作
「往生要集」で、「観想」と「称名」の2つの念仏を立て、「観想念仏」を
重視した。
浄土宗の開祖、法然は「ナムアミダブツ」と唱える「口称念仏」「称名念仏」を
「正定(しょうじょう)の業(ごう)」とし、他を「助業(じょごう)」として、
補助的手段とした。
浄土真宗の開祖、親鸞は、それらの補助的手段である助業をも全否定して、
口称念仏の専修念仏思想を徹底させた。


平安時代中期、比叡山延暦寺の天台宗では、浄土教信仰に於ける称名念仏の
影響を受けたようで、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が漢訳した法華経の
タイトル(首題、題目)「妙法蓮華経」の五字を仏の名号と見做し、それに
帰依(帰命)するという意味のサンスクリット語「ナム(南無)」を冠して、
「南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)」と法華経の題目は唱えられていた。
「南無」は、サンスクリット語ナマス(namas)、ナモー(namo)の音写である。

天台宗の法華経信仰から、日蓮は浄土教に於ける専修念仏同様に、法華経の
題目「南無妙法蓮華経」をひたすら唱える「唱題(しょうだい)」を「正行
(しょうぎょう)」として選択し、他の法華経読誦などは補助的手段としての
「助行(じょぎょう)」としたのである。
サンスクリット語「namo- saddharma-pundariika-suutra」
「ナモー・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」の「namo」を音写して「南無」、
「saddharma-pundariika-suutra」を意訳して「妙法蓮華経」という。

比叡山400

我が国には古来、「言霊の幸はふ国」として、言葉には霊的な力が宿ると信じ
られたコトダマ(言霊)信仰というものがある。
万葉集の柿本人麻呂の歌に、
「敷島の大和の国は 言霊の幸(さき)はふ国ぞ 真幸(まさき)くありこそ」
「日本の国は言霊が幸いをもたらす国です。私のこの言挙げに依って、
 どうぞ、お幸せでご無事でいて下さい」とあるように、
声に出した言葉が、現実の事象に対して影響を及ぼすと信じられ、良い言葉を
発すれば、良い事が起こり、不吉な言葉を発すると、凶事が起こると考えられて
いたのだ。
言葉に宿るカミ(神霊)の不思議な力に依って、モノ(物)やコト(事)に
宿る神霊に働き掛け、その相関関係に於いて、自分を取り巻く周囲の状況や
生起する現象を転換させることが出来ると信じたのである。
古代日本に於いては、「言」と「事」は同一概念であったのだ。
コトダマ思想はアニミズム(自然崇拝・精霊崇拝)的で、太古からある
古神道的な信仰である。

法然、親鸞の「専修念仏」にせよ、日蓮の「唱題」にせよ、その根底に、
コトダマの働きの存在することが、成立する為の絶対条件となる訳であるが、
彼らがコトダマを意識したのか、否かは解らぬが、少なくとも日本人的な側面
を見せたとは言える。
カウボーイハットにウェスタンブーツを履いたアメリカかぶれの男性が、渋谷
の街を闊歩しているかのような違和感を覚えるインド&シナ合作の外来宗教で
ある仏教が、この段階で僅かながらも日本化したと言えるのかも知れない。



タグ :

旧日本軍の小銃は時代遅れであったのか?② …サブマシンガン

 2011-10-21
旧日本軍の小銃は時代遅れであったのか?② 

…サブマシンガン


サブマシンガンは、拳銃弾を使用して射撃する小型の機関銃のことであり、
短機関銃、機関拳銃、旧日本軍では機関短銃と呼称した。

旧日本陸軍の制式銃、ボルトアクション式の三八式歩兵銃、九九式短小銃にしても、
アメリカ陸軍のセミオートマチックライフル、M1ガーランドにしても、小銃弾を
使用し、基本的には一発一発、標的に狙いを定めて発射する狙撃銃であり、遠距離
までの射程を持つ訳だが、近接戦闘に於いて弾丸をばら撒いて火力で圧倒し、敵を
制圧するには射線不足で向いてはいない。
接近戦で使用される銃器は、有効射程が50mであろうが、1,000mであろうが、
その射程の違いには意味が無く、携帯性と連射能力の高さが死命を決することに
なる。
野戦では射程不足から、サブマシンガンは小銃に撃ち負けるが、近接戦闘では
その連射能力の高さから、圧倒的な制圧火力が有利となるのだ。
サブマシンガンには、有効射程距離は短くとも、濃密な弾幕を形成出来る利点がある。



アメリカ陸軍では、第一次世界大戦の経験から、歩兵全員に全自動射撃の可能な
自動小銃の配備を理想と考えたようだが、大戦後の大幅な軍事予算縮小の状況下、
コスト面で不可能で、次期主力小銃は半自動の小銃として開発された経緯がある。

銃器の発射機構を自動化或いは半自動化した場合には当然、弾薬を大量に消費する
ことになる訳で、それには前線部隊に充分な弾薬補給を維持出来るだけの豊かな
兵站能力が求められる。
その背景として、国家の経済力が充実していることが大前提となる訳だが、
旧日本軍では、弾薬消費量が補給(国力)の限界を超えてしまうことから、
自動小銃や機関短銃の製作は技術的には可能であったが、制式化は断念したという。
前線に展開する部隊に自動小銃を装備しても、直ぐに弾薬不足に陥ったのでは、
戦力にならないことになる。

弾薬の大量消費は深刻な問題で、アメリカ軍でも、装弾方式が三八式歩兵銃と
同じボルトアクション方式のスプリングフィールドM1903小銃からセミオート
マチックのM1ガーランドに切り替えたことに依る「無駄弾撃ち」が問題とされた
ほどである。
M1ガーランドでは、射撃途中に弾薬を追加装弾することをせず、新しいクリップ
を装填する為に、弾倉内の残弾を適当に撃ち尽くす「無駄弾撃ち」が発生した訳だ。

百式機関短銃 400

旧日本陸軍 一〇〇式(百式)機関短銃

一〇〇式機関短銃は、第二次世界大戦に実戦投入された旧日本軍唯一の
制式サブマシンガンであった。

仕様
口径   8mm
銃身長 230mm
ライフリング 6条右転
使用弾薬 8mm南部弾(十四年式拳銃実包)
装弾数  30発(湾曲箱形弾倉)
作動方式  ストレートブローバック式(オープンボルト式)
全長  872m(着剣時 1260mm)
重量  3700g(前期型、空弾倉・銃剣無し状態)
    3440g(後期型、空弾倉・銃剣無し状態)
    4270g(後期型、装填弾倉・銃剣有り状態)
発射速度  450発/分   (前期型)
      700~800発/分(後期型)
銃口初速  334m/秒
有効射程 150m  最大射程 600m
製造数  約10,000挺

義烈空挺隊 400

そもそもサブマシンガンは一発必中を期す小銃とは違い、近接戦闘に於いて、
弾幕を張って、敵を制圧することを信条とするが、この一〇〇式機関短銃には
照準安定の為の立脚や遠距離を狙う為の照尺、銃剣の着剣装置まで装備されて
いたことからして、旧日本陸軍のサブマシンガンの目的、用途に関しては相当な
見当違いの認識を持っていたことが想像される。

アメリカ軍は約30万挺のサブマシンガンを実戦配備したというが、そもそもこの
一〇〇式機関短銃は約1万挺しか製造されず、主に、空挺(落下傘)部隊や砲兵
部隊・騎兵部隊に配備されたほか、戦争末期にはフィリピン戦線や沖縄戦線に配備
されたというが、使用弾薬が小銃弾とは別の8mm拳銃弾であったことから、弾薬
補給が絶望的に不充分であったろうことは想像に難くない。

トミーガン400

アメリカ軍 トンプソンM1&M1A1サブマシンガン

1920年から約14年間に亘るアメリカの禁酒法時代を背景に、
アル・カポネなどのギャング達が「シカゴ・タイプライター」「トミーガン」の
愛称で50連ドラムマガジン付きのトンプソンM1928を好んで使用したという。

トンプソンM1とは、そのトンプソンM1928A1を原型として、1942年に
アメリカで省力化を施し、1943年から大量生産されたサブマシンガンである。
トンプソンM1A1は生産性の低かったトンプソンM1の更なる改良型である。

トミーガン 沖縄戦400

仕様
口径   45口径(約11.43mm)
銃身長  267mm
使用弾薬  45ACP弾(0.45インチ)
装弾数  20発/30発(箱型弾倉)
作動方式  ストレートブローバック式(オープンボルト式)
セミ/フルオート切替式
全長  813mm
重量  4740g
発射速度  約700発/分
銃口初速  280m/秒
有効射程 50m

グリースガン400

アメリカ軍 M3サブマシンガン(グリースガン)

アメリカ軍の制式サブマシンガン、トンプソンM1,M1A1は高性能であったが、
コストが高く、生産効率が悪かった為に、性能を多少は落としても、生産効率の
良い新型サブマシンガンが求められ、鋼板のプレス加工と溶接のみで製造出来る
M3マシンガンが開発された。
グリースを機械に注入する工具に似ていた為、グリースガンとも呼ばれる。

M3射撃 400

仕様
口径 11.43mm
     9mm
銃身長  203mm
使用弾薬 45ACP弾(0.45インチ)
     9mmパラベラム弾
装弾数  30発(箱型弾倉)
作動方式 ストレートブローバック
全長  570mm
    745mm(銃床延長時)
重量  3700g
発射速度  400~450発/分
銃口初速  280m/秒
有効射程  50m












タグ :

旧日本軍の小銃は時代遅れであったのか?① …アメリカ軍との比較

 2011-10-07
旧日本軍の小銃は時代遅れであったのか?① 

                     …アメリカ軍との比較


明治38年(1905年)の三八式歩兵銃は劣っていたか? 


旧日本軍と言えば…
空のゼロ戦、海の戦艦大和、そして陸の三八式歩兵銃であった。

私が博物館で三八式歩兵銃を実見した時の第一印象は、先ず「寸法が長過ぎる」
ということであった。
銃床から銃口まで1,276㎜、約130㎝もあり、約40㎝の三十年式銃剣を着剣
すると、全長1,663㎜にもなったことになる。
当時の日本軍兵士の体格は、平均身長157㎝、体重52.6㎏(米軍データ)と
華奢であった。
身長157㎝の兵士が、重量 3,730g(銃剣着剣時は4,100g)、長さ約130㎝の
ライフル銃で戦ったのであるから、さぞや扱い辛かったことだろう。
制式名称の「三八式」の正式な呼称は「さんはちしき」であるが、語呂が良い
ことから、「さんぱちしき」と称され、「三八銃」(さんぱち銃)とも呼ぶ。
総生産数は約340万挺。

性能に関しては、銃身長797㎜、口径6.5㎜、装弾数5発クリップ式 、
使用弾薬は6.5㎜弾の三八式実包、作動方式はボルトアクション式で、
射撃する毎にボルトを操作して、薬室から薬莢を排出し、次の銃弾を装填する。
銃口初速 762m/s、有効射程 460m。

三八式歩兵銃 500
三八式歩兵銃

三八式歩兵銃は、陸軍砲兵工廠の有坂成章砲兵大佐が明治30年(1897年)に
開発した「三十年式歩兵銃」をベースに、南部麒次郎砲兵少佐が機関部の部品
点数削減や防塵カバーの付加、使用弾薬の三十年式実包から三八式実包への
変更など改良を施したものなので、外国では「Arisaka type 38 rifle」
「Arisaka M1905 rifle」「Arisaka 6.5mm rifle」「Arisaka rifle(アリサカ・
ライフル)」とも呼ばれる。 
機関部の部品点数が少なかったことから、分解、組立てが容易であったという。
機関部の上に付加した防塵カバー(遊底被or遊底覆orダストカバー)であるが、
太平洋の島々でのアメリカ軍との戦いで、潜伏を得意とした日本軍兵士で
あったが、いざ発砲しようとボルトを動かすと、この防塵カバーがガチャ
ガチャと音を立てて、敵兵に居場所を知られてしまうことから、戦場では
取り外していた兵士が多かったそうである。

三八式 薬室500
三八式歩兵銃薬室

三八式実包は弾道の安定性が良く、小銃弾としては反動が軽く、発砲時に
銃口から出る煙も火花も少なかったという。
6.5㎜弾で、欧米の7㎜クラスに比べ、口径が小さく、威力が弱かった。
日本初の尖頭銃弾で、貫通力は優れていたようであるが、肉部への損傷は
比較的小さく、「不殺銃弾」と呼ばれたという。

弾倉への装填はクリップ式であり、5発の銃弾が素早く装填出来た。
完全軍装の場合、弾薬5発を1セットにしたクリップ(挿弾子)を6個30発
収めた 弾薬ケース(弾薬盒)を前に2個(前盒)、クリップ12個60発収めた
弾薬盒(後盒)を後ろに1個、ベルト(革帯)に通し、 計120発を1基数と
して携行したという。

6.5ミリ小銃弾三八式実包
6.5ミリ小銃弾三八式実包

難点を挙げるとすれば、当時の日本の工業水準からして、個々の部品精度に
バラツキがあり、先進諸国の兵器製造に於いて採用され始めていた部品の
互換性が不完全であったことであろう。
それは当時の日本工業製品には「規格」の概念が存在しなかった為で、製造の
組立て仕上げの最終工程では、熟練の職工の手に依る勘働きで部品のサイズ
などを微妙に調整する必要があり、同機種の部品でありながら、他の製品の
部品との互換性がないという現象が起きていたようである。
部品の互換性が完全であれば、戦場で故障した2挺の銃の有用な部品を組み
合わせて、使用可能な1挺の銃を仕上げることも出来るという訳であるが、
それが出来るとは限らなかったのだ。

M1903 500
スプリングフィールドM1903小銃

それにしても、日本軍は明治38年(1905年)に仮制式(制式化は翌年)の
旧式銃を昭和20年(1945年)までの40年間の長きに亘って使い続けたのか
と呆れる思いであったが、完成度の高いライフル銃に関しては、欧米でも事情
は同様で、アメリカ軍が開戦時に使用していた制式銃は、1903年制式化の
スプリングフィールドM1903小銃で、ほぼ同レベルの性能であったようだ。

作動方式は、三八式歩兵銃と同じボルトアクション
装弾数5発(箱型弾倉・クリップ式) で三八式歩兵銃と同じ
通常は5発を装填したクリップを12個、計60発を弾帯に収めていたという。

銃身長 610㎜   (三八式歩兵銃は797㎜)
全長 1,115㎜   (三八式歩兵銃は1,276㎜)
重量 3.9㎏    (三八式歩兵銃は3.73㎏)
銃口初速 823m/s (三八式歩兵銃は762m/s)
有効射程 457m  (三八式歩兵銃は460m)
使用弾薬は30-03弾 スプリングフィールドで、7.62㎜弾
(三八式歩兵銃は6.5 ㎜弾)

このM1903小銃は、第一次世界大戦に米軍制式ライフルとして使用され、
第二次世界大戦の初期の段階まで、ヨーロッパ戦線、北アフリカ戦線、特に
太平洋戦線の第一線で使用された。
後継のセミオートマチックM1ガーランドが支給された後も、M1903は精度が
高く、長距離でも威力が落ちないことから好まれて、海兵隊や陸軍レンジャー
部隊の一部では使い続けたということである。

M1ガーランド 500
M1ガーランド

アメリカ軍はM1903小銃の後継として、遂に半自動小銃(セミオートマチック
ライフル)のM1ガーランドを登場させた。
三八式歩兵銃やM1903のように、1回の発砲毎にボルトを操作する必要なく、
ガス圧を利用したロングストロークピストン式で、8発入りのクリップを装填
すれば、1回のボルトアクションで、薬莢の排出、弾薬の装填を8発撃ち尽くす
まで自動で行なうので、8発の連射が可能なのである。
対三八式歩兵銃となれば、特に接近戦で有利であったろうと思われる。

1936年(昭和11年)にボルトアクションのスプリングフィールドM1903小銃
の後継として制式化されながら、予算不足の為に生産設備の整備が遅れ、また、
1940年に銃身とガスパイプの接合部に欠陥が見付かり、一旦は生産が中止され、
既製品改修の必要が発生するなど、なかなか量産体制が軌道に乗らなかった
ようである。
結局、実戦配備開始は1941年後半に縺れ込んだが、1957年にM14小銃が
制式化されるまで、アメリカ軍の主力小銃であった歴史的名銃である。


M1ガーランド クリップ装弾

セミオートマチックライフル(半自動小銃)
使用弾薬は30-06スプリングフィールド弾で、7.62 ㎜弾
装弾数 8発
作動方式は、発射時のガス圧を利用した自動装填機構
口径 7.62㎜
銃身長 610㎜
全長 1,108㎜
重量 4,300g
銃口初速 848m/s
有効射程 1,500m


M1ガーランドの装弾方式は、弾薬8発の束をクリップに填め、ボルトを引いて、
上部からクリップごと差し込み装弾する方法であり、8発発射し終わると、
最終弾の薬莢排出と同時にクリップも排出されるようになっていた。
このクリップ排出の際に「キーン!」という甲高い金属音が発生したという
ことは広く知られていて、最終弾発射を敵に悟られてしまい、新しいクリップ
を装填するまでの間隙を突かれる恐れがあったというが、撃ち尽くした際には
ホールドオープン状態の弾倉には何も残っていない為、即座に弾薬クリップを
差し込む事が可能で、1対1の特殊な状況か、余程の接近戦でない限り、支障は
なかったのではないかと思われる。
映画ファンの私としては、あの「キーン!」という金属音が堪らない。

九九式小銃 500
九九式短小銃と九九式長小銃

九九式短小銃(九九式小銃とも称する)は、昭和14年(1939年)に制式化
された三八式歩兵銃の後継で日米開戦の年、昭和16年(1941年)に部隊
配備された。
昭和14年が皇紀2599年に当たることから、下2桁を取って「九九式」と
命名されている。
総生産数は約250万挺(三八式歩兵銃は約340万挺製造)

装弾方式は三八式歩兵銃と同じボルトアクション式で、M1ガーランドのような
セミオートマチックではない。
三八式歩兵銃より進化させた主要な点は、威力向上を向上させる為に、
口径を6.5mmから7.7mmへと大型化させたこと、機動性向上の為に、
銃身を短くしたことであろう。

九九式小銃には短銃身型と長銃身型があったが、主力小銃として量産された
のは、銃身が長銃身型より14㎝ほど短い短銃身型であった。
それで、九九式「短」小銃と称したという訳である。

作動方式 ボルトアクション式
使用弾薬 九九式普通実包 7.7㎜弾(三八式歩兵銃は6.5 ㎜弾)
装弾数 5発  (三八式歩兵銃も5発)
口径 7.7㎜  (三八式歩兵銃は6.5㎜)
銃身長 657㎜ (三八式歩兵銃は797㎜)
全長 1,118㎜ (三八式歩兵銃は1,276㎜)
重量 3.80㎏  (三八式歩兵銃は3.73㎏)
銃口初速 730m/s (三八式歩兵銃は762m/s)
有効射程 最大3,400m(三八式歩兵銃は2,400m)


九九式普通実包 7.7㎜弾

三八式歩兵銃から九九式小銃への大口径化に伴い、発射時の反動が増大した
ことに依り、精度の高い射撃が困難となり、命中率は低下したという。
日本軍兵士の体格からして、九九式小銃は三八式歩兵銃からの改悪と評価する
向きもあったようだ。

日本の国力の限界で、三八式歩兵銃(6.5mm)から九九式小銃(7.7mm)へと
全面更新することが出来ないままに、太平洋戦争に突入することを余儀なく
されたことは大問題であった。
2種類の主力小銃が同時に存在した訳であるから、互換性のない6.5㎜弾と
7.7㎜弾、2種類の弾薬を必要とした訳である。

流石に小銃の部隊配備は、師団単位で銃の口径は固定化され、南方戦線には
7.7㎜の部隊を、中国戦線には6.5㎜部隊をと区分けしていたそうであるが、
戦況悪化に伴い、戦争後期には中国戦線の部隊を南方戦線へと移動させたこと
から、弾薬補給の上で混乱を招いたようであった。
たとえ弾薬が山積みされていたとしても、口径が違えば、1発も発砲出来
なかったのであるから、始末が悪いことこの上なかった訳である。











タグ :

滑稽で深刻な軍事的浪費 …昭和17年3月4日の真珠湾再攻撃

 2011-09-29
滑稽で深刻な軍事的浪費 

…昭和17年3月4日の真珠湾再攻撃






「あぁ、旨い味噌ラーメンが食いてぇなぁ!」とふと思い立ち、東京から
北海道まで飛行機で行ったは良いが、札幌のお目当てのお店が閉まっていて、
風邪を引いただけで、何も食わずに帰って来た。
こういうことを酔狂と歓迎する向きもあろうが、実に不経済ではある。
この譬えに類する馬鹿馬鹿しく無益なことを、大日本帝国海軍は太平洋戦争
の軍事作戦全般に於いて、終始一貫真面目腐って遣っていたのだ。

真珠湾攻撃 航路図400

昭和16年(1941年)12月8日(日本時間)
南雲忠一中将指揮の下、旗艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」
の航空母艦6隻を基幹として、戦艦2隻、重巡洋艦2、軽巡洋艦1隻、
駆逐艦9隻などの艦艇と艦上爆撃機、艦上戦闘機などの作戦機約350機を
擁する日本海軍空母機動部隊は、ハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ海軍
太平洋艦隊を奇襲攻撃し、戦艦5隻沈没、駆逐艦2隻沈没、戦艦3隻中破、
巡洋艦3隻中破、航空機343機を破壊し、戦死者2,345名、民間人57名死亡
の損害を与えた。

因みに日本海軍の被った損害は、未帰還機29機、損傷74機、戦死者55名
航空攻撃に先立つ特殊潜航艇「甲標的(こうひょうてき)」に依る水中特別攻撃
では、4隻撃沈、1隻座礁・拿捕、戦死9名、捕虜1名であった。

空母甲板B400

この真珠湾攻撃作戦は、山本五十六大将の発想で、第十一航空艦隊参謀長
大西滝次郎少将が発案し、第一航空艦隊参謀・源田実少佐が実際の研究立案を
行い、作戦要項が策定されたと伝えられている。

アメリカ合衆国政府に石油禁輸措置で経済封鎖を仕掛けられた日本国政府が
開戦を決意せざるを得なかったという経緯からして、日本軍は東南アジア
の油田地帯をメインに、南方の資源を獲得する作戦を推進する必要があった。
その南方作戦行動に於いて、アメリカ太平洋艦隊の戦力は「東方からの脅威」
として、牽制しておく必要があり、開戦の劈頭にハワイ真珠湾の海軍基地を
壊滅的に破壊することに依り、その士気と戦力を致命的なまでに削いでおく
必要があると考えられたのだ。

つまり、日本軍のメインの作戦、南方への進攻の妨げにならぬように一定期間、
アメリカ太平洋艦隊の作戦行動を封じ込めたいが為に、空母6隻の航空戦力を
集中させてまで投入するという、一か八かのギャンブル性の高い作戦を敢えて
強行したのである。
しかも、アメリカとの国力差を考えれば、日露戦争同様に短期決戦でなければ、
日本に勝ち目の無いことは解り切ったことであっただけに、短期決戦戦略に
基づいて、どうしても緒戦で徹底的に叩いておく必要があったのだ。

空母甲板A400

ハワイ現地時間12月7日日曜日の朝、午前7時49分、第一波航空攻撃隊は
真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄中佐が「全軍突撃せよ」
を意味するト連送を下命した。
この時、淵田中佐が旗艦赤城に対して「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する
「トラ・トラ・トラ」を打電したことは有名である。

ハワイ時間午前8時54分、第二波攻撃隊は「全軍突撃せよ」を下命したが、
奇襲であった第一波攻撃時の混乱より立ち直ったアメリカ軍は迎撃態勢を
整え、防御砲火を集中させて、第二波攻撃隊に大きな損害を与えた。

本来であれば、続けて第三次攻撃を行なうべきであったのだ。
何故ならば、この段階で、450万バレルも貯蓄していた石油貯蔵タンクや
海軍工廠の修理ドック(船舶の製造、修理などに際して用いられる設備)など
港湾施設を殆ど爆撃してはいなかったのだ。
後に損害が軽微であったドックなど港湾施設を活用して、沈んだ戦艦8隻の内、
6隻は引き揚げられ、何と戦線に復帰させているほどである。

真珠湾上空400

真珠湾に停泊していなかった正規空母「エンタープライズ」と「レキシントン」
の所在不明という恐怖に怯えたのか、国家の存亡を懸けた大作戦であったにも
拘わらず、第三次攻撃隊を発進させることなく、中途半端な戦果に満足して、
ハワイ時間午後0時30分頃、空母機動部隊は北北西に変針し、日本への帰路に
就いたのである。 
この真珠湾攻撃の不徹底さが、開戦初日の時点で早くも日本の短期決戦戦略を
頓挫させた言える。
第三次攻撃隊発進の必要性を意見具申したのは、三川軍一中将のみであったと
いう体たらくであったのだ。
港湾施設を破壊もせず、敵空母は討ち漏らし、その上、厭戦気分が蔓延して
いたというアメリカ世論を参戦へと大転換させて、不戦を選挙公約に掲げて
当選していたルーズベルト大統領の思う壺に嵌まってしまったのであるから、
作戦自体は戦術的に成功を収めはしたが、戦略的な大敗北であったと言える
のだ。

真珠湾被害400

真珠湾攻撃後、日本海軍は潜水艦に依るハワイ周辺海域の偵察行動など、
情報収集を続け、攻撃から1ヵ月余り、予想以上のペースでアメリカ太平洋
艦隊基地の復旧が進んでいることを察知し、復旧を遅延させる必要性から、
少数機で真珠湾を夜間爆撃するK号作戦(もしくはK作戦)という、新たな
真珠湾攻撃計画を立案した。

この作戦には空母を投入せず、真珠湾に到達出来るだけの航続距離を持つ
航空機であることが大前提となり、戦略爆撃機ボーイングB-29スーパー
フォートレスの5,300㎞よりも長い、最大7,400㎞の航続距離を持つ
二式飛行艇(にしきひこうてい)が選ばれた。

二式大艇A400

二式飛行艇は通称「二式大艇(にしきだいてい)」と呼ばれる。
この二式大艇は、九七式飛行艇の後継機として開発された4発大型飛行艇で、
レシプロエンジン装備の飛行艇としては、現在でも世界最高水準の性能を持つ
名機であろうとの定評がある。
最高速度は444㎞/hで、ゼロ戦以前の主力戦闘機であった九六式艦上戦闘機と
同等の飛行速度を出せるほどの優秀機であった。
攻撃時は重武装するので当然、航続距離は短くなり、飛行速度も遅くなる。
九七式飛行艇と同様、川西航空機(現 新明和工業)製で、初飛行は昭和16年
(1941年)1月、昭和17年(1942年)2月に制式採用された。 

武装も20㎜機関砲を多数装備と、防御火器を充分装備し、連合軍パイロットから
「フォーミダブル(恐るべき)」機体と恐懼されたという。
高速と航続力を活かして、太平洋各地の偵察・爆撃に従事した。
167機が生産されたが、終戦時には4機しか残っておらず、アメリカ軍から
返還された1機のみが現存する。
私は、東京の「船の科学館」で野外展示されていた二式大艇を実見したが、
現在は、海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移され、展示されているという。



昭和17年(1942年)2月12日、2機の二式大艇(1番機 橋爪寿夫大尉機、
2番機 笹生庄助少尉機)が横須賀基地を出発し、14日にマーシャル諸島
ヤルート環礁に到着した。
燃料補給は潜水艦に依る給油とし、飛行艇母艦「秋津州」の運用実績を活かし、
伊号潜水艦(伊15号、伊19号、伊26号)の水上偵察機格納筒を改造して、
燃料補給装置を開発していた。

3月2日、二式大艇2機はマーシャル諸島ウォッジェ環礁に移動。
3月4日、二式大艇2機はウォッジェ環礁を出発し、伊9号潜水艦からの
長波照射に依る誘導を受け、北西ハワイ諸島フレンチ・フリゲート礁に到着、
伊15号、伊19号潜水艦から給油を受けた後、真珠湾に向けて出撃した。

アメリカ海軍はカウアイ島のレーダーで2機を捕捉し、カタリナ飛行艇と
カーチスP-40戦闘機を迎撃の為発進させ、空襲警報を発令したが、迎撃機と
交戦することもなく、現地時間で午後7時過ぎ、それぞれが搭載した4発の
250㎏爆弾を投下出来た。
当日、真珠湾上空は雲が厚く、視界不良の上、アメリカ軍は急遽灯火管制を
敷いた為、爆弾は目標に命中することなく、与えた損害はドックや燃料タンク
周辺の道路を傷付けたに過ぎず、戦果はゼロに等しかった。

二式大艇B水上400

作戦自体は成功したと言えようが、何と効率の悪い爆撃計画であったことか。
そもそも、機動部隊が正規空母6隻、350機の作戦機を投入し、水平爆撃に
関しては長門型戦艦の主砲弾を改造した800㎏徹甲爆弾まで用いた大掛かりな
12月8日の真珠湾攻撃時、折角の大チャンスを逃して爆撃して来なかった港湾
設備を破壊する目的で、250㎏爆弾を僅か8発、計2tの爆弾を投下する為に、
二式大艇を2機、伊号潜水艦を4隻投入しているのだから、呆れ返るほどに
お馬鹿な作戦であったのだ。
日本本土爆撃でアメリカの戦略爆撃機B-29は1機当たり、3tの爆弾を投下
した。
考えてみれば、B-29がわざわざポツンと単機で日本本土爆撃行に来ていた
としたならば、攻撃された日本側も奇妙に感じたことだろう。
それでもB-29は250㎏爆弾8発、計2tよりも多い3tの爆弾は投下出来た
ことになる。



この馬鹿げた真珠湾再攻撃の齎した思わぬ副産物が、ミッドウェイ海戦を
大敗北へと導いた要因の一つになったのかも知れない。
それはこの攻撃で北西ハワイ諸島フレンチ・フリゲート礁を二式大艇の途中
給油地に使ったことを察知し、アメリカ海軍がハワイ周辺海域の警戒を厳重に
して、中継点であるフレンチ・フリゲート礁に哨戒艇を派遣したからである。
本来であれば、ミッドウェイ作戦直前に二式大艇に依る偵察が必要であった
のだが、ヤブヘビ状態を招いてしまった結果、それも出来ず、南雲機動部隊は
ハワイ周辺海域の敵情が不明なまま、ミッドウェイ海戦を戦うことになって
しまったという訳である。












タグ :
≪ 前ページへ ≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫ 次ページへ ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。