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占いの歴史夜話⑮…手相学研究の始原

 2016-11-26
占いの歴史夜話⑮ 

…手相学研究の始原



街占(がいせん)の占い師さんが、テーブルの上に置いている行灯(あんどん)
には、「観相学」とか「観相(かんそう)」と書いてある。
観相学というのは、人相学のことであるが、人相というのは本来、骨相、体相、
顔相、手相などを含む総称である。
しかし、現代では人相と言う場合、その殆どが顔相のことを指している。

手相、人相と聞くと、如何にも東洋的な占術の印象が強いのではなかろうか。
日本の人相学の場合は、今から4千数百年前の古代中国で発祥した人相学を
基本にしているが、手相学の場合は西洋の手相学が基本になっている。
手の平の指の下の膨らみを「丘(おか)」と呼ぶが、人差し指は木星の波動を
キャッチするので、人差し指の根元の丘を「木星丘(もくせいきゅう)」、
中指の根元の丘を「土星丘」、薬指の根元の丘を「太陽丘」、小指の根元の丘を
「水星丘」、親指の根元を「金星丘」、また小指の下、手首の上辺りの広い範囲
の膨らみを「月丘(げっきゅう)」と呼ぶように、日本の手相学がヨーロッパで
発達した手相学をルーツにしているというのは意外な印象を受ける。


第15記事1
かわいいフリー素材集「いらすとや」様の画像を拝借。


昭和20年(1945年)の話であるが、横山一郎海軍少将が当時、海軍省職員の
身分で航空機パイロットの採用選考時に、手相人相の鑑定を担当していた
水野義人氏に「手相の勉強をしたいので、教科書を貸して欲しい」と頼んだ
ところ、英語の本を2冊渡されたそうで、手相学は中国の占術だと思い込んで
いた横山少将は、余りの意外さに大変驚いたというエピソードが残されている。

手相学の発祥の地は、数千年も昔の古代インドだと言われている。
古代インド人は人間の身体の「皺(しわ)」と、運命の間には深い関係がある
のではないか?ということに思い至って、「サムドリカ」という運命学として
研究を始めたというのである。
全身の皺が対象では、さぞや難儀な研究であったに違いない。
サムドリカの研究が進み、やがて手の平の筋が最も人間の運命と深い関係に
あるという結論に至り、現在の手相学の元となる「サムドリカ・シャストラ」
が成立して、手相の研究が進められたという。

旧約聖書のヨブ記37章7節に「人の手の業(わざ)をすべて封じ込め、
すべての人間に御業(みわざ)を認めさせられる」とある。
(聖書 新共同訳 日本聖書協会発行 825ページ)
「神はすべての人間に自分の為すべきことを自覚させる為に、その暗号として、
スジや線を刻んだ」(文責在詠山史純)という意味になろうか。
ヨブという人は、紀元前2千年のアラビヤに住んでいた実在の人物であるから、
インドに発祥した手相学は、4千年前にはアラビアにも伝わっていたことになる。

また、旧約聖書の箴言(しんげん)3章16節にはソロモン王の格言として、
「右の手には長寿を、左の手には富と名誉を持っている」とある。
(聖書 新共同訳 日本聖書協会発行 993ページ)
「右手にはその人の寿命が表わされ、左手には財運や成功運が表わされる」
(文責在詠山史純)という意味で、この手相の見方は現代ヨーロッパでも
用いられている。
ソロモン王はイスラエル王国の第3代の王であるから、紀元前1千年頃には、
古代イスラエルでも手相学が盛んに研究されていたことになる。


第15記事3

第15記事2
   手相診断(Palm Reading)を受けるマリリン・モンロー





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占いの歴史夜話⑭…年占(としうら)

 2016-11-25
占いの歴史夜話⑭ 

…年占(としうら)



年占(としうら)は、村落などの集団単位で行なう占いで、その年一年を
占うものである。
年の初めや農作業を始める前に、その年一年の天候や作柄の良し悪しを占い、
生活の方針を定めようとしたことに依る。

その占い方法は実に様々有って、全国各地の由緒有る神社には神事として、
大切に地域に伝承されている。
代表的な占いには、筒粥(つつがゆ)とか、管粥(くだがゆ)とも呼ばれる
粥占(かゆうら)がある。
お粥を炊いて、その中にストロー状の竹や葦(あし)の管を入れる。
時間を置いて、後でその管を割ってみて、その中への米粒の入り具合で占う
というものである。


第14記事1
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。


豆占(まめうら)は節分の時に、豆を一年12ヶ月に見立て、12粒を囲炉裏で
焼いて、その焼け具合で各月の天候を占うもので、一粒一粒を火にくべては、
その焼け具合や煙の上がり方で占う方法もあるようである。
察するに、焼いた豆が白っぽかったら、晴れの日が多いとか、黒っぽかったら、
雨の日が多いなどと判定したのではなかろうか。
この様に、占いは予め「こうなったら、こういうことを意味する」と決めておいて、
その定めた作法に従がって、神意を汲み取り、未来を予知する方法なのである。


第14記事2
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。


綱引きというのもルーツは年占神事である。
半農半漁の村落で「こちらが勝ったら豊作」、「あちらが勝ったら豊漁」など
という、どちらが勝っても良い結果の年占は微笑ましいものである。

相撲が神事であったことはよく知られているが、実は年占神事として、
五穀豊穣を願って行なった力競べで、神様の判定を仰ぐという意味合いの
占いであった。
相撲の取り組みは、四角く土を盛った上の丸い土俵で行なわれる。
土俵の円というのは「天」を意味し、土俵を囲む四角は「地」を意味する。
その上に「人」が立つということで、あの土俵というものは「天人地」の
宇宙を象徴しているという深い意味が込められている。


第14記事3
小田原市のHPより、「小田原梅まつり(流鏑馬)」の写真を拝借。


疾走する馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)も、「的射(まとい)」という
弓矢で的を射る占い方法である。
流鏑馬は元々「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれていたものが変化した言葉
のようである。
神社に依っては「天気占い」と呼び、的に12本の矢を放って、12ヶ月の天候
を占い、その結果を目安として作付けしていたという。

その他、有名なところでは競馬や舟競争などがある。
競技の勝ち負けは神様の意志であるという考え方から、その結果で吉凶や豊作、
凶作を占ったのである。



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占いの歴史夜話⑬…神祇官(じんぎかん)卜部(うらべ)一族

 2016-11-24
占いの歴史夜話⑬ 

…神祇官(じんぎかん)卜部(うらべ)一族



我が国の古代には、どういう職種で朝廷に仕えるかで分類した部民(べみん)という
制度があって、例えば、機織(はたおり)に従事した集団を「服部(はとりべ)」、
宮城の守衛を任務とした武人の集団を「門部(かどべ)」、朝廷の料地を管理した
集団を「刑部(おさかべ)」、馬や犬や鳥の飼育を担当した集団を「飼部(かいべ)」
など、具体的な職掌名が付けられていた。

これらの技術者集団は「品部(しなべ、ともべ)」と言われるが、その職業部を
そのまま姓氏として名乗り、「服部(はっとり)」さん、「門部」さん、「刑部」さん
と、今日までご子孫の苗字として受け継がれている。
また、「飼部」は細かく分かれて、「馬飼部」は「馬飼」さん、「犬飼部」は
「犬飼」さん、「鳥飼部」は「鳥飼」さんという風に古代職業姓が残っている。

「卜部(うらべ)」さん、「占部(うらべ)」さんという苗字がある。
「卜部」も品部の一つで、卜部一族は占いを専業とする技術者集団として、
朝廷に仕えていたという。
カタカナの「ト」の字に似ている「卜(ぼく)」という漢字の元の象形文字は、
古代中国で行なわれていた「亀卜(きぼく)」という占術で占う為に、亀の甲羅を
裏側から焼いて、表面に生じるひび割れの様子を象ったものであるとされている。
別の説では、棒(|)を立てて、どの向きに倒れるか、その倒れた方向(ヽ)に
依って占ったことからの象形ではないかという見解もあるが、象形文字の形象から
して、そうではないように思われる。

鹿などの動物の骨、獣骨を焼いて占う場合は、「骨卜(こつぼく)」と言って、
そのひび割れの形を「占形(うらかた)」、または「卜兆(ぼくちょう)」と呼ぶ。
対馬や壱岐のように、朝鮮半島に近い地域では弥生時代には伝わっていたようで、
日本全国各地の遺跡から骨卜で使われた骨(卜骨と呼ぶ)が発掘されている。


第13記事1
「GATAG」様 フリー画像・写真素材集4.0より拝借。


「卜」の字に「口」の字が付いて、「占」の字に変化したのは、占いの結果である
神の意志を占い師が言葉で解説したことからと考えられている。
7世紀の頃から、朝廷の宮中祭祀や神社の管理は「神祇官(じんぎかん)」という
高級官僚に依って行なわれていたが、卜部一族はその神祇官として、占いに従事
していた祭祀貴族であった。

古文書の記録には、7世紀の頃、古代の地方豪族である国造(くにのみやつこ)の
一族の中で、対馬から10人、壱岐から5人、伊豆から5人、亀卜術に優れた
20人が、神祇官としての「卜部」として、朝廷に登用されていたと書かれている。
亀卜術で、どのようにひび割れしたら、こういうことを意味するなどという判断の
根拠となる理論については勿論のこと、秘伝であった訳である。
対馬、壱岐、伊豆の三ヶ国出身以外の卜部氏は、「太占(フトマニ)」という日本
古来の占術を用いていたという説もあるが、詳しい内容は分かっていない。

「浦部」さん、「浦辺」さん、「卜」さん、「浦」さん、「裏」さんという苗字も
この「卜部」「占部」に由来している。
特に「占部」の読み方は「うらべ」だけではなく、「うべ」「うらなべ」「しべ」
「せんぶ」「せんべ」と多岐に亘って変化しているが、ルーツは一緒と考えられる。
卜部一族のご子孫の多くは神社の神職として、日本神道を守って来られたのである。






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占いの歴史夜話⑫…古代人の占いの概念

 2016-11-24
占いの歴史夜話⑫ 

…古代人の占いの概念



「自分の将来が知りたい」「未来を見通すことが出来たなら…」という願望は、
程度の差こそ有れ、誰しもが胸に抱いている感情ではなかろうか。
古代に生きた我々のご先祖様は、人知の及ばない未来のことを何とか探ろうと
様々な方法を考えては、工夫に努められた。

「占い(ウラナイ)」の「ウラ」は古い言葉で、「眼には見えないもの」「表に
見えないもの」を意味している。
「ウラ」を漢字で書くと「裏」になり、また「心」にも「占」にもなる。
「占い」というものをこのような語源から考えてみると、「表」の世界の物事に
現われる現象や兆候から、神様の「心」を拝察することで、隠されて見えない
「裏」の世界を知るという意味合いがあるのであろう。
そこで知ることが出来た「裏」の世界を「表」の世界の事象と照合させる
「裏合い」(ウラアイ)で、将来の物事の成り行きや吉凶を予知することに、
「占い」という言葉は由来するのではないかと考えられる。


第12記事1
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。


そうであれば、占いとは本来、様々な形態で定められた方法に依って、
将来に何が起こるのか、そして、それは幸せなことなのか、そうではないのか、
望んでいることが叶うのか、叶わないのかなど、人知の及ばない未来のことを
予め知りたいと願い、期待や不安を込めて、真摯に「神意を問う」行為である
と言えるであろう。
そして、古代の人々は占いの結果を、「神の意志の表現」であると素直に捉え、
受け入れたのであろう。

農業や漁業を生業として暮らしていた古代の人々の生活は、現代よりも遥かに、
天候や災害などの自然現象に大きく左右されたことであろう。
冷夏や暖冬などの天候不順、台風や地震などの自然災害の有無がそのまま
農作物の生産量や漁獲量に決定的な影響を及ぼしたことであろう。
古代の人々が、未来の出来事を予測しておきたいと切実に願い、占いに託して、
神意を問うたのは至極、当然なことであったと言える。


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占いの歴史夜話⑪…おみくじのルーツは?

 2016-11-24
占いの歴史夜話⑪ 

…おみくじのルーツは?



神社や寺院に参拝した折り、ちょっとした遊び心で「おみくじ」を引いては、
そのみくじ箋(みくじ紙)に書いてある吉凶判断や和歌、生活全般に亘る運勢
のアドバイスなどに一喜一憂された経験の有る人は多いのではなかろうか。

そもそも、カミの御心、ご神慮を伺う占いの起源は、古代にまで遡り、
古来、政治上の重要事項の決定は、ご神意を仰ぐ「籤引き(くじびき)」に
依って行われたという、「政(まつりごと)」が即ち「祭り事(まつりごと)」で
あった祭政一致の歴史がある。
古代の律令体制下に於いては、神事を司る神祇官(じんぎかん)の中に、
亀卜(きぼく)の専門家集団であった卜部(うらべ)が官職として置かれて
いたように、占いは神事であった。

「おみくじ」に近い形態の占い方法で、最古の記録は「日本書紀」に於ける
「有間皇子の変」の記述であろうと思われる。
「日本書紀」に依れば、斉明天皇4年(658年)11月、斉明天皇と皇太子で
あった中大兄皇子(後の天智天皇)が紀温湯に行き、奈良の都を留守にした際、
有間皇子は蘇我赤兄と挙兵を謀議し、「短籍(ひねりぶみ)」を引いて、謀反の
吉凶を占ったとある。
「短籍」は紙片か、或いは木簡で作った籤(くじ)であったろうと想像される。


第11記事8


現在、「おみくじ」と言えば、仏教寺院よりも神社のイメージで捉えている
人の方が多かろうと思われるが、鎌倉時代初期に始まった、個人の運勢や
吉凶を占う為に行われている現行の「みくじ箋(みくじせん)」の起源は、
仏教サイドにある。

現在のおみくじに繋がる直接の起源は、シナの「天竺霊籤(てんじくれいくじ)」
であるというのが定説である。
その「天竺霊籤」が平安時代中期、日本に伝来し、天台宗中興の祖と呼ばれた
「元三大師(がんざんだいし)」、天台宗座主第18世「慈恵大師(じえだいし)」
良源(912~985)が、観音菩薩に祈念して偈文(げもん)を授かり、人の運勢や
吉凶を表わした100の漢詩(五言絶句)を詠んだという「元三大師百籤
(がんざんだいしひゃっくじ)」或いは「観音籤(かんのんくじ)が起源と
言われる。
良源は「如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)の化身」であると
言われていたことから、「観音籤」と名付けられたとの説もある。
その為に、比叡山横川の元三大師堂は「おみくじ発祥の地」とも言われている。


第11記事9


江戸時代初期、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に
深く関与した天台僧「慈眼大師」天海(1536年?-1643)の夢枕に元三大師が
現われ、「信州戸隠山明神の御宝前に観音百籤がある。これらは人々の困難を
救う為、観音菩薩に祈念して戴いた処方箋とも言うべきであるから、これらを
用いて、衆生を利益せよ」というお告げを戴いたという。
そのお告げ通りに、戸隠山明神に納められていた偈文百枚を「元三大師百籤」
或いは「観音みくじ」と呼び、世に広めたという。

江戸時代初期の頃は、自分でおみくじを引く形態ではなく、僧侶が
「浄聖なる観世音菩薩を念じ、念ぜよ。疑いを生ずることなかれ。
観世音菩薩は苦悩や死や厄災において、頼みとして最高の救世主である」
という内容の観音経(法華経第二十五観世音菩薩普門品)を読誦した後に
引いていたという。

やがて、自分で引く形式に変わって行ったものの、正規の作法としては相当に
面倒な決まり事があったようである。
神社参拝の時のように、手や口を水で清めるのは当然としても、観音経を3遍
読誦し、聖観音菩薩、千手観音菩薩、十一面観音菩薩の真言陀羅尼をそれぞれ
333遍唱え、33回礼拝し、次に「おみくじ願文」を読み、占うことを念じて、
番号の付いた100本のおみくじが入った箱筒を振って、小さな穴から一本だけ
取り出す。
書いてある数字を確認した後に、おみくじを筒に戻し、その筒を両手で持って、
「送奉の文」を読む。
その上で、備え付けられた「みくじ本」という解説書で、引いた数字に相応
する箇所の偈文を読んで判断するという、手の込んだ形式であったようである。


第11記事2
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。





明治維新を経て、新政府が慶応4年(1868年)に発布した太政官布告
「神仏分離令or神仏判然令」の影響で、神社サイドでは「寺のおみくじを
止めて、神社独自のおみくじを使うべきだ」との思潮が生まれ、明治以降には、
神社と寺院では別々のおみくじが使われるようになった。
神社では、現行の和歌系おみくじが主流となり、寺院では従来からの
元三大師御籤が用いられている。


「籤(くじ)」という言葉自体の語源としては、諸説有る。
訴訟など、公に関わる事柄を判断するという「公事」から転化したという説、
「串」という言葉から転化したという説、シナで神事や遊びに使われた円盤状
の「鬮(く)」に「子」か「児」を付けて「くじ」となったという説、
結び目を解く道具「抉り(こじり)」に由来するという説、「寄し」説や
「孔子」説など、様々な説があって、断定は出来兼ねる。


第11記事1
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。


おみくじに書いてある吉凶判断の部分で、読み取りに迷うのは、その吉凶の
順序ではなかろうか。
仏閣の場合は、100本中、大吉16本、吉35本、その他の吉19本、凶30本
という割合が決まっている「元三大師神籤」をベースにしているだけに、
大体、「大吉>吉>半吉>小吉>末吉>末小吉>凶」の順序で統一されている
ようなのであるが、神社は独自のおみくじを作る傾向があるようで、吉凶の
序列自体も神社に依って違い、一概に判断出来ない。

神社本庁の見解としては、
「大吉>【吉】>中吉>小吉>末吉>凶」で、「吉」は「大吉」の次、
「中吉」よりも上位に位置しているのだが、神社に依っては、
「大吉>中吉>小吉>末吉>【吉】>凶」と、「吉」が「末吉」よりも
下位に置かれているところもある。

「中吉」が、「吉」よりも上位なのか、下位なのかで定まっていない上に、
「半吉」が「小吉」よりも上位に置かれているところもあるので、判断に困る。

私の見解としては、「中吉」は「吉」の下、「半吉」は「小吉」の下として、
「大吉>吉>中吉>小吉>半吉>末吉>末小吉>凶>小凶>半凶>
 末凶>大凶」の序列で考えている。

吉凶に関して言えば、易の世界の感覚では「大吉」の卦は歓迎しない。
むしろ、「凶」などの良くない卦が出た方が、これ以上は下がらず、
これからは運気が上がるとポジティブに考える。
要するに、「大吉」が出ても油断せず、「凶」が出ても落胆せず、
何れであっても心の励み、向上の糧とするべき神様の励ましなのである。

馴染みは無いが、実は「平」という卦もあり、神道では平穏無事こそ貴い
ものと考えることから、吉凶を超えた良い暗示と捉えて、歓迎する。
現在、おみくじで「平」の卦があるのは、京都の賀茂神社や石清水八幡宮
だけのようである。


第11記事5
PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。


引いた後のおみくじを、神社境内の木の枝に結ぶ慣わしがあるが、本来は
「凶」が出た場合にのみ、凶運を神社に留め置いて、凶が吉に転じて、
良い運勢が結実するようにと心に念じながら、結び目は魔除けにもなる
という言い伝えもあることから、結んで置いて来るべきものなのである。

おみくじは、吉凶判断を目的とする占いと考えて引くよりも、今後の生活の
指針をアドバイスして頂く、神様の励ましの言葉と捉えて、お守り代わりに
持ち帰り、よく読み返してみると良い。
おみくじに書いてある和歌などは、実に味わい深いものがある。

第11記事3
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。


現在、おみくじを製造する会社は全国で6社あるそうだが、その中でも、
最大手の「女子道社」が日本全国の社寺で授与されるおみくじの約6割の
トップシェアを誇っているという。
山口県周南市に在る二所山田神社(にしょやまだじんじゃ)の21代目宮司、
宮本重胤氏が女性解放運動を推進する為の全国組織「敬神婦人会」を設立し、
明治39年(1906年)に、月刊新聞社「女子道社」を設立し、機関誌「女子道」
を発刊、その費用捻出の為、おみくじ作りを創業したのが始まりだという。
また、同年におみくじの自動頒布機を実用化させたのも同社であるとのこと。
現在でも、作業は全て手作業で行われ、紙折り機なども一切使わず、近隣農家
の主婦達の手で一枚一枚、丁寧に心を込めて仕上げられているという。


第11記事10
山口県周南市のHPより、女子道社の写真を拝借。

第11記事11



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