神々に捧げる言葉①…天津祝詞(あまつのりと)

 2018-04-28
神々に捧げる言葉①…天津祝詞(あまつのりと)

…禊祓詞(みそぎはらえのことば)



祝詞は、「宣り言(のりごと)」「宣り聞かせる言葉」を語源とするようで、
古くは神職がご祭神に対し、その霊力を讃え、祈願するところの成就を願う
言葉を申し上げる「奏上体」の祝詞と、祭祀の場に参集した人々に対して、
神に奏上するその祭祀の意義や目的を宣り聞かせる「宣命体」の祝詞に大別
されたようである。

奈良時代、律令体制が整備された段階で、神々に向かって捧げられる言葉は
中国の「祝文」に倣い、総べて「祝詞」と包括されたということであるが、
そもそも、神々の霊力を讃える「タタエゴト」(讃えごと)
願い事の成就を祈る「イハヒゴト」(祝ひごと)
祭儀の前に祓い清める為の「ハラヘコトバ」(祓え言葉)
卜占の結果を文字に表わした「ノリト」(祝詞)
天皇の長寿を讃える「ヨゴト」(寿詞)
葬儀で死者を弔う「シノビゴト」(誄《しのびごと》)と
用途別に呼び名が細分化されていたとのことである。

古代の日本人は自らの発する言葉に神霊を感じ、言葉に宿る神秘的な霊力を
言霊(ことだま)として、言語に対する畏怖の念を抱いていたと推察される。
「言霊は、いふ言(こと)に即ち神の霊まして、助くるよし也」(賀茂真淵)で、
「言(こと)」が、そのまま「事(こと)」であり、「言語の妙用」で、言霊が
「事」の実現を支配すると信じられていたのであろう。
現代に生きる私も、この言霊信仰を前提として、神々との交感を願い、誠の心
を込めて、祝詞を唱えつつ、神々に祈りを捧げている。


神宮450


神道に於いて際立つのは罪や穢れ(けがれ)を清める「禊祓え(みそぎはらえ)」
の思想である。
日々の祈りの中でも、「祈願を目的としてご神前に奏上する祝詞」と祓い清めて
頂く為に唱える「祓詞」(はらえことば)とは一線を画するものである。

「天津祝詞(あまつのりと)」は、復古神道(古道)の大成者である平田篤胤が、
神祇伯(律令制の神祇官の長官)白川家や伊勢神宮、その他の神社や諸神道に
伝えられる祝詞を再編し、文化12年(1815年)、その著書「大祓太詔刀考」に
発表された祓詞(はらへのことば)である。
中世以来の「美曾岐祓(みそぎはらえ)」四篇を編修し、一篇に纏めたという説もある。
神社本庁では「天津祝詞」を正式採用してはいないが、「天津祝詞」を簡略化
した「祓詞(はらえのことば)」「略拝詞(りゃくはいし)」を制定している。
「天津祝詞」を奉唱するのは神道系新宗教の教団に多く、その神社や流派に
依って、「高天原」を「たかまがはら」と訓むか、「たかあまはら」と訓むかや、
「阿波岐原」を「あわぎがはら」と訓むか、「あはぎはら」と訓むか、
「生坐る」を「あれませる」と訓むか、「なりませる」と訓むか、
「禊祓へ給へし時に」か、「禊祓ひ給ふ時に」か、
「祓ひ給へ清め給へと」か、「祓へ給ひ清め給ふと」か、
「天の斑駒の耳振立て」の部分を読むか、読まぬかなど、
文言や漢字の訓みに若干の違いはあるものの、本質的な相違は無い。


古社450


天津祝詞(あまつのりと)…禊祓詞(みそぎはらへのことば)


高天原に神留坐す。
たかあまはらに かむづまります。

神魯岐神魯美の詔以ちて
かむろぎ かむろみの みこともちて。

皇御祖神伊邪那岐大神。
すめみおやかむ いざなぎのおおかみ。

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしの ひむかの たちばなの おどの あわぎがはらに

御禊祓へ給へし時に 生坐せる祓戸の大神等。
みそぎはらエたまエしときに あれませる はらえどのおおかみたち。

諸々の枉事罪穢を祓ひ賜へ 清め賜へと
もろもろのまがごと つみけがれを はらイたまエ きよめたまエと

申す事の由を 天津神国津神
まをすことのよしを あまつかみくにつかみ

八百万の神等共に聞食せと 
やおよろづのかみたちともに きこしめせと

(天の斑駒の耳振立て)
(あめのふちこまの みみふりたてて)

恐み恐みも白す。
かしこみ かしこみもまをす。
(文責在詠山史純)

諏訪大社450


(現代語訳)
高天原にいらっしゃる男神様カムロギノミコトと女神様カムロミノミコトの
ご教示に依って、天皇陛下の祖神であらせられるイザナギの大神が筑紫の
日向の橘の小戸の阿波岐原で、黄泉の国での穢れを禊ぎ祓えされた時に
現われ為さった祓戸の大神たちよ。
色々な悪いことや、罪、穢れなどがありましたら、どうぞお祓い下さい、
お清め下さいとお願い申し上げることを、天の神様、地の神様、全ての神様も
ご一緒に(斑模様のある天馬が、耳を振り立てるようにして)、どうかお聞き
届け下さいと恐れながら、お願い申し上げます。
(文責在詠山史純)




タグ :

明治新政府の神道政策②…神道の一神教化志向

 2018-04-20
明治新政府の神道政策②

…神道の一神教化志向



我々の祖先は太古の昔、自然界の山や川、空、海、森、動物など、物皆全てに
霊性を認め、畏敬と感謝の念を抱きつつ、接したことであろうと想像される。
神道はこのような、我々の祖先の自然観や人間観、神祇観などに基づき、
生活文化の中から自然成立し、変遷して来た信仰であり、八百万(やおよろず)
と言われるほどに、多くの神々を信仰の対象としている多神教的な宗教である。

明治新政府は我が国を近代国家、国民国家にする為に、西欧の精神原理である
キリスト教に対応する精神的な機軸として、万世一系の天皇の神聖性と権威を対置し、
維新政府樹立直後には、神道を国家統合の精神とすることを目論むも、
やがて、「神道は宗教ではなく、治教である」「神社神道は宗教ではなく、
国家祭祀である」として、神道から祭祀のみを分離し、神社信仰という宗教性
を神社神道から完全に切り離した。
神社神道は宗教的に形骸化され、「非宗教の神社神道」=「天皇を中心とした、
記紀神話を基にする制度的な体系」=「いわゆる国家神道という祭祀体系」が
人為的に創作された。
こうして、伝統的な神道とは全く別物で、特異な観念体系、祭祀体系が構築
されたのである。


明治大帝 東京行幸A
明治天皇の東京行幸(中央の鳳輦内に明治天皇)
聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」(小堀鞆音画)
明治元年10月13日(1868年11月26日)皇居二重橋


天皇と神道との関係が論理的に再構築され、「神道の一神教化」が志向された。
記紀神話で天皇の祖神とされる、天照大御神を祀る伊勢神宮が最高位に就けられ、
神宮の祭祀を国家祭祀として、重要視することになった。
そして、伊勢神宮を頂点とする、全国の神社の体系化が行なわれた。
明治政府は、「延喜式内社」などの記録にある神社の国家管理体制を参考に、
全ての神社の社格(神社の位階)を制定し、官社としては官幣社と国幣社
(それぞれを更に大社、中社、小社に分類)、諸社としては府社、県社、郷社、
村社、無格社とランクを定めた。


タグ :

明治新政府の神道政策①…国家神道なるものの成立の経緯

 2018-04-20
明治新政府の神道政策①

…国家神道なるものの成立の経緯



明治維新の王政復古は、水戸学、国学に基づく天皇崇拝の尊王思想や復古神道
の神国思想を中核的なイデオロギーに据えて、断行されたクーデターであったと言える。
ごく少数で政権奪取に成功し、その成立基盤の惰弱な新政府の指導者たちには、
自分たちの立場の正当性の根拠として、万世一系の天皇の神聖性と国体の権威
を強調することが必要であった。

慶応4年(1868年)、新政府は先ず、古代の律令体制下で、朝廷の祭祀を司り、
太政官と並ぶ中央最高官庁であった、神祇官を約1000年振りに復活させた。
明治3年(1870年)には、復古神道を奉じる平田派国学者に依る祭政一致論に
基づく、「大教宣布の詔」が発布され、天皇を神格とし、神道を国教として、
祭政一致の国家建設の方針が示された。


明治天皇 東京行幸
明治天皇の東京行幸


明治4年(1871年)、官職のトップである神祇官が廃止され、神祇省と改称の上、
太政官所管に格下げされた。
同年、「神社ノ儀ハ、国家ノ宗祀ニテ、一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ
勿論ノ事ニ候処…」との太政官布告(第234号)で、神社を「国家の宗祀」と
位置付け、神社の神職の世襲制度が廃止された。
明治政府は、「神道は宗教ではなく、治教である」「神社神道は宗教ではなく、
国家祭祀である」として、神道から祭祀のみを分離し、神社信仰という宗教性
を神社神道から完全に切り離したのである。
明治政府に依って創作された、この「非宗教の神社神道」が後に「国家神道」
と呼ばれることになる。

明治5年(1872年)、神祇省を改組し、民部省社寺掛を併合の上、新たに
教部省が設置され、神祇行政が移管された。
同年、尊皇愛国思想の教化運動(大教宣布)を展開する為の機関である大教院
が設置され、「三条の教憲」が制定された。

「三条の教憲」
①敬神愛国の旨を体すべき事。
②天理人道を明らかにすべき事。
③皇上を奉戴し、朝旨を遵守せしむべき事。(文責在詠山史純)

「神を敬い、国を愛し、天理人道を明らかにし、天皇を謹んで戴き奉り、
天皇のご意向を遵守すること(文責在詠山史純)」と国民は教導された。

神道政策に於ける朝令暮改の経緯からして、新政府は明治初年の段階で、
ロシア帝国に於ける皇帝がそうであったように、天皇を宗教的最高権威とする
祭政一致の神政国家体制を志向していたと思われるが、神道から祭祀のみを
分離し、神社信仰という宗教性を神社神道から完全に切り離すことで、
非宗教の祭政一致で、政教分離を実現する方向へと大転換したと推察される。



タグ :

日本語史上、最大級の誤訳「神」③…国会に於ける「神の概念」論議 

 2018-04-20
日本語史上、最大級の誤訳「神」③ 

…国会に於ける「神の概念」論議



昭和20年(1945年)8月15日の敗戦から4ヶ月後の12月10日、
帝国憲法下の第89回帝国議会衆議院予算委員会に於いて、
「天皇は神であるか?人であるか?」の質問、答弁が行なわれた。

質問者は浜地文平衆議院議員(本来は、旧字体で「濱地」)
明治26年(1893年)-昭和61年(1986年)三重県の伊勢出身
昭和20年12月当時の所属会派は日本進歩党。
後に、第3代皇学館大学理事長を務めた。
皇学館大学は伊勢神宮の教導職養成機関、神道研究機関であった神宮教院に
起源を持ち、文学部で神社本庁の神職資格を取得出来るのは、皇学館大学と
国学院大学のみであるという、神道系学校の雄である。


一方、答弁に当たったのは、前田多門文部大臣
明治17年(1884年)-昭和37年(1962年) 大阪府出身
学生時代はキリスト教クエーカー派の新渡戸稲造に師事し、内村鑑三の
聖書研究会にも入門。
後藤新平の引立てを受けたエリート官僚出身で、昭和3年(1928年)から
10年間は「朝日新聞」論説委員、昭和18年(1943年)には新潟県知事など
を歴任、敗戦の年の昭和20年(1945年)貴族院議員となり、東久邇内閣、
幣原内閣の文部大臣を務めたが、GHQの指令で公職追放された。
昭和21年(1946年)、東京通信工業(後のソニー)の初代社長に就任。
長男はフランス文学者の前田陽一、長女は精神科医の神谷美恵子、次女は、
ソニー第2代社長井深大と結婚。
「銭形平次捕物帳」の作者で、キリスト教徒であった野村胡堂とは家族ぐるみ
の親交と、眩いばかりに煌びやかな人脈に彩られていた人物である。

また、前田多門文部大臣は昭和21年(1946年)1月1日、官報に依って
発布された昭和天皇の詔勅、所謂「人間宣言」の案文を幣原喜重郎総理大臣、
山梨勝之進学習院院長と共にチェックしたとされている。
明治時代以降、キリスト教徒の皇族へ与えた影響は異様なほどに多大なものが
あるが、それはこの稿の主題ではない。


国会議事堂 1930年代


さて、この帝国議会衆議院予算委員会に於ける質疑応答であるが、キリスト教
クエーカー派(プロテスタント フレンド派とするべきか?)の信徒であった
前田多門文部大臣が「天皇は神である」と答弁したことがクローズアップされ、
取り上げられる傾向にあるようであるが、前田大臣は「日本の神の概念と
西洋のGodの概念とは違う」とごく当たり前のことを述べただけのことである。

質疑応答と言うよりも、むしろ浜地文平代議士の独壇場の様相を呈している。
後に皇学館大学理事長に就いたほどの人物にして、日本の神の概念理解は
これほどまでに稚拙であったのかと、溜め息を吐く思いである。
浜地文平代議士の発言の中に、「絶対」だの、「真理」だのという言葉が出て
来るが、神霊世界を無理矢理、科学的用語で記述して、自分の理性的判断に
沿わせようとするかのような、理論的悪戦苦闘の跡が窺える。
私の印象として、浜地代議士の発言内容からして、少なくともこの段階に
於いては、氏は神霊世界を直感した境地、神秘体験を味わった境地にはない。
まるで、前田多門文部大臣が日本神徒で、浜地文平代議士がキリスト教徒で
あるかのような錯覚を覚えるほどに、信仰の立ち位置が逆転したような
質疑応答の内容である。


昭和天皇376


昭和20年12月10日 第89回帝国議会 衆議院予算委員会(帝国議会会議録より)
※筆者が現代仮名遣いに変換(文責在詠山史純)


●浜地文平委員
私は日本肇国(ちょうこく=建国)の精神に付きまして、更に聞く必要を
感ずるのでありますが、是は文部大臣に承ります。率直に申します。 
天皇陛下は神であるか、人であるか、神格であるか、人格であるか承りたい。


●前田多門文部大臣
日本の神という言葉は、西洋あたりで申して居りますような神とは余程
観念が違うようであります。
でございますから、観念次第に依りまして、神でもあらせられ、人でもあらせ
られる、こういう風に申せるであろうと思います。


●浜地文平委員
そういう答弁を聞こうと思って、質問をしたのではありません。
私は更に一歩を進めて、私の意見を申上げたい。是は大事なことです。
天子様は神であるか、人であるかということを断定することは、一番大事
なんです。
私は非常な勇気を以て申上げます。天子様は人であります。
今までは、私は天子様は神様であると思って居りましたが、今日の現実の下に
於きましては、私は天子様は人であると断定せざるを得ないのであります。
しかし、かくの如く申したからと言って、我々は 陛下に対し奉り、尊敬の念、
また御親しみを持つ念は、寸毫も稀薄になって居ないということを間違いなく
汲み取って頂いて、私の話を聞いて頂きたいのであります。

大体、日本の国の神というものは、我々は小学校時代や戦争前に教へられて
居ったように、そんな目に見えない、森のしじまの奧に微かに隠れてござる
全智全能の絶対的宇宙神のような、そういう意味でなかったのではなかろうか
と思います。
人格を具へ持って居る神に対しましては、そういう意味でなかったのでは
なかろうかと思います。
ですから、絶対的でない其の証拠に、日本には幾らでも神様があります。
八百万の神様、総て皆神様なんであります。
何々の尊(みこと)何々の命(みこと)、是は今で言うと何々君、何々様という
ことであります。
古事記時代の沢山の神様は、今で言えば、何々様、何々君と言うことで、
あの当時に於いては人を尊崇して何々の尊と言った、それが八百万の神である。

天安河原(注1)に会議を開いた時に、八百万の神が集まったというのは、
あの当時の国会、安河原へ何々君が上京して来て、議会を開いたのであります。
日本で我々が言う、各方面に祀られて居る多くの神様は、そう森厳な絶対的な
宇宙神ではないのであります。
真理を体得し、仁義を行なったところの人に対して、特に尊敬して神に祀って
居ったのが、日本の神様である、天照大御神、天之御中主神という、是は神で
あらせられて、人格を具へて居ない。
まことに畏れ多いことでありますが、是は真理である。
天之御中主という真理、天照すという真理を表象したる神様であると私は思う。

つまり、我々の御先祖の中にそういう真理を体得し、そういう神技の行わせ
られる立派な御方が出来たから、其の人に向って真理そのままの名を付けて、
天照大御神と仰ったのでなかろうかと思うのであります。
伊勢の大神宮さんに参りますと、私共の拝む神様は、天照大御神という真理に
向かって、我々は拝んで居る。
そこには、明智を代表したるところの鏡(注2)を祀ってある。


(注1)天安河原とは、記紀神話に於いて、天照大御神が宮崎県の高千穂町にある天岩戸に
隠れてしまわれたことから、天照大御神を岩戸から出す計画を立てるため神々が集まった
場所のこと。


(注2)鏡とは、記紀神話に於いて、天孫降臨の時、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が
天照大御神から授かった三種の神器の内の八咫鏡(やたのかがみ)のこと。

伊勢神宮 空撮


●浜地文平委員
少し余裕を戴きます。
我々は神様、真理に御参りを致しまして、帰り道に注連(しめ)の張ってある
所に向って、荒魂神社に御参りする。
是は天照大御神という真理と、別に荒魂神社、つまり人の荒魂に御参りする
のであって、余りに畏れ多い話でありますけれども、浜地文平という人の墓と、
何々院、何々居士という別名と、二つあるようなものであります。
此の神と人とをごっちゃにしてしまった所に、日本哲学の行き詰まりがあると
私は思う。

人は人であり、絶対神は絶対神であります。
天皇も立派に天安河原に於いて、民衆と共に議論を遊ばされる民主的民本主義
の日本は人格を持った神様であり、天子様であった筈である。
奈良朝時代に於いて、万葉歌人などが「大君は神にしませば天雲のいかづちの上に
いほりせるかも」と言って、雲の上に上げてしまった。
日本に於きましても、此の人格を持たれる天子様を、全くの神様の如く、
雲の上に御上げしてしまって、「天皇は神聖にして侵すへからす」と憲法第三条
の下に、全く民衆と懸け離れた所の絶対神の如き神様に押し込めてしまった
のであります。
時の重臣は丁度、禰宜(ねぎ=神主)さんのようなものである。
神も禰宜からと、つまり重臣が禰宜さんの積りで色々の計らいをした結果、
聖名を覆い奉って、日本の今日の事態を惹起した。
そこにもしも、天子様は立派な御人格を具えられたるところの人という立場に
於きまして、日本が天子様と民衆とを直結せしめて居ったならば、決してこう
いうような結果には陥らなかったと思うのであります。

此の際、政府は天子様は神格なりや、人格なりやに対して、はっきりとした
ことを闡明(せんめい=明らかにすること)をして置きませんと、日本哲學と
いうものは、日本の肇国精神というものを世界に向って説明しようと思っても、
説明せられませんよ。
天子様を明人神であり、絶対神であるというような心持ちを以って民衆を
リードして来た我が国も、是ならば世界を制覇出来ます。
絶対神であり、宇宙の神であったならば――天之御中主神であり、天照大御神で
あるという、象徴せられたる真理であり、象徴せられたるところの神その儘で
あるとしたならば、是は世界をリードすることが出来ますけれども、是は人で
ある、それを目的とした、つまり真理を目的としたところの立派な人であって、
その方が幸いに日本に御座って、その方が真理を探究し、真理に努力し、
そうして世界に向って、此の絶対の真理を弘めようとしなさるものであった
ならば、これに国境を阻むものはありません。
キリストでも釈迦でも、思想に於いて、宗教に於いて、今世界を制覇しつつ
あるではありませんか。
これを悪いと言って、抑える人はありません。国境がありません。
日本も本当の真理、本当の哲学を以って、世界に向かうのであったならば、
今後は意気揚々として、大空に高唱するところの途が開ける。
武力は今日抑えられた、抑えられたのではありません。
もう武力は今日の思想から言っても容れられません。
我々も戦争には懲り懲りしました。勝つという見込みが仮にあっても、
もう子孫に戦争はさせたくありません。
人類に戦争を避けることは出来ないかも分りませんけれども、如何なる場合と
雖も、戦争だけは絶対的に避けるべく努力するのが、即ち立派な民族精神で
あると思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●浜地文平委員
とにかく、此の問題を解決しない限りに於きましては、日本精神というものは、
世界に発表し、世界に理解して貰ふということは、私は出来ないと思う。
文相の御所見を御伺いしたいと存じます


●前田多門文部大臣
御説は十分傾聴致します。
先刻申上げました通り、日本で申します「神」の観念というものは所謂
(いわゆる)「ゴッド」の観念とは違ふという所から来て居るものと思います。


●浜地文平委員
此の程度で打ち切ります


タグ :

日本語史上、最大級の誤訳「神」②…日本の「カミ」の概念 

 2018-04-20
日本語史上、最大級の誤訳「神」② 

…日本の「カミ」の概念



江戸時代中期の国学者、本居宣長は著書「古事記伝三」の中で、神の定義を
「尋常ではない、霊威を発するもの」と述べている。

「さて凡(すべ)て迦微(カミ)とは、古(いにしえ)の御典等(みふみども)
に見えたる天地(あめつち)の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を
祀れる社に巫(い)ます御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云わず、
鳥獣本草のたぐひ、海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)
ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云(いう)なり」

日本人は古代から、直感的に畏怖を覚えるような不思議な力を発する対象全て
を「カミ」として捉え、素朴に崇拝して来たのである。
そして、そのカミという観念は、聖なるものであるとか、善なるものである
とかの、正邪、善悪の範疇を超えたものであった。
本居宣長は、「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなど
の、優れたるのみを云に非(あら)ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、
よにすぐれて可畏きをば、神と云なり」とも述べている。


古事記伝A


日本神道(古道 こどう)は、素朴な自然崇拝、精霊崇拝から始まったと
考えられる日本固有の民族宗教である。
古代の日本人は、降り注ぐ太陽の光や闇夜の月明かり、川や湖の清水の恵み、
生き物を育む大地や海原に感謝の念を抱くと共に、雷や嵐、豪雨や吹雪、地震
や火山の噴火、津波の襲来などに恐れ慄き、人知では計り知れない自然現象の
圧倒的な猛威に平伏す思いであったろう。
それら多種多様な「モノ」「コト」に、畏れ多い霊威を感じ取ったのである。
日本神道の神々を「八百万(やおよろず)の神々」と称する所以はそこにあり、
神前で唱える祝詞(のりと)には、「掛けまくも畏き(かしこき)」という、
「心に思うのも恐れ多い」という意味の一節があるが、これは古来、日本人が
畏怖心を胸に抱きつつ、カミに接して来たことを意味する。


500成層圏からの日本列島


日本のカミは降臨しては霊威のみを人々に感じさせる存在であり、特定の姿を
顕わさないものである。
古代の日本人は、カミは山や岩、樹木や滝などの自然物を「依代(よりしろ)」
として、降臨され、宿られると捉えていたようである。
「依代」というのは、カミが顕現される際の媒体、寄り憑く有体物という意味で、
カミを招き、迎える立場からは、「招代(おぎしろ)」とも言う。
日本のカミは具体的な「モノ(事物、場所)」「コト(現象)」または「ヒト(人)」
などに於いて捉えられるものであって、一神教で言うところの唯一絶対神の
ように、抽象的、理念的、観念的な存在ではないのである。

カミの降臨は「モノ」や「コト」、または「ヒト」に寄り憑いて宿られ、鎮まる
形態を取り、その「モノ」や「コト」、または「ヒト」が「御神体(ごしんたい)」
ということになる。
従がって、依代としての「モノ」や「コト」、または「ヒト」である「御神体」
は、当然のことながら、カミそのものという訳ではない。
但し、崇敬する立場からの感覚としては、カミが宿られていると捉える限りに
於いて、「御神体」は、カミと不可分の畏怖すべき存在として、カミそのもので
あるかのように神聖視し、敬虔に拝することになる。

唯一絶対神(God)と人間は創造者と被創造者として、その間には絶対に超える
ことの出来ない断絶のある、隔絶された関係性にあるが、古来日本人は絶対的
な超越者としてのカミという概念を持ったことがない。
カミの「創造」という概念も無い。そもそも、カミであれ、国であれ、「成る」
のであり、「生まれる」のである。
氏神(うじがみ)信仰、敬神崇祖の信仰に象徴的な、親の親の親…とご先祖の
根源を辿れば、カミに辿り着くという連続性を持つのである。
天皇にしても、天津神の子孫として、皇祖皇宗の神霊が降臨される依代であり、
それ故に、御神体としての現御神(あまつみかみ)なのである。


出雲大社B


「カミ」の語源研究では、アイヌ語で高級な神格的存在としての神霊を意味する
「カムイ」と共通の起源を持つとの説がある。
また、「カミ」は古地名である神代(クマシロ)、神稲(クマシネ)、熊野(クマノ)
「クマ(神・熊・隅)」「クム(隠れる)」の転訛で、水源である山谷に隠れた
霊性を指したという説もある。
(「神道を知る本―鎮守の森の神々への信仰の書―」より)

古代の日本人は、この「カミ」に「神」の漢字を当てたが、実はこれも誤訳に近い。
「神」の文字は、神を祀る祭壇の象形「示」+稲光の象形「申」で、「天の神」
「宇宙万物の主宰者」を意味する。
「神」は稲妻のように恐ろしい存在であると共に、稲妻に依って、稲が実を
結ぶと信じられていたという。
「霊妙で理性では計り知れない不可思議な働き」という意味合いに相違は無いが、
日本の「カミ」は、その霊威を顕現する具体的な「モノ」「コト」「ヒト」を
指すのであって、支那の「神」のように「理(ことわり)」や「性質」などの
抽象性は無いのである。

そもそも古来、日本人は宇宙万物の創造者、主宰者という概念を持ち合わせて
おらず、支那の「神」では日本の「カミ」の広範な意味合いを限定してしまい、
不調和であることは免れない。
日本のカミへの信仰は本来、「古道(こどう)」というべきであるが、奈良時代
に伝来した仏教への対抗上、「易経」にある「霊妙不可思議な自然の法則」を
意味する「神道」という言葉を援用し、「日本書紀」で初めて用いられた。
支那の「神(シン)」と日本の「神(カミ)」との間にさえ本質的な乖離がある。
支那でGodを「神(シン)」と誤訳しようが、しまいが異存は無いが、それを
そのまま援用し、日本の「神(カミ)」をGodと誤訳したのと、支那語の「神」を
Godと誤訳したのとでは、その誤訳の度合いが遥かに違うのである。


神 ヘボンの辞書

本邦初の聖書辞典 明治25年(1892年)出版「聖書辞典」P152「神」の項
ジェームス・カーティス・ヘボン&山本秀煌に依る編纂


支那で、Godを「神(シン)」と訳したのは、プロテスタントの宣教師たち、
アメリカ人のW.J.ブーンやW.M.ローリーなどの聖書協会であったという。
さすがにローマカトリック教会では、「神」ではなく、「天主」と訳した。

それでは、日本の「神(カミ)」をGodの訳語に当てた最初の馬鹿は誰なので
あろうか?
どうせ、聖書の日本語訳に携わった連中が安直に、支那語訳の聖書をベースに
翻訳した結果ということなのであろう。
どうやら、ヘボン式ローマ字の創始者で、明治学院の創設者であったアメリカ
長老派教会の医療伝道宣教師であったジェームス・カーティス・ヘボン辺りが
怪しいのではないかという説がある。
安政6年(1859年)に来日し、横浜で医療活動を開始しているが、慶応3年
(1867年)に日本最初の和英辞典「和英語林集成」を編纂、明治5年(1872年)には
在日宣教師仲間と福音書の和訳を開始、明治20年(1887年)には、旧約聖書を
含めた聖書全体の翻訳を完了させたという。
アメ公というものは日本にとって、何時の時代にも碌な事はしないものである。
それにしても情けないのは、聖書の翻訳に協力したであろう日本人たちである。
Godと日本の「神(カミ)」の相違さえ指摘しなかったほど、自国の文化も
碌に理解していない輩が、外来宗教を日本人に紹介しようなどと大それたこと
をするものではない。



タグ :
≪ 前ページへ ≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫ 次ページへ ≫