遥かなる宮澤賢治先生…慕い続けた教え子達

 2018-04-14
遥かなる宮澤賢治先生 

…慕い続けた教え子達


宮澤賢治は大正4年(1915年)、官立では日本最初の高等農林学校、
盛岡高等農林学校農学科(現 岩手大学農学部)に主席で入学し、
大正7年(1918年)3月に卒業、同年4月、地質学研究科入学、
大正9年(1920年)研究生を卒業している。
大正10年(1921年)11月、稗貫(ひえぬき)郡立稗貫農学校
(大正12年4月1日、郡制廃止に伴い、岩手県立花巻農学校となる。
 現 岩手県立花巻農業高等学校 )の教師となる。
賢治が花巻農学校で教鞭を執ったのは、大正10年12月から大正15年
3月末までの4年数ヶ月で、25歳から30歳の時代であり、教諭をしながら、
詩や童話を書いた。


大正時代の教育制度であるが、4年制の尋常小学校を卒業すると2年制或いは
4年制の高等小学校へ進学する。更に、旧制中学か師範学校へと続いていた。
花巻農学校は、乙種と呼ばれる2年間の教育期間で、2年制の高等小学校を
終えた者に入学資格があったことから、賢治の教え子は年齢にして13~14歳位
であったことになる。
当時の花巻農学校の生徒数は一学年40~50名程度で1~2年生合わせても
80~100名程度、教師は校長を含めて5名と小さな学校であった。
賢治は英語、代数、化学、気象、作物、土壌、肥料、実習などを教えたという。
賢治の教え子は、157名に上る。


教壇に立つ宮澤賢治大正14年
教壇に立つ宮澤賢治先生 大正14年(1925年)


花巻農学校
岩手県立花巻農学校(旧稗貫郡立稗貫農学校)


「先生はほほーっと宙に舞った」というタイトルの宮沢賢治の教え子
インタビュー映画(1991年作品)がある。
花巻農学校の教え子達が、幼き頃の賢治との触れ合いから70年を経て、
80歳を過ぎても尚、心の中に生き続ける宮澤賢治先生を慕わしげに、活き活きと
回想して居らっしゃる。
現在もご健在であれば、皆さん100歳を超えて居らっしゃることになる訳であるが、
最早、賢治の教え子でご存命の方は居らっしゃらないということである。


教え子のお一人に、長坂俊雄氏が居らっしゃった。
長坂氏のお家は田畑を持たず、細々と雑貨屋さんを営んでいたそうで、
高等小学校卒業後は盛岡の理髪店で丁稚奉公をする予定であったという。
村長さんの息子さんであった友人から、花巻農学校を受験するのだが、
一人で行くのは心細いので一緒に行ってくれと頼まれ、自分は受験する
訳ではないので、試験会場に入らず、テニスコートで過ごしていたら、
試験監督の賢治先生が声を掛けてくれ、付き添いで来たという事情を話すと、
「それでは退屈だろうから、君も試験を受けちゃいなさい」と仰る。
長坂さんが願書も出していないと言うと、「そんなもん、要らん、要らん」
と賢治先生。
二週間後、長坂氏に合格通知と入学手続きの書類が届いたが、入学する積りは
無かったところ、息子さんから事情を聞いた村長さんがお家に来られて、
親御さんを説得してくれ、賢治先生も進学を許してくれる様、お家を訪れて、
お話してくれたことで、時期は暫く遅れたものの、晴れて花巻農学校に入学
出来たという。


長坂氏は賢治先生から、自分は急いで原稿を書くので、後から読み直すと
とても分かり難いので、1枚毎に手間賃を出すから、時間のある時に原稿の
清書をしてくれないかと頼まれたという。
そうして渡された原稿であっても、書かれていた文字は綺麗で、写し易く、
毎回数十枚の原稿を写すと、学校の月謝が払えるほどの金額になったという。
長坂さんが、そうした宮澤先生の恩情に気付いたのはずっと後のことであった
そうである。
賢治先生は時々、その原稿を長坂氏に読んでくれ、その影響で文学の世界に
親しむ様になったという。

長坂氏は、賢治先生の指導した演劇「植物医師」で主役を演じ、本番では
用意された懐中時計の代わりに、大きな目覚まし時計を懐に忍ばせては
面白さを強調したりと、思い掛けない適性を見せ、喜んだ賢治先生は彼を
「喜劇の天才」と褒め上げてくれたという。


この長坂俊雄氏は、賢治の詩の中に「俊夫」として登場している。
岩手山登山で、生徒を引率している賢治が休憩中に、亡くなった妹とし子さん
のことを想い、詠んだ詩「風林」

「………………… 
 …………………
 …………………       
《手凍えだ》                   
《手凍えだ?                   
 俊夫ゆぐ凍えるば                
 こないだもボタンおれさ掛げらせだぢやい》    
俊夫というのはどつちだらう 川村だらうか      
あの青ざめた喜劇の天才[植物医師]の一役者     
わたくしははね起きなければならない         
《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》           
《川村》                     
やつぱりさうだ                  
…………………」

※(詩の中の「川村」は長坂俊雄氏の旧姓)
※《 》は生徒達の会話


稗貫農学校の碑 400
稗貫郡立稗貫農学校の碑


長坂氏は卒業後、当時、日本統治下にあった台湾で警察官となり、農業指導の
出来る一風変わったお巡りさんとして、活躍されたという。
大東亜戦争を南方戦線で戦われ、敗戦で英軍の捕虜となった。
捕虜として、重労働を課せられていた長坂氏が或る時、花巻農学校で賢治先生から
習った歌を歌っていたところ、それを聴き付けた英軍将校が喜び、どうして
英国の曲を知っているのかと聞いては、コーヒーをご馳走してくれ、それからは、
楽な室内作業に配置転換させてくれたという。
復員後、地元で検察庁に勤めた長坂氏が、不法なビラ撒きの罪状で収監され、
ハンガーストライキで抵抗、敵愾心剥き出しの学生達の事情聴取に赴いた際の出来事。
長坂氏が花巻出身と知った学生の一人から「じゃあ、宮澤賢治を見たことが
あるか?」と問われ、見たことがあるどころか、宮澤賢治先生の教え子だと言うと、
それまでの学生達の頑なな態度が一変して、打ち解けた態度に成り、素直に胸襟を
開いてくれたということがあったという。

長坂氏は、1992年4月放送のNHKドラマ「バルコクバララゲ~教師宮澤賢治
の授業」に、「なかだ老人」として登場為された。
長坂氏は短歌を詠み、「花巻のむかしばなし」を収集し、亡くなられる迄、地元の
語り部としての活動を続けられ、昔話の録音もリリースされて居らっしゃる。



長坂俊雄氏


13歳、14歳の少年時代、僅か2年間の師弟関係であったにも拘わらず、生涯に亘り、
時空を超えて、麗しき魂の交流を持ち続けた教師と教え子達とは、何と微笑ましき、
美しき、稀有なる縁であったのであろうか。
長坂氏の「宮澤賢治先生」の他にも、156人もの「宮澤賢治先生」の御姿が
70年、80年、脈々と生き続けていたに違いない。








因みに、昭和23年(1948年)、「盛岡のソウルフード」として名高い、秘伝の
コッペパン「福田パン」を創業された福田留吉氏(旧姓及川氏)も、花巻農学校
(旧稗貫農学校)を大正12年(1923年)3月に卒業された、賢治の教え子で
居らっしゃった。

福田氏は、「盛岡高等農林学校の助手になって、もっと勉強する気はないか」との
賢治の推薦で卒業後、我が国で最初の官立高等農林学校であり、賢治の母校である、
「盛岡高等農林学校」(岩手大学農学部の前身)の農芸化学部実験助手として
就職され、化学分析技術や農芸化学、納豆菌等の研鑽に励まれたとのこと。
昭和3年(1928年)春には、盛岡高等農林学校を退職され、大阪市立衛生研究所、
我が国で最初にイースト菌の科学的培養を成功させた「マルキ号パン株式会社」の
京都宇治に在った「マルキイースト工場(酵母製造所?)」に勤務され、パンの
腐敗菌や酵母の研究をされたという。
大東亜戦争の戦時下、国家総動員体制で「マルキ号パン株式会社」は「食料営団」に
吸収され、米軍の大阪空襲でパン工場は壊滅、戦後に復興を果たせなかった。

福田氏が岩手に帰郷された経緯は定かでないが、戦後の昭和23年(1948年)、
盛岡市長田町で「福田パン」を創業された。
この時、福田氏は37歳、奇しくも、賢治が没した年齢に達していた。
花巻農学校(旧稗貫農学校)での、留吉君と賢治先生との出会いが無かったならば、
「福田パン」は誕生して居なかったかも知れないのである。


更に、福田氏と賢治の間には、宮澤賢治ファンにとって、感謝すべき重要な
エピソードがある。

福田氏が盛岡高等農林学校農芸化学科の助手として勤務され、半年程経った
或る日、福田氏は実験室を背景に、プロの写真師にポートレート撮影して貰い、
冬期休暇に入ったその年(大正12年)の暮れに帰省された折、賢治にその写真を
差し上げたという。
賢治は、「よく撮れた写真だ。記念だ。私も後で撮って送るから」と、とても
喜んでくれたという。
休暇が明け、暫らくして、福田氏に賢治から署名入り写真が郵送されて来た。
何と、その写真が、あの有名な、大正13年(1924年)賢治28歳、写真館で撮った
坐像の肖像写真なのである。


第183記事1


第182記事宮澤賢治A

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宮澤賢治の名相…天才的言語芸術家の証

 2018-04-13
宮澤賢治の名相 

…天才的言語芸術家の証



「宮澤賢治」の名相には当然のことながら、彼が天賦の才に恵まれた、
稀有なる言語芸術家であったことが暗示されている。


人生の基礎運に相当する箇所で、生来の気質や、主に少年期、青年期の運気
を暗示する地運(地格)の「表」には運数24が表われている。
この24の数霊は、興産運や裕福運とも呼ばれ、家庭的にも経済的にも安定し、
金運に恵まれるという特徴が注目されがちであるが、実は才知豊かで、繊細で
優れた感受性を持ち、直感的な閃きに恵まれていることから、創造力に長けた
芸術的なセンス、特に文芸の才に恵まれていることを表わしている。

地運の「裏」には、運数26の波瀾運、英雄運が表われていて、強固な意志を
持ち、自己犠牲的な利他の精神に満ち溢れ、天賦の英才にも恵まれ、たとえ
どの分野でも天下を席捲するほどの強力な運気の下に生まれて来ていることを
暗示するものの、悲劇的な波瀾に富んだ人生の傾向性もまた読み取れる。
「非凡な才能」と「ドラマチックな生涯」「悲劇的な終焉」の暗示である。

人生の於いて、最も大きなウェイトを占める「主運」とも言うべき、
人運(人格)には運数32が表われている。
地運の24、26が主に天性の素質などを表わすのに対して、人運の32は主に
社会的存在としての運気を暗示すると読み取れる。
この32の数霊は、僥倖運や天才運、成功運とも呼ばれ、僥倖多望の大幸運、
大飛躍、大発展の吉象意であると共に、天賦の才に恵まれ、天才的な閃きを
持ち、創造性に優れたロマンチストで、若い時分から頭角を現わし、社会的
大成功を収めることを暗示している。

第182記事宮澤賢治A
坐像 大正13年 賢治28歳


主運たる人運に対して、「副運」とも言うべき発動力の大きな外運(外格)の
「表」には運数19、「裏」には運数23が表われていて、自分の意志や努力の
及び難い外的な環境、周囲の状況を表わし、社会生活の背景として、主に
対人関係の運気を表わしている。
善き人との出会いがあるか、周囲の評価はどうか、引き立ては得られるか、
相手から何を齎されるかなどが読み取れる。

「表」の19の数霊は「障害運」の暗示であり、81まである運数の中で、
私が四大凶数と呼ぶ、努力の報われ難い凶数中の凶数である。
人生多事多難で、成功を収めたとしても様々に致命的な障害に見舞われては、
折角の才能や努力を活かし切れずに途中で崩壊して仕舞いがちという波乱万丈
で、大変な苦労が付き纏う不幸な傾向性の凶暗示ではあるが、実はその反面、
桁外れに素晴らしい吉象意をも暗示しているのだ。
と言うのも、この19の数霊には頭脳明晰という特長があり、天性の美的感覚、
霊感の域にまで達するほどに豊かな感受性、鋭い直感力、洞察力等々に恵まれ、
尚且つ実行力に長けている、これら鋭敏な感覚を活かして、芸術界、宗教界、
教育界、政界など、特殊な分野で天才的な才能を発揮し、常に波乱含みでは
あるものの、大活躍をするという大吉象意をも表わしているのだ。
例えば、主運に数霊19が表われている北野武氏、細木数子氏、ホリエモンこと
堀江貴文氏のご活躍振りから、その大吉大凶紙一重のニュアンスをイメージ
出来るのではなかろうか。
この19の数霊がその吉象意を大いに発動、発現させた場合の神懸り的な展開は、
実に驚天動地、万朶の桜が咲き誇るかのように圧倒的で驚異的である。

賢治の数霊19の吉象意は精神性の高さ、天才的な芸術的センスとして、大いに
発動、発現し、天性の優れた洞察力、直感力、分析力、推理力などの援護の下、
特に文芸の才を噴出させるかのように湧現させたのだ。

文壇で成功を収めた名のある文芸作家達には、四大凶数9、10、19、20が
表われているケースが圧倒的に多く、特にこの数霊19が錚々たる人士達の
後天運から読み取れる。
賢治同様に外運に19が表われている文士達には、思い付くままにちょっと
挙げてみるだけでも、森林太郎(森鷗外)氏、松本清張氏、黒岩重吾氏、
芹沢光治氏、野上弥生子氏、真継伸彦氏などがいらっしゃる。

また、人運に19を持つ方々には、芥川龍之介氏、太宰治氏、石川達三氏、
安部公房氏、安岡章太郎氏、五木寛之氏、五味康祐氏、戸板康二氏、
生島治郎氏、長部日出雄氏、高橋三千綱氏、宮尾登美子氏、村上龍氏などが
いらっしゃる。
地運に19を持つ方々には、夏目金之助(夏目漱石)氏、安西篤子氏、松木麗氏
がいらっしゃり、社会運に19は、村上春樹氏、大岡昇平氏、金城一紀氏など、
家庭運に19は、鈴木光治氏、平岩弓枝氏、船戸与一氏などが名を連ねる。

大凶運を伴いながらも、その反面、文壇で斯くも社会的成功を収められるのは、
むしろ多事多難で不幸な波乱含み、精神的にも崩壊の危機と常に背中合わせの
深い孤独を知り、不如意に陥りがちな運命的傾向性を無意識の内にも自覚して、
現世の深い深い闇の深淵に立って、生きるということ、心や魂の実相、存在
そのものの深層に迫ろうとする知的作業を否応にも強いられ、天性の潜在能力
を顕在化させる側面もあるのではないか。
鋭敏な感覚を研ぎ澄ませて、深い闇の孤独を味わった者でなければ、夜明けの
歓喜は描けない。


日輪と山400
賢治作「日輪と山」


賢治の外運の「裏」には運数23「頭領運」「出世運」が表われていて、
実力を大いに発揮して、その名声は天下に及ぶという旭日昇天型の隆盛運、
大吉祥運を暗示している。
ここでもまた、感受性、創造性豊かで優れた閃きの頭脳運、知能運が読み取れ、
頭領運の傾向性としては、俺が俺がと他を押し退けてトップに立つということ
ではなくて、周囲の人々から慕われ、押し上げられて、自ずと頂点に君臨する
ようなタイプの発展運が読み取れる。

全体運、総合運としての総運(総格)には、運数51「明暗運」が表われていて、
これは人徳があることの暗示でもあるが、浮沈盛衰の多い人生の暗示である。
人生の一時期、大成功を収め、富も名誉も得て、世間から注目されるものの、
晩年には運気が衰え、不遇と成り易い傾向性が読み取れる。

社会運には運数42「多芸運」が表われていて、博識で感受性豊かな才能を持ち、
多芸多才であるが、得てして器用貧乏と成りがちで、実を結び難いという暗示
が読み取れる。
確かに賢治は童話作家であり、詩人であり、教師、農業指導家、地質学者と、
天才的な多種多芸の才能を大いに発揮したが生前、その賛嘆しても賛嘆し
切れないほどの賢治の真価が正当に理解、十全に評価されていたとは
言い難い面があったことは否めないであろうと思われる。

数霊の配置から凶暗示を読み取る占法を用いると、
「宮澤」27画-「澤賢」32画の関係性から、発展を阻害しようとする力が働き、
充分に実力を発揮し切れずに、不如意な状況に追い込まれ易く、不満を抱いた
ままに一生を送るという暗示が読み取れる。
特にこの数霊の関係性は不治の病に見舞われ易い暗示で、それが呼吸器疾患で
あることを表わしている。

また、社会運41-家庭運42の連鎖関係から、凶暗示を読み取る占法では、
豊かな感受性、優れた直観力の吉象意が読み取れるものの、住居や職場を転々
と変え易いこと、特殊技能や学術面で天才的な才能を発揮するが、概ね悲劇的
な終焉を迎える暗示が読み取れる。
殊にこの数霊の関係性は健康面での凶象意が強く、幾度も手術を繰り返すことに
成りがちな傾向があること、原因不明の病気に罹り易いこと、精神不安を起こし
易いこと、自律神経失調症、結核に罹り易いことなどの暗示でもある。


第182記事2宮澤賢B
立像 大正15年 賢治30歳


姓名学に於ける運命鑑定は、個々に表われる数霊の象意をただ単に羅列して、
記述するだけでは実相には迫れない。
吉暗示は凶暗示に依って、その十全なる発動、発現を妨げられ、凶暗示は
吉暗示に依って、緩和されることを考慮に入れ、総合判断しなければならない。

霊数19の凶象意には短命運の暗示がある。この「短命」は肉体的なもののみ
ではなく、順境の時期が短いということも意味するものであるが、賢治の場合
は文字通りの意味で、この短命運を回避することが出来なかった。
大正7年(1918年)の6月、22歳の賢治が盛岡高等農林学校の研究生で
あった時、肋膜炎で医師の診断を受けた後、「自分の命もあと15年も持つまい」
と友人に語り、実際にその15年後にこの世を去った。
賢治は自分が長生き出来ないことを自覚していたが故に、短い人生を色鮮やか
に駆け抜けたのかも知れない。
彼はその哀しき凶運をも却って、天賦の才能を開花させる為の豊穣なる土壌に
大転換させてしまったのである。

賢治は逆風の只中でも、いのちの華を万朶の桜の如く、見事に咲き誇らせた、
真に敬愛すべき人格者であったと思うのである。



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宮澤賢治の祈り…湧き出づる愛念

 2018-04-13
宮澤賢治の祈り

…湧き出づる愛念



宮澤賢治の作品中、私が少年時代に最も感銘を受けた詩は、
賢治が昭和8年(1933年)37歳で永眠の後、賢治の弟、清六氏に依って、
遺書と共に茶色ズックのトランクから発見されたという手帳に書かれていた
「十月廿日(20日) この夜半おどろきさめ」である。
この詩は有名な「雨ニモマケズ」と一緒に書かれていたもので、その手帳は
発見の翌年、昭和9年(1934年)に発表された。



十月廿日 (この夜半おどろきさめ)

この夜半おどろきさめ 
耳をすまして西の階下を聽けば
ああまたあの兒が咳しては泣き
また咳しては泣いて居ります
その母のしずかに教へなだめる聲は
合間合間に絶えずきこえます

あの室は寒い室でございます
晝は日が射さず
夜は風が床下から床板のすき間をくぐり
昭和三年の十二月
私があの室で急性肺炎になりましたとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る廣いじぶんらの室を與へ
じぶんらはその暗い
私の四月病んだ室へ入つて行つたのです
そしてその二月
あの子はあそこで生れました 
あの子は女の子にしては心強く
凡そ倒れたり落ちたり
そんなことでは泣きませんでした 
私が去年から病やうやく癒え
朝顔を作り菊を作れば
あの子もいつしよに水をやり
時には蕾ある枝もきつたりいたしました
この九月の末私はふたたび東京で病み
向ふで骨にならうと覺悟してゐましたが
こたびも父母の情けに歸つて來れば
あの子は門に立つて笑つて迎へ
また梯子から
 お久しぶりでござあんすと
聲をたえだえ叫びました
ああいま熱とあえぎのために
心をととのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
 わがないもやと言つて
ねむつてゐましたが
今夜はただただ咳き泣くばかりでございます

ああ 大梵天王
こよいはしたなくもこころみだれて
あなたに訴へ奉ります
あの子は三つでございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱えました
如何なる前世の非にもあれ
ただかの病かの痛苦をば
私にうつし賜はらんこと


谷川徹三編『宮沢賢治詩集』岩波文庫「手帳より」依り



昭和3年(1928年)、過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症し、それ以降、
約2年間はほぼ岩手県花巻の実家での療養生活を送ったという。

昭和6年(1931年)病から回復の兆しを見せた賢治は、東北砕石工場(現在の
一関市)という肥料工場に技師として勤務し、農学知識を活かして土壌改良用
石灰肥料の宣伝販売を担当していた。
9月20日、セールスの為に上京した際、上野駅に着いた時には、死を覚悟した
というほどの発熱と頭痛に苛まれて病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入った。
その傍ら、創作活動を行ない、10月20日にこの「この夜半おどろきさめ」を、
11月3日には有名な「雨ニモマケズ」を手帳に書き留めた。

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詩中、「あの子」というのは、同居していた末の妹クニ夫妻の長女「フジ」
のことで、宮澤家にとって初孫であった。
妹クニ夫妻は、療養の為に実家に戻った賢治の病床に、日当たりの良い二階の
部屋を譲り渡し、自分達は一階の寒い部屋に移っていたのだ。
その寒い部屋で三歳の姪っ子フジが夜中、咳き込んでいるのを聞いて、自分に
日当たりの良い部屋を譲ったばかりに、フジに風邪を引かせてしまったことが
心苦しく、自分が身代わりになるから、フジの病を自分に移して、フジを救って
欲しい、守護して欲しいと切に願っている。

「あの子は三つでございますが
 直立して合掌し
 法華の首題も唱えました」
というところが、また切ない。
まだ三歳の幼いフジではあるが、賢治が教えたのであろう、大乗仏教経典
「妙法蓮華経」の題目を唱えたこともある子であるからと、その功徳を
願っている。


私は仏教嫌い、法華経嫌い、日蓮嫌いであるが、賢治が終生、法華経を信奉
していた事や、日蓮主義を標榜する国柱会の会員であり続けた事とは関わり無く、
賢治の深い愛念が胸に染み入る一詩である。




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岩手陸軍飛行場からの特攻出撃…後藤野から出撃した九九式双発軽爆撃機3機

 2018-04-12
岩手陸軍飛行場からの特攻出撃

…後藤野から出撃した九九式双発軽爆撃機3機




昭和20年(1945年)の7月14日と8月9日、岩手県釜石市は2度に亘り、
アメリカ海軍第34.8.1任務隊所属の戦艦サウスダコタや重巡洋艦シカゴなど、
戦艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻からの艦砲射撃で壊滅的な被害を被った。
長崎に原子爆弾が投下された8月9日の2度目の釜石艦砲射撃に至っては、
7月14日の作戦部隊であった第34.8.1任務隊に加え、イギリス海軍の軽巡洋艦
ニューファンドランド、ニュージーランド海軍の軽巡洋艦ガンビアや駆逐艦
3隻までもが作戦に参加していた。
この2度に亘る艦砲射撃で、アメリカ海軍だけでも16in1605発、8in2120発、
5in1621発、計5346発もの艦砲弾が釜石市内に撃ち込まれ、被災世帯4,543世帯、
被災人員16,992人、750余人もの死者を出すという、壊滅的な被害を被ったのである。






岩手県北上市和賀町後藤(当時は和賀郡藤根村)には嘗て、岩手県民が献納した
「献納飛行場」の「岩手陸軍飛行場」があった。
通称は「後藤野飛行場」で、「岩手愛国飛行場」とも呼ばれたという。

後藤野飛行場史跡整備委員会に依る碑文には、
「1937年(昭和12年)日中戦争が始まった7月、岩手県下の市町村長会議で
愛国機の献納と飛行場設置が決議され、当時の黒沢尻、花巻の二町と藤根、
江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の
11ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し、地権者から僅少価格で
用地を買収して、その実現を図った。
広さ120万坪(396ヘクタール」は、関東の熊谷飛行場(314ヘクタール)を
しのぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校
(現高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された青少年勤労報国団の
勤労奉仕によって、すべて人力によって行われた。
 翌年9月25日、秩父宮を迎えて献納式が行われ、岩手陸軍飛行場と
命名された。
起工式から竣工まで148日、延12万851人、総工費僅か8万7千円であった。
 当初は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた
複葉練習機が飛び交ったが、1944年(昭和19年)本土が空襲を受けるように
なって俄かに実戦基地化され、『神鷲(かみわし)隊』という特攻隊が移駐し、
短期間の訓練の末、各地に配属されていった」とある。


見渡す限りの広大な原野であった後藤野は、802年の征夷大将軍坂上田村麻呂の
蝦夷征伐、1051年の前九年の役で、歴史的な合戦の舞台となった土地柄である。
17世紀には和賀川から上水し、大規模な開墾事業を行なった肥沃な大地である。
後藤野飛行場はその地形から、強風、積雪が多く、作戦用飛行場には適して
いないことから、当初は教育訓練用の飛行場として使用されていた。

昭和19年(1944年)、戦況が逼迫したことから、陸軍の飛行学校は改編され、
教導飛行師団が新たに編成されると、後藤野飛行場は作戦用飛行場として、
主に帝都防衛隊の特別攻撃隊「神鷲隊」が夜間飛行の訓練を行ない、次々と
前線の特攻出撃基地へと出陣して行った。
特攻隊員たちは北上や花巻に分宿し、出陣の日には地元の人々が鬼剣舞
(おにけんばい)を舞うなどして、心温かく見送って上げたという。


鬼剣舞A


8月9日の釜石攻撃は先ず、11時5分から機動部隊の艦載機に依る偵察飛行と
機銃掃射が開始され、艦砲射撃は12時47分から14時45分までの2時間に
亘って行われた。
この日は、後藤野飛行場もアメリカ海軍の艦載機に依る空襲を受けて、施設が
破壊され、隣接する民家に投下された爆弾で、横川目国民学校4年生(10歳)
の男子児童が犠牲となる悲劇も起きた。

この日の夕刻、神鷲隊255隊の九九式双発軽爆撃機3機が500kg爆弾を装備し、
後藤野飛行場を特攻出撃基地として、三陸沖に遊弋していると推測された
敵空母機動部隊攻撃の為に出撃して行った。
このことから、後藤野飛行場は「日本最北の特攻出撃基地」と言われる。

特攻出撃した九九式双発軽爆撃機は略称、「九九双軽」と呼ばれ、日中戦争から
太平洋戦争全般に亘って、広範囲に活躍した陸軍航空爆撃隊の名機であった。
昭和15年(1940年)に制式採用され、昭和17年(1942年)までに557機、
改良型が昭和19年(1944年)までに1411機、合計1968機が生産された。
開発当初は、戦闘機並みの高速性能と急降下も可能な運動性能を持つ優秀機で、
中国戦線では多大な戦果を挙げたが、太平洋戦争ではアメリカ軍戦闘機の進化
には対応出来ずに旧式化した機体は、機首に触発信管を装備した特攻機として、
多数が体当たり攻撃に投入された。
昭和19年(1944年)10月に、鉾田教導飛行師団で編成された日本陸軍航空隊
初の特別攻撃隊「万朶(ばんだ)隊」の装備機種も九九式双発軽爆撃機であった。

九九式双発軽爆撃機の搭乗員は本来、操縦士、前部爆撃手兼機銃手、後部機銃手、
下部機銃手の4名であるが、万朶隊の場合、3機で1編隊、4編隊で12名の
操縦士、編隊長機にのみ、通信員が搭乗したことからすると、後藤野飛行場
から特攻出撃した神鷲隊255隊の九九式双発軽爆撃機の搭乗員は操縦士だけの
各1名であったと考えられる。
陸地を目視しながらの陸上航法を前提とする陸軍航空隊は、海軍航空隊とは
違い、洋上航法は不得手なはずであったことからすれば、航法士の居ない状態
での夜間飛行では、洋上の空母機動部隊を発見することは、さぞかし至難の業
であったろうと思われる。


99式軽爆3

九九式双発軽爆撃機7

九九式双発軽爆撃機6


8月9日の夕刻、後藤野飛行場から出撃した神鷲隊255隊の特攻隊員は、
吉村公男中尉(22歳)、渡辺秀男少尉(22歳)、石井 博伍長(19歳)と、
3名の名が残されている。
出撃した3機の内、1機はエンジンの不調で進撃を断念、爆弾を北上川の中洲に
投下して、後藤野飛行場に無事帰還したとのこと。
進撃した2機は洋上の敵空母機動部隊を発見出来ずに追跡を断念、帰還途中に
燃料が切れてしまったのであろうか、1機は仙台湾に、もう1機は福島県原町に
墜落して、無念の戦死を遂げたという。
釜石に艦砲射撃を行なった第34.8.1任務隊も、艦載機を発進させた機動部隊も
昼間の攻撃を終えた後には、三陸沖遥か洋上に退避していたのであった。

後藤野飛行場への帰還を目指したものの、仙台湾と福島県原町の方向に針路
を取ってしまったということなのであろうが、未熟なパイロットが灯火管制下
の陸地に向かって、飛べただけでも大した腕前であったと思う。
昭和19年(1944年)の秋に開始された特攻作戦は、昭和20年(1945年)に
入ると、アメリカ艦隊の防禦が厚く、接近することさえ難しくなっていたことから、
夜陰に紛れて、超低空飛行で敵艦の舷側に突っ込む戦法が採られていたのである。
闇夜ではなく、せめて、明るい太陽の下で死なせてやりたかったものである。

神鷲隊の特攻隊員たちは本来であれば、後藤野飛行場から特攻出撃基地に
進出した上で、出撃する予定であったろうに、後藤野飛行場が釜石に近い
ことから、急遽出撃が下令されたものであったに違いない。
6日後に、8月15日の終戦を迎えるこの日に特攻出撃命令が下るとは、
何と無慈悲な定めであったことか。






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釜石艦砲射撃1945実録…アメ公は16in1605発、8in2120発、5in1621発もの艦砲弾を撃ち込みやがった!

 2018-04-12
釜石艦砲射撃1945実録 

…アメ公は16in1605発、8in2120発、5in1621発もの
艦砲弾を撃ち込みやがった!




岩手県釜石市は、昭和20年(1945年)の7月14日と8月9日の2度に亘り、
アメリカ海軍を主力とする連合国軍の戦艦、巡洋艦、駆逐艦からの艦砲射撃を
受け、壊滅的な被害を被った。
主要な攻撃目標は日本製鐵釜石製鉄所であったにせよ、市街地を含む全域が
被弾していることから、軍民問わぬ無差別攻撃であったことは明らかである。
7月14日の攻撃は、本州初のアメリカ海軍に依る艦砲射撃であった。

純軍事的な観点からすると、日本軍の敗北が決定的な戦況に至っていた、
無条件降伏1ヶ月前、1週間前の段階に於いて、上陸作戦の援護射撃という
訳でもなく、艦隊がわざわざ機雷の敷設されていた危険な日本沿岸に侵入し、
空爆で事足りる攻撃目標を艦砲射撃する必要など、更々無かったのである。

戦略爆撃機B-29で日本本土を空爆していたのは、アメリカ陸軍航空軍
(1947年にアメリカ空軍として独立)であった。
爆撃隊に付ける護衛戦闘機にしても、硫黄島から出撃するアメリカ陸軍航空軍
所属のノースアメリカンP-51 マスタングであった。
アメリカ海軍空母機動部隊は、グラマンF6Fヘルキャットなどの艦上戦闘機を
発進させては、機銃掃射に依る日本本土の無差別攻撃を行っていた。
戦争終結を目前にして、アメリカ海軍としては、「このままでは、陸軍航空軍の
手柄だけで日本が降伏してしまう。戦争が終わる前に、海軍にも日本本土を
砲撃させろ」、要するに「俺たちにもやらせろ!」という発想、その程度の動機
であったに違いない。


インディアナ マサチューセッツ クインシー シカゴ 7 14
戦艦インディアナ、戦艦マサチューセッツ、重巡洋艦クインシー、重巡洋艦シカゴ

釜石6


戦艦サウスダコタ

インディアナ2
サウスダコタ級戦艦2番艦インディアナ

マサチューセッツ2
サウスダコタ級戦艦3番艦マサチューセッツ

ボルチモア級重巡洋艦シカゴ1
ボルチモア級重巡洋艦シカゴ

ボルチモア級軽巡洋艦クインシー1
ボルチモア級重巡洋艦クインシー


7月14日に釜石への艦砲射撃を行ったのは、ジョン・シャフロス少将率いる
第34.8.1任務隊の旗艦、戦艦サウスダコタ、
サウスダコタ級戦艦の2番艦インディアナ、
サウスダコタ級戦艦の3番艦マサチューセッツ、
ノーザンプトン級重巡洋艦の4番艦シカゴ、
ボルチモア級重巡洋艦の4番艦クインシー、
フレッチャー級駆逐艦アボットなど、
戦艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻であった。

7月14日11時頃から機動部隊の艦載機に依る偵察飛行と機銃掃射が開始され、
艦砲射撃は12時10分から14時10分までの2時間に亘って行われた。
この日の艦砲射撃では、日本製鐵釜石製鉄所を中心に被弾し、鈴子、只越地区、
嬉石・松原地区などが甚大な被害を受けた。

アメリカ海軍の記録に依れば、
16in砲弾802発、8in砲弾728発、5in砲弾1035発、計2565発が発砲された。


釜石艦砲射撃7 14
第1回艦砲射撃航路図(釜石艦砲戦災誌)

サウスダコタ 16インチ砲 7 14
サウスダコタ主砲16in艦砲

インディアナ主砲 16インチ
インディアナ主砲16in艦砲

インディアナ 7 14
インディアナ

マサチューセッツ1
マサチューセッツ

マサチューセッツ 8 9
マサチューセッツ

釜石3
駆逐艦アボット艦上

釜石5
駆逐艦アボット艦上

釜石4
駆逐艦アボット艦上

F4Fヘルキャット
グラマンF4Fヘルキャット

釜石1


2度目の釜石艦砲射撃は、長崎に原子爆弾が投下された8月9日であった。
この日の艦砲射撃には、7月14日の作戦部隊であった第34.8.1任務隊に加え、
イギリス海軍のセイロン級軽巡洋艦ニューファンドランド(主砲6in三連装砲4基)、
ニュージーランド海軍のフィジー級軽巡洋艦ガンビア(主砲6in三連装砲4基)、
駆逐艦3隻(所属不明)も作戦に参加した。
(イギリス海軍とニュージーランド海軍の計5隻が発砲した艦砲弾数は不明)

8月9日、11時5分から機動部隊の艦載機に依る偵察飛行と機銃掃射が開始され、
艦砲射撃は12時47分から14時45分までの2時間に亘って行われた。

アメリカ海軍の記録に依れば、
16in砲弾803発、8in砲弾1392発、5in砲弾586発、計2781発が発射された。
但し、この発射弾数はアメリカ海軍のみの数値であり、イギリス海軍、
ニュージーランド海軍の発射弾数は記録が見付からず、含めていないので、
3000発を超える被弾があったことは間違いないと推測される。

8月9日の艦砲射撃では、再び日本製鐵釜石製鉄所が攻撃されたほか、
特に中妻、甲子(かっし)村(小川・小佐野)などが甚大な被害を受けた。

この2度に亘る艦砲射撃で、アメリカ海軍だけでも、16in1605発、
8in2120発、5in1621発、計5346発もの艦砲弾が釜石市内に撃ち込まれた。
こうして、釜石は被災世帯4,543世帯、被災人員16,992人、750余人もの死者
を出すという、壊滅的な被害を被ったのである。


釜石艦砲射撃8 9
第2回艦砲射撃航路図(釜石艦砲戦災誌)

ニューファンドランド
イギリス海軍軽巡洋艦ニューファンドランド

ニュージーランド海軍軽巡洋艦ガンビア
ニュージーランド海軍軽巡洋艦ガンビア

8 9 ニュージーランド 軽巡洋艦ガンビア
ニュージーランド海軍軽巡洋艦ガンビア

16インチ砲弾1
16in艦砲弾


16インチ艦砲弾2
16in艦砲弾


釜石市内全域が焦土と化した艦砲射撃に依る攻撃では、最大の艦砲弾である、
16in艦砲弾が1605発も撃ち込まれた。
この16in艦砲弾が、如何に大重量砲弾であったかと言えば、直径40.6cm、
全長162.6cm、榴弾(りゅうだん…内部に火薬が詰められた砲弾)で、
重量約1000kg、炸薬量約70kg、最大射程38.720kmという化け物のような
艦砲弾であった。

このアメリカ海軍の16in(40.6cm)艦砲弾は、日本の長門型戦艦(1番艦長門、
2番艦陸奥)の主砲、41cm(16.1in)艦砲弾に相当する大重量砲弾である。
因みに、大和型戦艦(1番艦大和、2番艦武蔵)は、史上最大の46cm主砲
3基9門を備えていた。
日露戦争に於ける日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦、
戦艦三笠の主砲でさえもが、12in連装砲塔2基であったことからすれば、16in艦砲弾が
如何に巨大な大重量砲弾であったかは想像の域を超えている。
現在でも世界最大の大重量砲弾である16in艦砲弾を1605発も釜石市内全域に
撃ち込んだヤンキーはサタンの使者であった。
ニューヨークにも、16in艦砲弾を1万発ほど撃ち込んでやりたいものである。


釜石港空撮1

釜石01







釜石02



※参考 アイオワ級戦艦の射撃風景三景
アイオア級3

flx3liアイオア級

アイオア







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