華やぐ日々よ …詠山史純の愚考拙文録 岩手県賛歌

釜石艦砲射撃四方山話 …アメ公は16in艦砲弾を1605発も撃ち込みやがった!

釜石艦砲射撃四方山話 

…アメ公は16in1605発、8in2120発、5in1621発
もの艦砲弾を撃ち込みやがった!




岩手県釜石市は、昭和20年(1945年)の7月14日と8月9日の2度に亘り、
アメリカ海軍を主力とする連合国軍の戦艦、巡洋艦、駆逐艦からの艦砲射撃を
受け、壊滅的な被害を被った。
主要な攻撃目標は日本製鐵釜石製鉄所であったにせよ、市街地を含む全域が
被弾していることから、軍民問わぬ無差別攻撃であったことは明らかである。
7月14日の攻撃は、本州初のアメリカ海軍に依る艦砲射撃であった。

純軍事的な観点からすると、日本軍の敗北が決定的な戦況に至っていた、
無条件降伏1ヶ月前、1週間前の段階に於いて、上陸作戦の援護射撃という
訳でもなく、艦隊がわざわざ機雷の敷設されていた危険な日本沿岸に侵入し、
空爆で事足りる攻撃目標を艦砲射撃する必要など、更々無かったのである。

戦略爆撃機B-29で日本本土を空爆していたのは、アメリカ陸軍航空軍
(1947年にアメリカ空軍として独立)であった。
爆撃隊に付ける護衛戦闘機にしても、硫黄島から出撃するアメリカ陸軍航空軍
所属のノースアメリカンP-51 マスタングであった。
アメリカ海軍空母機動部隊は、グラマンF6Fヘルキャットなどの艦上戦闘機を
発進させては、機銃掃射に依る日本本土の無差別攻撃を行っていた。
戦争終結を目前にして、アメリカ海軍としては、「このままでは、陸軍航空軍の
手柄だけで日本が降伏してしまう。戦争が終わる前に、海軍にも日本本土を
砲撃させろ」、要するに「俺たちにもやらせろ!」という発想、その程度の動機
であったに違いない。


インディアナ マサチューセッツ クインシー シカゴ 7 14
戦艦インディアナ、戦艦マサチューセッツ、重巡洋艦クインシー、重巡洋艦シカゴ

釜石6


戦艦サウスダコタ

インディアナ2
サウスダコタ級戦艦2番艦インディアナ

マサチューセッツ2
サウスダコタ級戦艦3番艦マサチューセッツ

ボルチモア級重巡洋艦シカゴ1
ボルチモア級重巡洋艦シカゴ

ボルチモア級軽巡洋艦クインシー1
ボルチモア級重巡洋艦クインシー


7月14日に釜石への艦砲射撃を行ったのは、ジョン・シャフロス少将率いる
第34.8.1任務隊の旗艦、戦艦サウスダコタ、
サウスダコタ級戦艦の2番艦インディアナ、
サウスダコタ級戦艦の3番艦マサチューセッツ、
ノーザンプトン級重巡洋艦の4番艦シカゴ、
ボルチモア級重巡洋艦の4番艦クインシー、
フレッチャー級駆逐艦アボットなど、
戦艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻であった。

7月14日11時頃から機動部隊の艦載機に依る偵察飛行と機銃掃射が開始され、
艦砲射撃は12時10分から14時10分までの2時間に亘って行われた。
この日の艦砲射撃では、日本製鐵釜石製鉄所を中心に被弾し、鈴子、只越地区、
嬉石・松原地区などが甚大な被害を受けた。

アメリカ海軍の記録に依れば、
16in砲弾802発、8in砲弾728発、5in砲弾1035発、計2565発が発砲された。


釜石艦砲射撃7 14
第1回艦砲射撃航路図(釜石艦砲戦災誌)

サウスダコタ 16インチ砲 7 14
サウスダコタ主砲16in艦砲

インディアナ主砲 16インチ
インディアナ主砲16in艦砲

インディアナ 7 14
インディアナ

マサチューセッツ1
マサチューセッツ

マサチューセッツ 8 9
マサチューセッツ

釜石3
駆逐艦アボット艦上

釜石5
駆逐艦アボット艦上

釜石4
駆逐艦アボット艦上

F4Fヘルキャット
グラマンF4Fヘルキャット

釜石1


2度目の釜石艦砲射撃は、長崎に原子爆弾が投下された8月9日であった。
この日の艦砲射撃には、7月14日の作戦部隊であった第34.8.1任務隊に加え、
イギリス海軍のセイロン級軽巡洋艦ニューファンドランド(主砲6in三連装砲4基)、
ニュージーランド海軍のフィジー級軽巡洋艦ガンビア(主砲6in三連装砲4基)、
駆逐艦3隻(所属不明)も作戦に参加した。
(イギリス海軍とニュージーランド海軍の計5隻が発砲した艦砲弾数は不明)

8月9日、11時5分から機動部隊の艦載機に依る偵察飛行と機銃掃射が開始され、
艦砲射撃は12時47分から14時45分までの2時間に亘って行われた。

アメリカ海軍の記録に依れば、
16in砲弾803発、8in砲弾1392発、5in砲弾586発、計2781発が発射された。
但し、この発射弾数はアメリカ海軍のみの数値であり、イギリス海軍、
ニュージーランド海軍の発射弾数は記録が見付からず、含めていないので、
3000発を超える被弾があったことは間違いないと推測される。

8月9日の艦砲射撃では、再び日本製鐵釜石製鉄所が攻撃されたほか、
特に中妻、甲子(かっし)村(小川・小佐野)などが甚大な被害を受けた。

この2度に亘る艦砲射撃で、アメリカ海軍だけでも、16in1605発、
8in2120発、5in1621発、計5346発もの艦砲弾が釜石市内に撃ち込まれた。
こうして、釜石は被災世帯4,543世帯、被災人員16,992人、750余人もの死者
を出すという、壊滅的な被害を被ったのである。


釜石艦砲射撃8 9
第2回艦砲射撃航路図(釜石艦砲戦災誌)

ニューファンドランド
イギリス海軍軽巡洋艦ニューファンドランド

ニュージーランド海軍軽巡洋艦ガンビア
ニュージーランド海軍軽巡洋艦ガンビア

8 9 ニュージーランド 軽巡洋艦ガンビア
ニュージーランド海軍軽巡洋艦ガンビア

16インチ砲弾1
16in艦砲弾


16インチ艦砲弾2
16in艦砲弾


釜石市内全域が焦土と化した艦砲射撃に依る攻撃では、最大の艦砲弾である、
16in艦砲弾が1605発も撃ち込まれた。
この16in艦砲弾が、如何に大重量砲弾であったかと言えば、直径40.6cm、
全長162.6cm、榴弾(りゅうだん…内部に火薬が詰められた砲弾)で、
重量約1000kg、炸薬量約70kg、最大射程38.720kmという化け物のような
艦砲弾であった。

このアメリカ海軍の16in(40.6cm)艦砲弾は、日本の長門型戦艦(1番艦長門、
2番艦陸奥)の主砲、41cm(16.1in)艦砲弾に相当する大重量砲弾である。
因みに、大和型戦艦(1番艦大和、2番艦武蔵)は、史上最大の46cm主砲
3基9門を備えていた。
日露戦争に於ける日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦、
戦艦三笠の主砲でさえもが、12in連装砲塔2基であったことからすれば、16in艦砲弾が
如何に巨大な大重量砲弾であったかは想像の域を超えている。
現在でも世界最大の大重量砲弾である16in艦砲弾を1605発も釜石市内全域に
撃ち込んだヤンキーはサタンの使者であった。
ニューヨークにも、16in艦砲弾を1万発ほど撃ち込んでやりたいものである。


釜石港空撮1

釜石01







釜石02




アイオア級3

flx3liアイオア級

アイオア








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2013/09/05 04:53 | 岩手県賛歌COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

サイン盗みこそ、正しく野球である …情報伝達の禁止は、野球にそぐわない

サインを盗んで、何処が悪い!
 
サイン盗みこそ、正しく野球である

…情報伝達の禁止は、野球にそぐわない



8月19日に戦われた、全国高校野球選手権準々決勝、対鳴門戦での8回表、
花巻東の攻撃中、二塁走者だった千葉翔太中堅手がバッターの多々野将太三塁手
に対し、キャッチャーの構える位置を合図したとして、球審に注意を受けた。

このことで、インターネット上では、
「花巻東の千葉翔太君は、卑怯なサイン盗みというルール違反を犯した」と、
手酷いバッシングを受けているが、これらの批判は甚だ見当外れである。

日本高校野球連盟審判規則委員会の周知徹底事項の「マナー」の項目に、
「走者やベースコーチなどが、捕手のサインを見て、打者にコースや球種を
伝える行為を禁止する。
もしこのような疑いがある時、審判員はタイムをかけ、当該選手と攻撃側
ベンチに注意を与え、すぐに止めさせる」とあり、二塁走者であった千葉君
のアクションがこの事項に抵触するとして、球審から注意を受けた訳である。

千葉君への「卑怯なサイン盗みというルール違反を犯した」という批判であるが、
第一に、野球で相手チームのサインを見破り、相手の戦法を予測し、伝達し
合って、その裏を掻き、相手の攻勢を封じるというのは立派な戦術、戦略で
あって、決して「卑怯」な行為ではない。
後述するが、むしろ、如何にも野球に相応しい戦い方なのである。

第二に、千葉君が「サイン盗みをした」と言うが、千葉君が伝えたとされる
のは、サインではなく、相手キャッチャーのミットの位置である。

第三に、「サイン盗み」自体は禁止されていない。
禁止されているのは、見破ったサインの内容を塁上のランナーや第三者が
動作などでバッターに伝達する行為である。
サインというものは、相手チームに見られることを前提に作られている。
キャッチャーにしても、相手監督のサインを見ているではないか。
サイン盗みが禁止されていないからこそ、盗まれることを防ぐ為にサインを
複雑な組み合わせにし、サイン体系自体をも頻繁に変えているのである。
そのサインを見抜くのも、野球選手に求められる重要なセンスの一つである。

第四に、千葉君は「ルール違反」を犯したのではなく、「マナー違反」の疑い
があるとして、球審から注意を受けたのである。
野球に限らず、ルール違反を犯した場合に、ペナルティが課せられない競技はない。
千葉君が抵触した疑いがあるとされたのは、日本高校野球連盟審判規則委員会の
周知徹底事項「マナー」の項目である。

そもそも、選手間の情報伝達を禁止していることが間違っているのである。
それをルールと言うならば、そのルールが間違っているのである。
サインを盗み、それに依って得た情報を選手間で伝達し合う行為を禁止する
規則を作ること自体、野球という競技にはそぐわないのである。


千葉君27

千葉君26

千葉君28

千葉君31


全国高等学校野球選手権大会である「夏の甲子園」の主催者は、朝日新聞社と
日本高等学校野球連盟である。
大正4年(1915年)、第1回全国中等学校優勝野球大会として、大阪の豊中
グラウンドで開催されたのが、全国高等学校野球選手権大会の始まりである。

朝日新聞社は今でこそ、この素晴らしき「夏の高校野球」の主催者であるが、
明治44年(1911年)には、新聞紙上で22回に亘り、「野球とその害毒」との
野球批判のネガティブ・キャンペーンを展開したのである。
この「野球害毒論」とも、「野球有害論」とも呼ばれる論陣を張った中で、
最も有名な人物は当時、旧制一高校長であった新渡戸稲造ではなかろうか。

新渡戸稲造博士曰く、
「私も日本の野球史以前には、自分で球を縫ったり打棒(バット)を作ったりして、
野球をやったこともあった。
野球という遊戯は、悪く言えば、巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、
計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる
遊びである。
故にアメリカ人には適するが、イギリス人やドイツ人には決して出来ない。
野球は賤技なり、剛勇の気無し」

※巾着切り(きんちゃっきり)とは、スリ(掏摸)の手口の一つ


この新渡戸稲造博士の野球害毒論に対し、野球擁護の論陣を張った、
冒険小説作家の押川春浪は、「もし、敵の虚を窺い、隙に乗ずるを以て、
巾着切り的遊技と言うがごとき、博士の論法を用いんには、撃剣、柔術、庭球、
蹴球、競走等、何れか巾着切り的遊技にあらざる。
博士の言うが如くんば、自ずから競技という文字は絶対に破壊せらるべし」
と批判した。

そもそも、野球とは、競技者に狡賢さ、抜け目の無さという要素も求められる、
謂わば、狡っ辛い競技という一面も持つのである。


大正時代の野球2

大正時代の野球1


「千葉翔太中堅手がサイン盗みをした」と批難されている。
「サイン盗み」とは、如何にも聞こえの悪い表現である。
何事に於いても、「盗み」は悪いことと決まっている。

しかし、野球用語には、「塁を盗む」という表現がある。
「ランナーを刺す」「ランナーを殺す」「刺殺」という表現もある。
「捕殺」、「併殺」、「死球」、「憤死」、「犠牲」と如何にも物騒な言葉が並ぶ。


私の大好きな映画に、「春の珍事(IT HAPPENS EVERY SPRING)」という
野球コメディ映画がある。
1949年制作のハリウッド映画で、ロイド・ベーコン監督作品、
主演はレイ・ミランド、その恋人役はジーン・ピーターズである。

レイ・ミランドは、化学研究者である大学教授の役を演じる。
この教授は、授業中にもラジオを教壇に隠し、授業そっちのけで、野球の
ラジオ中継に夢中になるほどの野球好き。
ある日、そんな彼が研究室で実験をしていると、グラウンドで野球をしていた
学生の打球が飛び込んで来て、机上の試験管を何本も滅茶苦茶に壊してしまい、
試験管の中の液体が混じり合ってしまった。
この偶然に混じり合ってしまった液体が、木を避ける性質の液体であることを
発見した彼は、野球のボールに塗れば、バットに当たらないことに気が付いて、
大リーグの投手になって、活躍するという愉快なストーリーである。
しかし、この液体は偶然に配合された結果なので、二度と同じものは作れない。
その量には限りがあったことから…。

レイ・ミランドは、大リーグで活躍していることを、恋人のジーン・ピーターズ
には秘密にしていた。
彼から手紙は来るが、何をしているのかは教えて貰えない。
そこで、彼女は手紙が投函された都市に行ってみると偶然、駅で彼を見付けた。
彼はチームのメンバーと共に、遠征に出掛ける為に駅の構内にいたのであるが、
そんな彼らの会話を盗み聞きした彼女はビックリ仰天する。
何故なら、彼らの交わす会話には「殺す」やら、「盗む」やら、物騒な言葉が
飛び出すので、彼女はてっきり彼がギャングになったと誤解してしまう。
このように、野球用語というものは、そもそもが物騒な表現なのであるから、
「塁を盗む」選手も、「サインを盗む」選手も、卑怯な悪者ではないのである。


横浜対PL


平成10年(1998年)の夏、8月20日の準々決勝は、横浜対PL学園で
戦われ、横浜が延長17回の激戦を制し、9対7で勝利を収めた。
この試合は、高校野球史上に燦然と輝く名勝負であったと言える。
横浜のエース、松坂大輔投手(3年)は250球を投げ切った。
PL学園のエースは現在、日本テレビアナウンサーの上重聡投手(3年)。

この試合、怪物と称された程の松坂投手が、妙にヒットを打たれた。
PL学園がレベルの高いチームであることを勘定に入れても、それにしても、
随分とヒットを許した。
実はこの試合、情報戦としてもハイレベルな戦いが展開されていたのである。

PL学園の3塁ランナーコーチは、小山良男捕手の捕球の癖を見破っていた。
小山捕手は、松坂投手のストレートを受ける時は普通の捕球の構えであったが、
変化球を受ける時には、片足を地に付けるという癖があった。
これを見抜いたPL学園の3塁ランナーコーチは、松坂投手の投球の度に、
ストレート、変化球を意味する「狙え~」「行け~」などの暗号を決めておき、
打者に指示を与えていたのである。

更に驚くべきことには、横浜ベンチの控え選手がこのPL学園のサインを
見破り、監督に進言、監督は直ちにバッテリーに伝令を送って、このことを
伝えたのである。
横浜とPL学園、この両チーム共に、何とハイレベルな野球チームであった
ことか、感嘆せずにはいられない。
このハイレベルな情報戦を、卑怯なプレー、ダーティーファイトと受け取る
ような野球ファンはいるのであろうか。


前橋育英対延岡学園1


Number Web「甲子園の風」に、こんな記事が掲載された。
「前橋育英と延岡学園の美しき決勝」
「両校が見せたクリーンファイトの爽快」

「勝利に固執し過ぎ、様々な問題が出てきた高校球界。
昨今の高校球界では、さまざまな問題が噴出してきている。

勝利に固執するあまり、相手を思いやる気持ちに欠けるプレーを行うチームが
増えている。
今春のセンバツでは、ホームのクロスプレーでメジャーリーガーばりの
タックルをお見舞いしたチームがあったし、今大会でもサイン伝達などが
問題となった。
そんな中で、決勝戦は実にクリーンファイトだった」

「クリーンファイト」は当然、その対極に「ダーティーファイト」があること
を前提としている。
筆者は、花巻東の野球がダーティーファイトであると断定しているではないか。
そして、その「クリーン」の根拠であるが、「延岡学園の捕手に、前橋育英の
一塁コーチャーがコールドスプレーを掛けて、手当てしてやった」
「打者がキャッチャーのマスクを拾ってやった」
「キャッチャーがバットを拾ってやった」
「この試合では、そうした相手を思いやる姿勢が随所に表れていた」
ということである。

しかし、そんなことは、花巻東の選手たちも当たり前にやっている。
花巻東の選手たちの礼儀正しさは、折り紙付きなのである。
いい加減な認識で以って、花巻東を馬鹿にしないで貰いたい。

筆者は、「勝利に固執し過ぎ、様々な問題が出てきた高校球界」と言うが、
試合後、敗者を整列させ、勝者の栄誉を称え、勝者の校歌を聴かせるという
勝利至上主義の屈辱を味あわせているのは、何処の何奴かと言いたいものである。


野球ボール1






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2013/08/25 01:26 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

従軍記者としての横川省三評 …海軍中佐小笠原長生述「横川省三君に就いて」

従軍記者としての横川省三評 

…海軍中佐小笠原長生述「横川省三君に就いて」



★前稿「岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ…敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格」補遺★


海軍中佐小笠原長生述「日露戦争軍事談片」春陽堂 明治38年3月出版
「横川省三君に就いて」 於海軍省新聞記者集会室
                               (文責在詠山史純)


今回、ハルピンに於いて、銃殺の奇禍に遭いたる横川省三君のことについて、
少しお話を致しましょう。
私が同君に関し、この間もお話したことがあったが、到頭あの人は遣られて
しまった。
洵に残念に堪えません。


小笠原長生A


日清戦争の時、あの人は朝日新聞の従軍通信員として、初め「吉野」に乗って
いましたが、威海衛攻撃の時より「高千穂」に乗っていたのです。
私はその時も新聞社員の係をしていましたが、「高千穂」にはなお日日新聞の
佐伯君も乗っていて、横川君と二人でしたが、二人ともなかなか勉強家でした。
横川君は殊に、戦時通信員には適当の人でした。
戦いが始まると、櫓(マスト)のトップに乗って、仔細に戦況を視察していました。
それですから、いつも降りて来ると、煙の為に顔は真っ黒になって、
眼ばかりパチパチさせていましたから、皆が横川君はまた黒坊に成って来たと
よく言われましたが、その時の高千穂艦長は野村という人で、当時は大佐で、
後に少将成っていましたが、この人は非常の勇気があった人で、横川君も
この艦長の紹介に依って、水雷艇に乗る事に成りましたが、その時は「定遠」などを
沈めに行く時ですから、艇長などが拒んだのです。


横川省三 ポートレート


それは艇中にて邪魔にも成るし、また怪我をさしても成らぬからですが、
本人が請うて止まぬものですから、終に攻撃が終わってから後に乗せました。
その後、邪魔にも成るから、本艦に乗り換えを命じてもなかなか聞き入れ
なかったそうです。
しかし、水雷艇より本艦に帰って来た時は、非常に驚いていました。
端艇(ボート)に乗って、千島に行ったこともあるが、その時も随分酷いと
思ったが、とてもそんなものではない。
水雷艇には、実に驚きましたと語っておりました。


吉野
                       防護巡洋艦 吉野


それから、横川君は澎湖島より台湾にまで行きましたが、横川君には
その時分には一室を貸与しておりました。
先生(横川)随分肥満しておったものですから、非常な暑がりでした。
その室に行ってみると、片手に手拭を持ち、汗を拭き拭き、片手に筆を執って、
通信を書いていましたが、非常に勉強したものでした。
その後、拱北の砲台を取った時などは、上陸して真っ先に出掛けて行きました。
台湾に着いた時は、やはり高千穂に乗っていたが、陸軍に従がい、二三日ずつ
上陸していました。
その時も、いつも危険を冒して、真っ先に駆け出して行くのです。
その時一度、敵に追われて一目散に逃げ帰って来たが、田の中へ落ちて、
何処も彼処も泥だらけで、真っ黒になって来ましたが、その中で地図を
書いて来ているのです。
ここは自分の落ちた所だなどと語っていました。その図は今に朝日新聞社に
残っているでしょうが、良き記念物です。
実に横川君は軍事に於ける通信社の模範です。
こういう人でこそ、新聞記者の天職を尽くし得ることが出来るのである。
いつでも危険を冒して、戦闘の真っ先に立ち、仔細に視察して、綿密なる
通報をしようと勤めていたのです。


巡洋艦高千穂 排水量3709トン
                     防護巡洋艦 高千穂


当時の高千穂艦長野村大佐は非常な豪傑風な人で、日蓮が大好きでした。
私も日蓮のことについて読んだ書物がありますから、よく艦長の所へ行って、
その話をしました。
その時分、いつも艦長は横川君と佐伯君を室に招きました。
横川君も豪傑風の先生ですから、非常に艦長の気に入っていました。
野村艦長はいつも新聞通信員というものは、戦始まれば、真っ先に出て、
または艦橋などに登りて視察をせねばならぬと言われるものですから、
先生(横川)はまた一々艦長の言を尤もなりとして、これを実行したのです。
私は余り危険を冒してはいかんと注意しても、なかなか聞き入れませんでした。
そうして、艦長室ではいつもも艦長と英雄論が始まるのですが、英雄論と
来ると、横川君は艦長にでも一歩も譲らないのでした。
しかして、艦長は横川君の事を常に「達磨」「達磨」と言っていましたが、
用があると「達磨を呼べ」「達磨を呼べ」と言っていました。


水雷艇 霞
                       水雷艇 霞


私はその後、結婚しましたが、その時、日日(新聞)の佐伯君も来ましたが、
横川君も来て、非常に席を賑わしたことがありました。
それから私は、此処彼処と航海していましたから、
これが先生と最終の会見でした。

横川君は或る時、筆を以って世に立つ程、詰まらないことは無いと
語っていましたが、それより、筆を執って世に立つことを止めたのでしょう。
しかし、先生(横川)は満州の各地より種々の報告をせられて、大いに
国の為勤められたのですが、それらの通信の中にはなかなか趣味のある
ものが少なくないのです。

小笠原長生3

横1

横2


小笠原長生 慶応3年(1867年)-昭和33年(1958年)
肥前国唐津藩主家の生まれ。 江戸幕府老中小笠原長行の長男。
東郷平八郎元帥の側近。 最終階級海軍中将。



●岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ…敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-401.html






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2013/07/23 21:15 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ …敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格

岩手旧南部盛岡藩士、武人の誉れ 

     …敵軍ロシア兵もが称えた横川省三の品格



日露戦争は、西洋列強の外圧で開国を余儀無くされた小国日本が明治維新から
僅か37年後に国家の存亡を賭して、国力10倍の大帝国ロシアに敢然と戦いを
挑んだ大戦争で、明治37年(1904年)2月から明治38年(1905年)9月まで
戦われた。


日露戦争10


日露開戦前の明治34年(1901年)、清国公使内田康哉の求めに応じ、
民間人でありながら、「軍事探偵」として、支那大陸で諜報活動に従事、
日露開戦直後、ロシア軍の後方撹乱の為、東清鉄道鉄橋爆破の特殊任務に
出撃するも、ロシア軍に捕らえられ、ハルピン郊外で銃殺された横川省三
という岩手県盛岡出身の人物がいた。
昭和55年(1980年)制作の映画「二百三高地」は、この銃殺刑シーンから
始まる。横川省三を俳優の早川純一氏が演じた。

私が横川省三の人物像に惹かれるのは、彼が国家の危急存亡の時に、民間人で
ありながらも作戦任務に挺身し、祖国に殉じた忠君愛国の烈士であったという
日本的な英雄像からではなく、ロシア軍に捕らえられ、処刑される迄の僅かな
日々に馥郁と薫った彼の日本人としての品格が、敵軍のロシア兵やヨーロッパ
各国の観戦武官をも感服させ、更にヨーロッパ報道界にまで、彼の人格が感銘
を与えたという歴史的事実に対する驚きにある。


日露戦争2


横川省三は、元冶2年(1865年)4月4日、盛岡藩士三田村勝衛、クニの次男
「勇治」として、盛岡下小路(盛岡市愛宕町)で生まれた。
※元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日)、慶応に改元。
明治17年(1884年)、東和賀郡十二鏑村(花巻市東和町)の横川佳哉と結婚、
横川家に婿入りする。
「山田勇治」「横川勇治」と幾つかの名を名乗るが、荘子の言葉「日に三度己を
省みる」に因んで、明治34年(1901年)に「横川省三」と改名したという。
号は「北溟」とも、「精軒」とも称した。

横川省三の父、三田村勝衛は日本の開国直後、盛岡藩が江戸幕府に北方警備を
命じられたのに伴い、副司令として、函館に赴任した。
その函館で、三田村勝衛はロシア領事館附属礼拝堂の司祭であったニコライ・
カサートキン(ニコライ堂で有名なニコライ神父)と出会い、ギリシャ正教に
改宗し、篤信のキリスト教徒になったという。
この父の教育を受け、横川省三が熱心なキリスト教徒として育てられたことが、
彼の人格形成に多大な影響を与えたに相違ない。
明治13年(1880年)、横川省三は開学当初の名門岩手中学(現盛岡一高)
英文科に学ぶ。


横川省三 ポートレート


盛岡の「求我社」の感化を受け、自由民権運動に身を投じることとなった
横川省三は、結婚した年の明治17年(1884年)に上京し、自由民権運動の
一大拠点「有一館」に入門するが、加波山事件関係者を匿ったことで連座し、
6ヶ月間の禁固刑を受けることとなった。(1年8ヶ月の禁固刑との説も有り)
これに依って、横川省三は政府から危険人物と見做され、明治20年(1887年)、
保安条例に依って、皇居三里以内から追放処分を受けた。

※加波山事件は、自由民権運動の中で起きた武装蜂起で、関東諸県の急進的な
自由党員が、政府の弾圧に対してテロリズムで対抗すべく、栃木県庁落成時に、
自由民権運動を厳しく弾圧した福島県令三島通庸(栃木県令兼任)や政府高官
の爆殺を計画するも、爆弾製造中の誤爆で計画が破綻、茨城県加波山を拠点に
挙兵したが、数日で鎮圧された事件である。

因みに、三島通庸(旧薩摩藩士)の次女峰子は、大久保利通の次男牧野伸顕に
嫁ぎ、牧野伸顕の長女雪子は吉田茂に嫁いでいるので、麻生太郎現副総理は
三島通庸の玄孫に当たる。


盛岡城1


横川省三は出獄後、郷里で自由民権運動家として活躍した後、再び上京。
明治23年(1890年)、伝有って、東京朝日新聞社に入社。
郡司成忠の千島列島探検隊に同行取材し、「短艇遠征随行記」を書き、
日清戦争では従軍記者として防護巡洋艦「吉野」に乗艦し、「大海戦記」を
連載して、好評を博したという。
また、明治29年(1896年)の三陸大津波に際しては特派員として、
翌々日には早くも現地の被害状況を報じている。
同年、東京朝日新聞社を退社。
北米サンフランシスコに渡り、農園経営や日刊紙の創刊を手掛けるが、
妻危篤の報を受け、急遽帰国。
妻佳哉は、夫省三と一週間を過ごした後に永眠。
帰国途中に寄港したハワイで、日本移民の窮状を知ったことを切っ掛けとして、
再度ハワイに渡航し、人種差別やストライキの調停など移民事業に尽力した。


防護巡洋艦吉野
             防護巡洋艦吉野型『吉野』(明治29年11月25日 横須賀軍港)


横川省三 三陸大津波
          「三陸海嘯視察手帖」(明治29年)盛岡先人記念館蔵


明治34年(1901年)、如何なる人脈に依るものであったのかは定かでないが、
横川省三は清国公使内田康哉(熊本藩出身)の要請に応じて、清国に渡り、
北京の東文学舎に寄宿。
※内田康哉《慶応元年(1865年)-昭和11年(1936年)》は後に明治、大正、
昭和の三代に亘って外務大臣を務め、その外相在職期間通算7年5か月は、
現在に於いても最長記録である。

こうして、横川省三は内田康哉駐清公使の私設秘書を務め、清国の民情風俗を
視察し、また軍部の要請で「軍事探偵」として、諜報活動に従事した。

日露開戦後11日を経た明治37年(1904年)2月20日、陸軍参謀本部の命令
を受けた駐清公使館付武官の青木宣純大佐(薩摩藩支藩佐土原藩出身)が、
内田康哉駐清公使の協力の下に結成した特別任務班が北京某所に集められた。
軍人11名、民間人35名の計46名で編成された6班の特別任務班であった。
特別任務班の面々は頭髪と爪を白紙に包み、祭壇に捧げ、祖国の一大国難に
当たって、一死奉公を誓ったという。
伊藤柳太郎大尉(長州周防出身)率いる第一班に属する横川省三は39歳で
最年長者であった。

ロシア軍の兵員輸送と軍事物資輸送を妨害し、南下を遅らせる為、その補給路
であるシベリア鉄道の支線、東清鉄道を寸断するという戦略的に重大な意味の
ある作戦計画であった。
ロシア軍兵站の大動脈である大興安嶺山脈の北端を東西に横切る東清鉄道の
大興安嶺トンネルや、エニセイ河鉄橋などの爆破が計画された。


東新鉄道1


第一班はラマ僧や商人に変装し、大興安嶺トンネル爆破を目指して出撃し、
2月29日には喀喇沁王府(カラチン)に到着。
3月3日、大雪の為に大興安嶺トンネル爆破は困難と判断され、作戦計画を
変更し、第一班は二手に分かれ、伊藤柳太郎大尉率いる伊藤班はハイラルへ、
横川省三率いる横川班はチチハルに向かうこととなった。

北京を発って50余日を経た4月10日、約1200kmに及ぶ荒野の雪中行軍で、
チチハル南方6km程、東清鉄道のフラルギー駅付近の鉄橋が見渡せる地点に
到着し、天幕を張った。
翌4月11日未明、前夜からの吹雪の中、横川班は、松崎保一(延岡出身29歳)、
田村一三(宮崎出身23歳)、脇光三(滋賀出身22歳)、中山直熊(熊本出身
17歳)の4名を偵察に出し、沖禎介(長崎出身30歳)と横川省三は天幕に
残っていた。

チチハル駅付近に駐屯していたロシア軍メジャーク大佐指揮のコサック騎兵
第26中隊の6騎が鉄道沿線巡邏中に、その横川班の見慣れぬ天幕を見付け、
臨検の為に駆け付けて来た。
天幕の中を覗かれたが、横川省三と沖禎介の両名はラマ僧の扮装をしていた
ことから、一旦は何事もなく立ち去り掛けたものの、一人の兵士が瀬戸引きの
湯呑みの存在に不審を抱き、「彼らの持っている湯呑みは怪しい。ラマ僧の
持ち物ではない」と軍曹に進言、両名は不審を抱かれ、ハルピンの駐屯地に
連行されることになった。

偵察行から天幕に帰還した4名は、同行していた支那人のボーイから両名が
ロシア軍に連行されたことを聞き、急遽近くの蒙古人の墓地に隠しておいた
武器や爆薬を回収すべく、移動を開始した矢先、ロシア軍の一隊が向かって
来るのを察知、止むを得ず、西方に向かってその場を離脱した。
(この4名は後日、戦死を遂げた)


日露戦争7


4月12日、ロシア軍は天幕周辺を捜索し、横川班の武器、爆薬を発見、回収。
ここで、横川省三、沖禎介両名の身分は露見し、4月13日、二人の身柄は
ロシア軍司令部のあるハルピンに送致された。

4月16日、二人の軍法会議が開廷。
この軍法会議では、各国の観戦武官と、2名の外国新聞社記者の傍聴が許されて
いたという。

メジャーク大佐
「姓名は?」
横川「私は横川省三、そちらにいるのが沖禎介、両名とも日本人である」

メジャーク大佐
「階級及び、位階勲等は?」
横川「我ら両名は軍人ではない。無位無冠の一日本臣民である」

メジャーク大佐
「軍人ではない者が、鉄道爆破のような行為を為すとは思われないが?」
横川「否、日本人たる者は一人として国を思わない者はない。
軍籍にあると否とに拘わらず、我ら畏れ多くも天皇陛下のご命令と
あらば、いかなる任務であろうとも生命を投げ出して忠を尽くすのが
日本臣民である。」

メジャーク大佐
「汝らは如何なる目的を持ってこの地に入ったのか?」
横川「目的はロシア軍隊の大輸送を妨害せんが為、シベリア鉄道の鉄橋及び、  
線路、電信を爆破するにあった」

メジャーク大佐
「この作戦の指揮官の姓名は?」
横川「命に懸けて、言えぬ」

メジャーク大佐
「それを告白するならば、刑を半減してやるが、もう一度問う、
この作戦の指揮官の姓名は?」
横川「我らは日本人である。ここに武運拙く捕えられたからには、
元より死は覚悟の上である。
日本人にとって、死生は論ずるところではない。
天皇陛下の御為、御国の為なら、女子供に至るまで生命を惜しむ者など
唯の一人もいない。
我らは如何なる極刑をも喜んで受ける。
しかしながら、日本軍の機密に関することは断じて言わぬ」

二人は軍人ではないことから、捕虜としての待遇は受けられず、スパイ(間諜)
として絞首刑に処する判決が下った。
この判決に対し、横川省三は異議を申し立てた。
横川「異議有り」
メジャーク大佐
「告白する気になったか?」
横川「犯罪者として、絞首刑にされるのは納得いかない。
軍人に対する礼を以って、我らを銃殺にして頂きたい」

メジャーク大佐は休廷を宣し、別室で協議の後に開廷し、判決が改められた。
メジャーク大佐
「横川、沖両名は銃殺刑に処す。尚、本議は横川、沖の勇敢なる行為と
戦時国際法の精神に鑑み、死一等の減刑を請願し、捕虜として拘置せられん
ことを決議す」
驚くべきことに、軍法会議は被告両名に銃殺刑を申し渡したものの、
判決の最終決定者であるロシア軍総司令官(クロパトキン陸軍大将)に、
両名の死一等の減刑を請願し、捕虜として拘置せられんことを願うとの
付帯意見が添えられたのである。


日露戦争11


横川省三が絞首刑の判決に異議を申し立てた時、傍聴人の多くは彼が命乞いを
するものと予想していただけに、軍人としての名誉ある銃殺刑を望むという、
彼の凛然たる態度に、法廷内の誰しもが驚きと感動を禁じ得なかったという。
この軍法会議を傍聴していたドイツの観戦武官(フランスの武官との説も有り)
はロシア軍士官に「日本軍にこのような人物が多数あるとすれば、如何に
ロシア軍が優勢であっても、苦戦するのは必至であろう」と述べたという。

メジャーク大佐はクロパトキン将軍に急使を奔らせ、二人の減刑を嘆願したが、
クロパトキン将軍は、「自分は日本軍人の特性をよく知っている。日本の軍人は
一度死を決して大任に当った以上、事敗れて捕虜になるような場合、生還を
欲するような国民ではない。今回の両勇にしても、たとえ軍法会議で赦して
やっても、彼らは日本軍人の名誉のため、恐らく腹を切って自決するであろう。
すなわち、彼らの亡骸を山野に曝すより、彼ら勇士に敬意を払う為に、
直ちに銃殺刑に処せ」と述べ、減刑の請願を許可しなかったという。


死刑執行は4月21日と決まり、その前日、横川省三は二人の娘に遺書を認めた。

拝啓。
父は 天皇陛下の命により露国に来り、4月11日露兵の為に捕へられ、
今彼等の手により銃殺せらる。これ天なり命なり。汝等幸いに身を壮健にし
尚国の為に盡(つく)す所あれ。我死に臨んで別に言ふ所無し。
母上は勿論宜しく汝等より伝ふべし、富彌にも宜しく伝ふる所あれ。
明治37年4月20日      満州哈爾賓(ハルピン)横川省三

横川律子殿
横川勇子殿

此の手紙と共に支那北京の支那銀行手形にて五百両(テール)を送る。

井上敬次郎、山口熊野(ゆや)等の諸君と相談の上、金に換ふるの工夫を為すべし。


此の手紙と共に五百両(テール)を送らんと欲したれども、総て露国の赤十字社に
寄附したり。


横川省三遺書A


死刑執行の日を迎え、横川省三は独房を訪れたメジャーク大佐に愛娘である
横川律子(当時17歳)、横川勇子(当10歳)宛ての遺書を託した。
その遺書に所持金の全額を敵国ロシアの赤十字社に寄付すると書かれていた
ことにメジャーク大佐は驚き、
「遺されるご家族に送られるのが良いのではないか。法に従って、遺族に
送ってやるから、考え直したら、どうか」と念を押したそうであるが、
横川省三は
「貴官がそうお思いになるのもご尤もです。貴官の御厚意は誠に有り難い。
しかし、我らの天皇陛下は、決して我らの遺族をお見捨てになりません。
また、日本の国民は遺族を王侯の待遇を以って遇するので、少しも心配は
要りません。何卒、お納め願います」と応えたという。
メジャーク大佐が更に「それでは何故に、ロシアの赤十字に寄付をするのか」
と問うと、横川省三は 「この戦争に於いて、不幸にして日本軍の砲弾に依って
傷付き、病める貴国軍人に対し、少しでも罪滅ぼしをしようという気持である
から、どうか納めて欲しい」と応えたという。

二人の日本人が処刑を前にして、その所持金の全てを故国に待つ家族に遺す
のではなく、敵国たるロシアの赤十字社に寄付したことは忽ち、ロシア軍将兵、
列強諸国の観戦武官、従軍記者の知るところとなり、その天晴れな行為は
驚嘆と畏敬の念を以って受容された。


横川省三 刑場


横川省三と沖禎介は馬車に乗せられ、ハルピンの郊外の刑場に護送された。
その場は既に、立派な日本人二人の最期の姿を一目見ようと集まった大勢の
ロシア軍将兵、観戦武官、従軍記者で埋まっていたという。

二人が馬車を降りると、監禁中の彼らが可愛がっていた一匹の犬が彼らを
慕って付いて来ていて、足下に駆け寄って来た。
二人は微笑みながら、代わる代わるその頭を撫で、声を掛け、ポケットに
残したパンを与え、死を目前に控えているとは思えない、その余裕綽々たる
二人の態度は、その場に居合わせた人々の涙を誘ったという。

死刑が執行されたのは、4月21日午後2時であった。(6時との説も有り)
刑場には2本の柱が立っていた。
その前に立った二人は、遥か彼方の祖国、皇居を望む東南の空に向かい、
遥拝した。
ロシア兵が近付き、二人を柱に縛り付けようとしたが、武人の端くれとして、
縄目の辱めは受けぬと断固拒絶したことが受け入れられた。
二人は「天皇陛下万歳!大日本帝国万歳!日本軍の大勝利万歳!」と叫んだ。

銃殺刑執行官のシモノフ大尉は12名の射撃手に向け、「射撃用意!」と命じ、
その後、声を落として、「愛を以って、撃て」と指示したという。
二人が苦しまずに死ねるよう、しっかり心臓を狙って撃てという意味であった。
こうして、満州の荒野に轟く12発の銃声と共に、二人の日本男児の命が果てた。
時に横川省三39歳、沖禎介30歳であった。


横川省三 刑場2


日本の国民はこの二人の消息を6月中旬、フランス国パリ発ロイター通信、
及びロシアの新聞2紙の記事に依って知ることになる。
横川省三と沖禎介の決死の行動、敵軍さえもが畏怖の念を抱いた凛然たる態度、
そして、悲劇的な最期を知り、開戦間も無い大戦争の先行きに不安を抱いて
いた多くの日本人の士気を大いに鼓舞したと言われる。

また、横川班以外の特別任務班は度々、シベリア鉄道の爆破に成功していた
ことから、横川省三や沖禎介のような、死をも恐れぬ勇敢な日本人たちが
満洲各地に潜入し、シベリア鉄道の破壊活動に邁進しているということは、
ロシア軍は大きな脅威と捉えた。
ロシア軍総司令部は急遽、シベリア鉄道警備にコサック騎兵50数個中隊を配置
したことで、ロシア軍の多大な戦力ダウンに繋がり、この戦力分散が後に奉天
大会戦の敗北を招いたとクロパトキン将軍は回顧したという。
横川省三らの特別任務班のシベリア鉄道破壊活動は戦略的に大きな意味を持ち、
日露戦争の勝利に影ながらも、多大な貢献をしたのである。

日露戦争の際、宮中に於いては、常宮(つねのみや)、周宮(かねのみや)
両内親王(明治天皇のお嬢様)が戦死者を祭壇にお祀りになられ、戦死者の
姓名を逐一ご記帳為され、冥福を祈っておられたという。
ある時、横川省三、沖禎介の名をご記帳になられたが、この二人に肩書きが
無いことを訝しく思われ、側近の者に理由を問われ、二人の事績をお聞きに
なったところ、お二方は涙に咽ばれ、お顔を伏せられたが、やがて筆をお執り
になって、二人の名の上に「忠君愛国之士」と記されたという。
※この逸話の主は、常宮、周宮両内親王ではなく、明治天皇との説もある。


横川省三2


横川省三が銃殺刑に処せられ、30年後の昭和9年(1934年)、岩手県盛岡に
住む横川の長女律子(47歳)をシモノフと名乗るロシア人の老人が訪れた。
彼は、横川省三と沖禎介の銃殺刑執行官を務めた、シモノフ大尉(当時)
その人であった。
シモノフ大尉はその後、帝政ロシア軍の陸軍少将にまで累進したが、大正6年
(1917年)のロシア革命後、日本に亡命して来ていた。
白髪の老人となったシモノフは律子と対面し、涙ながらに語ったという。
「私はいつの日か、お父様の立派なご最期の様子を直接お伝えしようと思って
おりました。貴女にお会い出来て、こんなに嬉しいことはない」
「私はあの時、真の日本武人の姿を見たような気がしました」

以上、私が認めた横川省三の事績は、戦前の日本人であれば、小学生でも
知っていたことという。
横川省三や沖禎介が国家の為に挺身し、護国の大義に殉じた決死の行動を、
天皇への忠誠心篤き日本人の理想的な英雄像として、全国に喧伝されたこと
には当然、国家的要請、政治的必要性があったに違いない。
そして、彼らの天皇と国家を想う愛国的な言動や、明治天皇、若しくは常宮、
周宮両内親王が涙ながらに無位無官であった彼らの名の上に「忠君愛国之士」
と記されたことなどのエピソードには誇張や虚偽があったのかも知れない。
しかし、私は横川省三を虚飾の英雄とは思わない。


盛岡2


横川省三は幕末に、南部盛岡藩士の子として生まれた。
南部盛岡藩は幕末の戊辰戦争に於いて、奥羽越列藩同盟の雄藩として、
薩摩藩、長州藩を主力とする明治新政府に朝敵の汚名を着せられ、秋田戦争を
経て、降伏後には主席家老の楢山佐渡(ならやま さど)が処刑されるという
屈辱をも味合わされた。
南部盛岡藩降伏は、横川省三3歳の時であった。
岩手盛岡は江戸時代から澎湃たる文化圏で、今日に至るまで幾多の逸材を輩出
し続けている。
しかし、横川省三の生きた明治期は薩摩、長州出身者が政権を牛耳っていた
藩閥政治の時代であり、薩長閥であれば無能であっても栄達し、旧幕側の朝敵
とされた各藩出身者は不遇を余儀なくされていた時代であっただけに、場所を
得ない有能な人士はさぞや鬱積した思いの中を生きたに違いない。
横川省三のエネルギッシュな東奔西走振りには、地殻を突き破って、マグマが
噴出するかのような、異常なほどの激しさが感じられる。


幕末にアメリカ海軍のペリー艦隊が来航し、開国を迫られて以来、日本人の
国家観というものが徐々に形成されて行ったのであろうと思われる。
それ以前は、「くに」と言えば、武蔵の国であるとか、陸奥の国という地域を
指し、むしろ、もっと狭い範囲の自分の郷里を指していた。
「壬生義士伝」の中で、盛岡藩脱藩の新撰組隊士吉村貫一郎が語るお国自慢が、
「南部盛岡は日の本一の美しき所でござりやんす。西に岩手山、南に早池峰山、
城下を流れる中津川は桜の馬場の直ぐ下で北上川と合わさって、当に絵に
描いたような、絵に描いたような、美しき国でござりやんす」と、南部盛岡の
自慢であった如くである。

幕末ぎりぎりの時代に至って、「大和武士」という言葉が流行ったという。
徳川家の旗本や薩摩藩士、盛岡藩士という範疇ではなく、日本の武士という、
朝廷を中心とした国家の枠組みが意識し出された時代であったに違いない。
それでも、やはり横川省三には明治維新政府に朝敵の烙印を押されてしまった
南部盛岡藩出身の士族という自意識があって、薩摩の芋侍や議論倒れの長州人
どもよりも忠君愛国をより強く激しく体現することを無意識の内にも、
自らに課していたのかも知れない。

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で、アメリカ陸軍の日系人部隊であった
第442連隊戦闘団の兵士たちが、自分たちがアメリカ人であることを、
白人以上に証明しようと、米軍史上最強の部隊とまで称えられるほどに、
多大な犠牲を払いながらも勇猛果敢に戦った構図と似たものが、横川省三の
激しい生き様には感じられる。

横川省三は日露戦争後、勲5等を授けられ、明治40年(1907年)、靖国神社に合祀された。








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2013/07/22 20:23 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

南部煎餅四方山話 …岩手、青森、旧南部領伝承の焼成煎餅

南部煎餅四方山話 

…岩手、青森、旧南部領伝承の焼成煎餅



先日、岩手県花巻にお住まいの知人から南部煎餅を贈って頂いた。
南部煎餅と言っても、その一関の佐々木製菓さんの南部煎餅はクッキー風味で、
一枚一枚包装された高級感漂う逸品であった。
南部煎餅は醤油味の煎餅とは違う優しい仄かな味付けで、その野趣に富んだ
素朴な味わいが大きな魅力である。
南部煎餅は伝統の胡麻やピーナッツ入りが定番であるが、現在ではくるみや
りんご、かぼちゃ、チョコ、納豆、イカ、ホタテ等々とバリエーション豊かで、
甘い味のものはクッキー生地を用いる等、南部煎餅は進化し続けているところが凄い。


南部煎餅1


南部煎餅のルーツは、今から約600年前の南北朝時代に遡るという。
南北朝の動乱期、南朝第3代の長慶天皇(1343年-1394年)は中央から難を
逃れて、陸奥の国に潜幸された折、名久井岳の麓(三戸郡南部町)で一行の食糧が
尽きてしまい、随身の赤松助左衛門なる忠臣が近くの農家からそば粉と胡麻と
塩を手に入れ、鉄甲を鍋代わりにして焼いたものを差し上げたところ、天皇は
その素朴な味わいをことのほかお喜びになられ、大層褒めて下さったという。
不遇の長慶天皇と、その都落ちの天皇にまで仕えた忠臣の織り成す、哀しくも
麗しい人間ドラマの気高さが感じられる、この南部煎餅起源説は実に好い。
因みに、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に20何箇所も点在している。


南部煎餅の裏側


時代は下って、応永18年(1411年)、南部氏が侵略されていた陸奥の国鹿角郡
(秋田県鹿角郡)を奪還する為、秋田征伐を行った時のこと。
秋田軍の堅い防備に苦戦を強いられた南部軍は一時撤退し、黒森山に陣を張った際、
先陣を務めていた八戸の根城南部軍の兵士たちが陣中で、そば粉と胡麻と塩を
混ぜ、雑兵の鉄甲で焼いたものを食べ、保存も利くので野戦食としても携行し、
戦勝することが出来たという。
このことから、南部煎餅は青森県南部、岩手県北部の旧南部氏支配地域に
伝承されて来た訳であるが、青森県の場合、弘前藩初代藩主の津軽為信は元々、
南部氏の家臣であって、南部氏の領土の一部を後の弘前藩として独立した為、
南部氏支配下時代の風習がそのまま残ったことになる。
旧弘前藩の津軽地方では、「津軽煎餅」「八戸煎餅」と呼ばれている。


南部煎餅 型1


天保年間(1830年~1844年)には、南部藩の領民がそば粉に塩を入れ、
練ったものを生焼きにして、主食や間食に食べるようになったという。
そば粉を練ったものは完全に焼き上げると硬くなることから、食べ易いように、
生焼き状態で温かい内に食べたようである。
これを「天保煎餅」と言うが、実際には「てんぽ」と呼ばれたらしい。

記録に依れば、この時代の南部藩は凶作に見舞われることが多く、飢饉の時には、
そば粉や大麦粉にわらびの根っこや乾燥させた山菜の粉などを混ぜて、天保煎餅を
焼き、主食として食べたり、乾燥させて保存し、代用食(救荒食)にしたという。
明治時代になると、そば粉や大麦粉の代わりに小麦粉が使われるようになり、
次第に商品化されるようにもなったらしい。


南部煎餅 型2


南部煎餅の最古参、横綱格は、何と言っても胡麻入りの南部煎餅である。
工場での作り方であるが、小麦粉に水、粗塩と重曹を混ぜ合わせて、よく練り、
生地を作る。
その生地を手の平で転がしながら、細長い棒状に延ばし、それを煎餅1枚分に
切り分ける。
それを麺棒で煎餅の大きさに丸く延ばし、その上にゴマを付けて行く。
南部煎餅用の二枚型という型に嵌めて、生地を焼き、焼き上がったら、
「みみ」と呼ばれる、型からはみ出した部分を切り揃えて、出来上がりである。

南部煎餅の形状の特徴は、この焼いた時に型からはみ出してしまう「みみ」が
縁に付いていることで、ここが薄くて、カリカリしていて、香ばしくて、
美味しいのである。
私はずっと東京で暮らしているが、思い出せば、何故かおやつに南部煎餅を
食べた記憶が鮮明に残っていて、先ずは周囲の「みみ」を少しずつ折って
食べてしまってから、本体に向かうという子供の頃の食べ方は未だに変わらない。
この子供っぽい食べ方こそ、南部煎餅の通の食べ方なのだと自負している。
岩手や青森では、この「みみ」だけを集めて、袋詰めされたものが販売されて
いるとは耳にしているが、残念ながら、お目に掛かったことがない。

南部煎餅は何百年もの間、南部藩の領民の命の糧となった、有り難い食べ物として、
現在でも大切にされているようで、岩手県の内陸部北端に位置する二戸地方では、
結婚式の時には、煎餅の上にお赤飯を握ったものを載せて、ご近所に配ったり、
出産祝いには、焼き麩と煎餅を一緒に届けたり、葬儀には煎餅を竹に挟んで、
お供えする等の風習が残っていると聞く。


歌舞伎座せんべいC


お菓子にも風格というものはあるようで、今年の4月に東京の歌舞伎座が
リニューアルオープンしたが、その新開場記念に歌舞伎座と岩手県アンテナ
ショップ「いわて銀河プラザ」がコラボして、南部煎餅を「歌舞伎座せんべい」
として、歌舞伎座で発売した。
南部煎餅の巖手屋さんが歌舞伎の定式幕の黒、柿色、萌黄色の3色に
合わせて、胡麻、りんご、かぼちゃの種の3種類を開発したという。
こういう場面では、やはり伝統がものを言うのである。


南部煎餅 こわれ


一昨年、盛岡城跡公園の向かいにあるサンビル(岩手県産業会館)の1階の
ショッピングセンターで、南部煎餅の「割れ煎餅」を見付け、購入した。
久慈市の宇部煎餅店さんの「こわれせんべい」であったが、それが東京の地元の
スーパー西友でも販売されているのを見付けて、びっくりするやら、嬉しいやら。
しかも、煎餅の陳列棚では、高い人気を誇る三幸製菓さんの「新潟仕込み」と同様に、
堂々と2列も並んでいる。
定番の胡麻とピーナッツの2種類が入っていて、割れているだけのことで、
これぞ正しく南部煎餅という美味しさなのである。

それにしても、南部煎餅の「こわれ」がこんなに沢山、流通しているのは、
怪しい気がする。
あやしい(* ̄▽ ̄)ニヤリ
もしかしたら、宇部煎餅店さん、販売戦略として、「こわれ」路線を採っている
のではなかろうかと秘かに推察している。
きっと、パートのおばちゃんが毎日、わざと割っているに違いない。
あやしい(*´艸)ウッシッシ
野暮な憶測は脇に置いといて、1袋148円の美味しい「こわれせんべい」を
今日も有り難く購入するのだ。









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2013/07/09 03:32 | 岩手県賛歌COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP