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語られぬ日本人惨殺事件の数々 …南京大虐殺という法螺話の陰に隠れて

 2013-01-19
語られぬ日本人惨殺事件の数々 

…南京大虐殺という法螺話の陰に隠れて



(注)以下の記述には、暴力的、猟奇的で残虐な描写が含まれます。
   特に、女性の方はお読みにならない方が宜しいかと思われます。




近年、中国各地で学生を中心とした反日デモが繰り返されている。
ニュース映像で観る、日系企業の店舗破壊やら、日本車の破壊など、
暴徒化して、暴れ捲くっている中国人の阿呆面は、民意の低さを
如実に表わしているようで、みっともないことこの上ない。

日中関係研究家で、日本に帰化された石平氏の甥御さんが「日本人は
中国人を何千万人も虐殺した」と語ったとの記事を目にしたことがある。
予想していた通り、中国の反日教育のデータとして、日本軍が虐殺したと
される民間人の犠牲者数が一桁、二桁と、爆発的に膨張の一途を辿って
いるかのようだ。

天安門事件400

1989年6月4日、同年4月の政府への抗議者に寛大であった胡耀邦の死を
切っ掛けとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求め、学生を
中心とした一般市民10万人のデモ隊が集結した。
世界中が注目する中、この群集に対し、中国人民解放軍は実弾射撃、戦車で
蹂躙し、広場を掃討、多数の死傷者(当時のソ連共産党政治局が入手した情報
では「3000人の抗議者が殺された」とされている)を出した第二次天安門事件
があった。



党中央が、この第二次天安門事件を契機に最早、世界的に求心力を失った
「共産主義」では、国家統一を維持出来ないことに焦燥感を募らせたのは
間違いない。
別の視点から、中国共産党を権威付ける必要性に迫られ、1980代の日中関係は
良好であったにも拘わらず、中国を侵略し、人民を大屠殺した野蛮で残忍な
日本帝国主義から国を守ったのは、中国共産党であったとのプロパガンダで
人心を収攬すべく、1990年代に至り、本格的に反日教育を開始したのであった。

日中戦争を単に日本が中国領土に侵攻したものと認識している日本人も多い
ようであるが、歴史的事実は決してそうではなかったのである。
1946年までの中国には、「租界」というものがあった。
租界というのは、清国とイギリスで戦われた阿片戦争後の不平等条約に依り、
中国大陸各地の条約港に設けられた、行政自治権や治外法権を持つ外国人
居留地のことで、20世紀の近代中国に於ける列強の半植民地支配の拠点で
あった。
中国に租界を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、
フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、
それぞれの国が自国の居留民保護の為に、軍隊を駐留させていた。

上海400

この外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、
後に中華民国に継承された訳だが、この治外法権を持つ居留地を、
中国の官憲には保護する義務があったにも拘わらず、彼らは軍隊組織、
警察組織としての体を為しておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)
日本人が虐殺された「もう一つの南京事件」や昭和12年(1937年)の
通州事件など、凄惨極まりない日本人惨殺事件を引き起こしていたのだ。



我が国にも嘗て、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。
安政年間(1858年)に、江戸幕府の日米修好通商条約を始めとして、
イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。
この「安政の五カ国条約」に依り、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、
兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。

開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地など
にも在り、外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、或いは
住宅倉庫商館を建てることが認められ、治外法権とされていた。
我が国の場合は条約改正の外交努力に依り、1899年には総べて回収した
訳だが…。


日中全面戦争への道程として、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、
首都南京攻略という経緯は、中国を侵略するという目的ではなくて、
発端は飽くまでも、日本人居留民保護の為に止むを得ず、我が国政府が
軍隊を増派したということなのだ。

譬えて言うならば、幕末期に居留地を守るべき幕府の軍隊が、治外法権を持つ
横浜の居留地に侵入し、小規模のイギリス軍を撃破、略奪の上、外国人に陵辱
を加え、虐殺したとする。
更に、居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続く。
当然、イギリス本国政府は自国民保護の為に、艦隊を派遣し、陸兵も増派する。
増強されたイギリス軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。
そこで、イギリス軍は禍根を断つ為に、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸
から駆逐したとしよう。

要するに、日中の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、
当にこういうことであった訳なのである。
この譬え話の江戸が、実際の日中戦争に於いては、南京であった訳なのである。



ところで、私が何よりも問題視しているのは、反日教育の主題が、日本軍は
鬼畜の如き、残忍な殺人集団であったとされているところである。
その辺りについて、少々反論させて頂くとする。

昭和12年(1937年)12月に日本軍が陥落させた南京で大虐殺が行われたと
いう「南京事件」は日中両国で語られることはあっても、昭和2年(1927年)
3月に、蒋介石率いる中国国民党北伐軍が南京に攻め込んだ時に、日本人が
虐殺された「もう一つの南京事件」も「済南事件」も語られることは皆無に等しい。

また、大正9年(1920年)には、日華共同軍事協定を結んでいたにも拘わらず、
尼港(アムール川河口のニコラエフスク)で発生した、赤軍パルチザンに依る
大規模な住民虐殺事件の際に、停泊中の中国艦隊4隻は日本軍の兵舎、領事館
を砲撃、更に、1000人の中国人と500人の朝鮮人に依って、尼港在住の日本人
約800人が陵辱の上、虐殺された「尼港事件」も殆ど世に知られてはいない。

通州記事

昭和12年(1937年)7月29日の「通州事件」に至っては「極東国際軍事裁判
(東京裁判)」(昭和21年《1946年》5月〜昭和23年《1948年》11月)で、
裁判長ウェッブは所謂「南京事件」なるものの中国側の公式資料は証拠として、
採用したにも拘わらず、日本国の弁護側が通州事件に関する外務省の公式声明
を証拠として提出したが、ウェッブに却下されている。
東京裁判に於いて、中国の残虐な犯罪が明らかになることは、正義を装う
連合国側には不利益であったからという訳である。


しかし、その際に、通州事件の虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は
受理され、記録は残っている。

盧溝橋事件発生から3週間後の昭和12年(1937年)7月29日、
北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)
には「冀東(きとう)防共自治政府」が置かれていたが、その中国保安隊
約3000人に依って、日本軍部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民
約420名が襲撃され、約260名が虐殺されたのが、世に言う
「通州(つうしゅう)事件」である。




●天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、事件の翌日30日
 通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人の供述。

「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、
裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を
銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体は
殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、
言語に絶したものだった。」


●特に悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について
 通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述。

「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに
新聞紙が掛けてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で
剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で
突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物で抉られたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと
示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて
死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或いは打つ伏し或いは上向いて
死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉を刳り貫かれ、上半身は蜂の巣
のようだった。
女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡
を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体が
あった。
その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。
子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置して
あったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」


●支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、
 連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人の供述。

「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が
横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と
連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、
片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの
埃箱の中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。
婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、
全く見るに忍びなかった。
旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、
陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、
腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き
通し、一家6人数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。
池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」


●事件現場に立ち会った佐々木到一氏の手記。
「……邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が
惨死体となってあらわれたのである。
予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、
酸鼻の極みだった。
手足を縛り、手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加え、或いは
滅多切りと為し、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることが判ったような始末である」


●救援に駆け付けた第二連隊が見た惨状

浜田巡査宅では長女が手榴弾で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、夫人は
凌辱された後、女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。
付近の日本食堂では男の子が壁に打ち付けられて頭蓋骨陥没の即死、
5人の女店員は射殺されていた。
食堂・旭軒の女店員八人も強姦の後、裸体にされ、陰部には銃剣が
差し込まれていた。
他の場所には女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉られ、
或いは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま
死体を放置してあった。
或る店では女店員全員が強姦され、陰部に箸が突っ込まれていたり、
口の中に砂を入れられたりして殺されていた。
中には死体から内臓がはみ出し、蝿が集った現場もあった。
通州の高級割烹旅館だった「近水楼」では女中4人が射殺後に凌辱され、
天井裏に隠れていた宿泊客11人は北門付近まで数珠繋ぎにされて、
連行されたあと虐殺された。ことき同盟通信の安東利男記者が城外に
転がり落ちて一命を取りとめ、北京まで這云の体で逃げた。
こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と
襲撃し、財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮し、凌辱を重ねた。
逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、引き摺られ、
二ヶ所に集められた上で射殺された。
日本軍守備隊に運良く逃げ込むことが出来た120人だけが助かった。


この様な「頭部切り落とし」「眼球抉り取り」「胸腹部断ち割り」
「内臓引き出し」「陰部突き刺し」「陰部に異物挿入」「屍姦」などは、
中国兵特有の酷たらしく淫虐で、猟奇的な虐殺方法なのだ。


この様な猟奇的な殺害方法、処刑方法は、誰しも聞き覚えがあろう。
昭和12年(1937年)12月の南京陥落当時も、その後も日本軍が民間人を
何十万人も虐殺したなどという証言も報道も為されなかったにも拘らず、
昭和21年(1946年)から始まった東京裁判に於いて、突如として、ナチス・
ドイツに依るホロコースト、ユダヤ人大虐殺に類似した事例はないものかと、
針小棒大に作り上げられた、所謂「南京大虐殺」に於ける被害者の殺され方
そのものではないか。

融和 日本軍

南京事件に於ける虐殺現場の証拠写真とやらも、南京とは無関係であったり、
加害者が日本軍でないことが判明している写真なども増えている昨今である。
はっきり言うが、あの淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、中国人特有の
人の殺し方なのである。
中国人お得意の惨殺パターンなのである。

中国の官憲こそが、20世紀半ばの動乱の時代、内戦で数千万人もの同胞を
殺したのだということは判明している。
自国民の犯した罪を、日本人に負わせるな!と言いたいものである。
序でに同じことを、歴史に疎い阿呆なのか、血筋は第三国で国籍だけが日本国
ということなのかは知らないが、反日日本人どもにも言いたいところである。



歴史や風土の異なる民族は、それぞれに大きく異なったメンタリティを持つ。
人の殺し方一つにも、その民族性が表われるのだ。
日本人の一般的なメンタリティからすれば、武家社会での「生殺しはいかん」
(生殺し:殺す寸前まで痛めつけること)という考え方があり、切腹の際で
すら「介錯」という介添えがあり、腹切りは型通りの作法として、刃を腹に
突き立てた真似事だけでも、即座に首を討って、苦しむことの少ない死をと
手助けをするというのが、日本人の培って来た精神性である。
従がって、日本軍の処刑方法は射殺、或いは槍刀に依る一刀、一突きで
命を奪う傾向があったのだ。



それに引き替え、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えた
上で死に至らすという、残酷極まりない凌遅刑(りょうちけい)が清朝の時代
まで行われていたお国柄の中国である。
しかも、凌遅刑で削ぎ落とした肉は、食ってしまうのだから始末が悪い。
中国人のメンタリティは推して知るべし、である。

そもそも、中国はカニバリズム(人肉嗜食)の伝統を持つような国で、
飢饉などの非常時に緊急避難的に行われたという記録は世界中にあるが、
彼らの場合はそうではない。 中国人は好き好んで食ったのである。
文化大革命時代の1966年から1970年の間に、「反革命主義者」という
レッテルを貼られて殺された6万人の知識人や文化人の中にも、死後の
肉を食われた人が居て、白昼堂々と人肉食いが行われたという広西での
報告などがある。
胎児を食べる文化が現存し、胎児を食材として使う料理があり、現在では、
堕胎後の胎児が闇ルートで売買されているという。
拝金主義者の中国人が、金になる胎児を手厚く葬るはずもない。

日本人と中国人では、死生観が大きく異なるのだ。
日本人は古来、死を以って、その人の罪は清算されるものと考えるが、
儒教という処世術は持つものの、形而上学を持たない中国人は死者をも
鞭打つように、御魂への畏敬の念に欠けるのだ。


14億5千万人の中国人が如何様に法螺を吹き捲ろうが、
虐殺された人々の御魂は、自分達が誰に殺されたのか、
その真実をご存知なのだと思うより他に、救いは無い。

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南京大虐殺の虚構 …国賊・鳩山由紀夫氏の世迷い言

 2013-01-19
南京大虐殺の虚構 

          …国賊・鳩山由紀夫氏の世迷い言



1月17日、鳩山由紀夫氏は、日中戦争で旧日本軍に依る南京攻略時に起きた
とされる「南京大虐殺事件」の資料を展示する、中国江蘇省南京市内に在る
「南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京虐殺記念館)」を訪問した際、記者団に
「多くの中国の民間人を日本兵が殺したことは事実で、お詫びしたい」と述べ、
謝罪の意を示したという。
また、「多くの南京の人々を苦しめた事実は、素直に受け入れなければならない。
大虐殺は無かったと言う方は此処に来られてから、話をされたら良い」とも
述べたという。
※中国人や台湾人は「大虐殺」とは言わず、「大屠殺」と言う。

南京の鳩山由紀夫

鳩山氏が「此処」と言った、南京市の「南京大屠殺遇難同胞紀念館」であるが、
その記念館の建設を執拗に中国共産党に持ち掛けたのは、 実は日本人である。 
建造物の設計に至るまで、日本人の遣ったことである。
日本社会党(現社民党)で、委員長の経験もある田辺誠氏が犯人であり、
その建設資金として、労働組合の全国的中央組織であった「総評(日本労働
組合総評議会)」が3000万円を中国共産党に提供したという。
日本人の敵は獅子身中の虫、日本人の中に居ることは、今も昔も変わらない。
しかも、建設費用は870万円で事足りて、その余剰金は中国共産党幹部連中で
山分けしたという、実に薄汚く、ふざけた話の落ちまで付いている。

鳩山由紀夫 南京

鳩山由紀夫氏の実母は父鳩山威一郎氏の妾であった朝鮮人女性で、威一郎氏が
石橋安子氏との結婚前に生まれた彼を長男として認知、入籍したとのこと。
幸夫人が朝鮮系日本人で、その父親は朝鮮北部出身の貿易商で、戦後は日本に
渡り、北海道室蘭で貿易商を営みながら、朝鮮総連支部の創立に尽力した人物
であることは広く知られていることである。

因みに、民主党歴代の首相であった鳩山由紀夫氏と菅直人氏、野田佳彦氏の
3人は国会の議場で水を飲む際、手で口元を隠す朝鮮式の飲み方をしていたが、
大和系日本人はそういう作法を取らないものだ。
国家権力の中枢で、反日朝鮮系日本人たちが蠢動している現実は、空恐ろしく
もあり、うら悲しくもある。

鳩山の水の飲み方

菅の水の飲み方

野田の水の飲み方

鳩山氏が北京で中国要人と会談した際、「尖閣諸島は日中間の係争地」との
認識を伝えたことに付いて、菅義偉官房長官は
「我が国の立場と明らかに相反する発言で、極めて遺憾」「日本の首相をされた
方の発言として、非常に残念だ」と述べ、小野寺五典防衛相は、「日本にとって、
大きなマイナスだ。中国はこれで係争があると世界に宣伝し、国際世論を
作られてしまう。久しぶりに頭の中に『国賊』という言葉が過ぎった」と述べ、
鳩山氏の言動を批判した。

一方、中国のインターネット上では、「敵の敵は味方」ということで、鳩山氏の
「南京大屠殺遇難同胞紀念館」訪問を歓迎する書き込みが目立っているという。
中国版のツイッター「微博」には、「日本人は歴史を直視しろ」と書き込まれて
いるそうであるが、当にその通りで、その言葉をそっくりそのまま、漢人ども
にお返ししたいものである。
漢人如きに「日本人は歴史を直視しろ」などとほざかれるまでもなく、日本人
はブラックプロパガンダの虚報に惑わされること無く、歴史的事実を理性的に
直視すべきである。

南京陥落 戦車隊

所謂「南京事件」とは、昭和12年(1937年)の冬から、昭和13年(1938年)
の春に掛けて、当時、国民党一党独裁の中華民国の首都南京を攻略、占領した
松井石根大将を司令官とする中支那方面軍に属する朝香宮鳩彦王中将揮下の
上海派遣軍と柳川平助中将の第10軍揮下の日本軍兵士6~7万人が30万人もの
南京市民を虐殺し捲くったことになっている大法螺話のことである。

司令官から一兵卒に至るまで、6週間に亘って、獣のように嗜虐的に 8万人の
婦女子を強姦しては、惨殺し捲くったということになっている。
犯した後は女性の陰部に竹を突き刺しては殺し、妊婦を犯した後は、腹を切り
裂いて、胎児を取り出し、その子まで銃剣で刺し殺したという。
娘を親の前で犯し、妻を夫の前で犯し、その後は銃剣で刺し殺し、軍刀で首を
刎ね、乳房は銃剣で切り取られ、そんな遺体が道の両脇に延々と続いていたと、
自分は現地に居らず、見てもいない白人記者たちが記事を世界に配信した。
司令官は20人の美女でハーレムを作り、それでも満足せず、手当たり次第に
強姦し捲くったとも。

1980代以降の中国では江沢民主導の下に、このブラックプロパガンダの虚構で
ある南京大虐殺を史実として、歴史教育が為されている以上、中国人は永遠に
南京事件が真実であると誤認し続け、日本人を憎み続けることになる。



そもそも、この75年前の「南京事件」なるものは、中国国民党宣伝部と
アメリカ、イギリス、オーストラリアの反日記者たちや、反日工作員であった
プロテスタント宣教師たちが協同して行なったブラックプロパガンダの産物で
あり、特に、ニューヨークタイムズのT・ダーディン、H・アベンド、 シカゴ・
デイリーニューズのA・Tスティールの記事が酷かったとのこと。

それでも当時、蒋介石の国民党が国際連盟に提訴し、却下された時点で、
南京事件なるものの犠牲者は2万人となっていた。
それが8年後の「極東国際軍事裁判(東京裁判)」(昭和21年《1946年》
5月〜昭和23年《1948年》11月)では、何故か10倍の20万人に膨れ上がり、
現地調査されたものの、南京市民からの聞き取り調査で大虐殺の証言は
得られなかった。
虐殺されたという遺体の山も無ければ、遺族も目撃者も居なかったのである。
東京裁判に於けるアメリカ合衆国の意図として、大日本帝国が如何に残虐
極まりない侵略国家であり、原子爆弾を投下されたことが自業自得である
かのような、罪深い国家であったかを世界にアピールする必要があったと
いうことなのである。

昭和46年(1971年)、中国で毛沢東派の紅衛兵が文化大革命を繰り広げていた
時代に、朝日新聞の本多勝一(崔泰英?)記者が突如として、「南京大虐殺」
キャンペーンを始め、「中国の旅」という反日捏造記事を書いたことから、
その真偽が議論されるようになった。
1980年代以降の中国では、犠牲者の数は30万人とされ、現在では40万人とも
50万人とも言われるようになり、更に中国全土では数百万人が日本軍に虐殺
されたと、国民党軍や八路軍に依る自国民大虐殺までがカウントされている。

東京裁~1

この南京大虐殺なるものの日本での報道は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)
を慮ったものであろう、東京裁判の行なわれていた期間中の昭和20~23年に
限定され、その後、昭和46年に朝日新聞社の本多勝一記者が「中国の旅」と
いう記事を書いたことを切っ掛けに、その真偽が議論されるようになったと
いう経緯がある。

当時の読売新聞社や毎日新聞社の編集責任者は、南京攻略戦に同行取材し、
南京での真実を知っている人たちであったという。
それに比して、朝日新聞社の場合は、編集責任者も本多勝一も当時の南京を
知らぬ者たちで、中国国民党のブラックプロパガンダの通りを記事にした。

繰り返すが、東京裁判の審議に伴い、南京市民からの聞き取り調査が行なわれ
た結果、大虐殺があったことの証言などは1件も得られていないのである。
昭和12年の南京攻略戦に、日本軍に従軍していた報道関係者は、朝日新聞社が
約90人、毎日(東京日日、大阪日日)新聞社が約80人、 共同通信社数十人…
計数百人が現地の南京入りしたのであるから、彼らは南京の真実を知っていた
はずなのである。
彼らは当然のことながら、無かったことを有ったとは書かなかった訳である。



実は、この南京事件に付いて、当時から何百回にも及ぶ欧米報道機関を対象に
記者会見を行なっていた国民党の蒋介石でさえも語ってはいない。
共産党の毛沢東も、この南京事件については言及していない。
南京事件なるものがでっち上げであることを充分に承知していたからこそ、
彼らは沈黙していたのである。
南京での大虐殺なるものが事実であったとするならば、抗日戦を戦っていた
のであるから、日本を窮地に追い込むような国際世論向けのアピールも出来た
であろうに。
この南京事件のブラックプロパガンダの背景として、当時の欧米人が抱いて
いた人種差別意識を根底にした、日本蔑視を見逃してはならない。
わが国は白人と肩を並べて、列強と称されるようになった、憎き黄色人種の国
であったのだ。

また、蒋介石と、その妻宋美齢、彼女は聖書を売り捲くって、財閥にまで
伸し上った一族の娘で、プロテスタントであった。
工作員でもあった当時のプロテスタントの宣教師どもが、異教徒である日本人
の排斥に協力する素地は充分にあったのだ。
終戦時には中国全土に3000人ほどの宣教師が居たそうだが、敬虔なる人格者の
イメージとはほど遠い実態の連中であったようだ。
その殆どが終戦後に追放されているという事実がある。

融和 日本軍

昭和7年(1932年)に起きた上海天長節爆弾事件のテロにも関与し、何万人
もの中国人が南京で日本軍に虐殺されたと世界に発信した、プロテスタントの
宣教師フィッチに至っては、東京裁判で自分が実際に見聞したのは、実は殺人
現場1件、強姦現場1件、略奪現場1件だけであると証言している。
これこそが、南京大虐殺というブラックプロパガンダの舞台裏の現実なのだ。

南京事件に於ける虐殺現場の証拠写真とやらも、南京とは無関係であったり、
加害者が日本軍でないことが判明している写真も多い。
日本軍将兵の軍服が違っていたり、刑場に引かれて行く民間人とされている
にも拘らず、皆が笑みを浮かべていたりと。
張学良軍が斬首した満州匪賊の首を曝した場面でさえも日本軍に依る南京大虐殺の
証拠写真として、朝日新聞がデマ記事を掲載したり、様々に使われている現実がある。

満州匪賊の首

何れにせよ、私が少年時代に初めて見た婦女子の惨殺現場写真は余りにも酷い。
誰かが残虐非道な行為を行なったという事実があることは許しがたく、憤りを
禁じ得ない。
はっきり言うが、あの淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、中国人の人の殺し方
なのである。
中国人お得意の惨殺パターンなのである。

歴史や風土の異なる民族は、それぞれに大きく異なったメンタリティを持つ。
人の殺し方一つにも、その民族性が表われるのだ。
日本人の一般的なメンタリティからすれば、武家社会での「生殺しはいかん」
(生殺し:殺す寸前まで痛めつけること)という考え方があり、切腹の際で
すら「介錯」という介添えがあり、腹切りは型通りの作法として、刃を腹に
突き立てた真似事だけでも、即座に首を討って、苦しむことの少ない死をと
手助けをするというのが、日本人の培って来た精神性である。
従がって、日本軍の処刑方法は射殺、或いは槍刀に依る一刀、一突きで
命を奪う傾向があったのだ。

それに引き替え、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を
与えた上で死に至らすという、残酷極まりない凌遅刑(りょうちけい)が
清朝の時代まで行われていたお国柄の中国である。
しかも、凌遅刑で削ぎ落とした肉は、食ってしまうのだから始末が悪い。
その民族のメンタリティは推して知るべし、である。

中国の官憲こそが、20世紀半ばの動乱の時代、内戦で数千万人もの同胞を
殺したのだということは判明している。
自国民の犯した罪を、日本人に負わせるな!と言いたいものである。
漢人どもが如何様に法螺を吹き捲ろうが、虐殺された人々の御魂は自分たちが
何者に殺されたのか、その真実をご存知なのだと思う他は救いが無かろう。







但し、日本軍が捕虜は皆殺しに近い状態で処刑したであろうことは想像出来る。
日本軍が南京を攻略した段階では、国民党の幹部や軍の上層部は、兵士を置き
去りにして、既に逃走していたという。
国民党軍には「督戦隊」という部隊があって、退却や逃走する中国兵士は
撃ち殺してしまったり、トーチカの守備兵に至っては、足枷でトーチカに
繋がれて、更にはトーチカの出入り口を鎖で塞ぎ、逃げられないようにする
ような、どちらが敵だか判らないほどに、同胞を残虐非道に扱ったという、
モラルの著しく低い軍隊組織であったのだ。
そもそも、置き去りにされた中国軍の兵士たちは南京周辺で3回に亘り、
少年に至るまで強制的に徴兵された人々が殆どで、日本軍の進攻を恐れて、
軍服を脱ぎ捨て、一般市民の中に逃げ込んだケースが多かったそうだ。

また、国民党軍は「便衣隊」と言って、国際法上、禁止されていたゲリラ戦を
行なっていたので、それら平服の兵士たちを民間人の中から探索し、日本軍が
処刑した場合には、民間人を殺したという様に見えたのは当然であったろう。
その処刑数が2万人近かったというのであれば、それはそれで納得出来る。



私が調べた限りに於いて、後に沖縄戦での陸軍参謀長を務めたT参謀が
この南京攻略戦での捕虜の皆殺しを下令した形跡があることからすれば、
戦闘員の殺戮が行なわれたことは事実であろうと思われる。

但し、国際法上、軍服を着していない戦闘員は捕虜として扱われることはなく、
ジュネーブ条約の保護下にはない。
そうであっても、残虐非道であることには変わりはないのだが、当時の日本軍
将兵としては、上海事変に端を発する激烈な戦闘の延長線上での便衣兵の処刑
として、理解していたものと思われる。



それにしても、素朴な疑問として、「南京大虐殺事件」を積極的に肯定する
日本人にも、中国人にも聞いてみたいが、その30万人とも50万人とも
カウントされる犠牲者の遺体は一体、何処にあるのだろうか?
全部、長江の流れに放り投げたとでも言うのだろうか?

プロパガンダ通りであるならば、広島で原爆が炸裂したあの日の犠牲者の
2倍以上もの犠牲者数のはずである。
一人の体重を50㎏としても、30万人なら15000tにもなる遺体の山を一体、
どのようにしたら、無と化すことが出来たと言うのだろうか?
焼却した形跡も無く、埋葬された痕跡も無いではないか。



しかも、日本軍が南京を陥落させた後に、南京城内の人口が5万人増えていた
という記録があるが、30万人を殺戮したとするならば、そんな地獄のような南京に
30万人+5万人で、 35万人もの中国人がわざわざ流入して来たとでも言うので
あろうか?
むしろ、暴虐を尽くした中国国民党軍が南京から敗退して、南京市民が安心
したというのがことの真相であったろうと思われる。

そもそも、南京大虐殺というブラックプロパガンダの論理は破綻しているのだ。
何故にか、自虐史観を振り回し、歴史を歪めてまで、自分の祖国、同胞に泥を
塗りたがる、旧社会党のような輩が存在するが、イデオロギー抜きで、もっと
真摯に史実と向かい合った方が良い。








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「ちゃんころ」の語源 …蔑む心を言葉に乗せて

 2012-09-25
「ちゃんころ」の語源 

               …蔑む心を言葉に乗せて



私は、独善的でご都合主義で、何事に於いても他者に責任転嫁する、
自己中心的な中国人(漢民族)が大嫌いである。
また、戦後に中華民国の台湾に移住した大陸人である外省人(在台湾
中国人)も嫌いである。
中華民国の国民党は、中国共産党軍との内戦に敗れて台湾に逃げ込んで来た
蒋介石国民党軍であり、あくまでも大陸人の「中国」国民党なのである。

但し、昭和20年(1945年)まで日本の統治下にあった台湾で暮らし、
嘗て日本人であった本省人(本島人)の中には、今でも「日本精神
(リップンチェンシン)」を失っていない人達、現代日本人よりも
「日本人」らしい人達が居らっしゃり、敬愛している。

台湾独立運動の闘士であり、教育者、評論家でもある金美齢女史は、
現代日本人よりも遥かに「日本人」らしく、今までに幾度も終戦記念日に
靖国神社で講演を為さり、「私は11歳まで日本人でした。私は間違いなく、
終戦の日まで、日本の勝利を心から願う軍国少女でした。日本の兵隊さん、
私達を守ってくれて有難う」と誇らし気に語っておられた愛国者だ。
(金美齢女史は2009年、日本国籍を取得され、日本人に戻られた)
本省人は、大日本帝国の一部としての台湾統治と、新たな支配者として
台湾にやって来た中国人の軽蔑すべき施政との、その文明の差異を肌で
味わった人達なのだ。


国旗に小便450



日本では江戸時代末期まで、書物を通して中国の文化を学び、
想像上の中国人をこの上なく尊敬していた。
ところが幕末以降、日本国内で生身の中国人と直に接するようになり、
その実態に幻想は打ち砕かれ、甚だしく幻滅を感じさせられたという。
また、英国とのアヘン戦争に敗れ、徹底抗戦もせずに西洋列強の
植民地支配に甘んじた清国を軽蔑する心理も働いたに違いない。

日本の場合は、中国のように西洋列強の植民地になることを断固拒否し、
自主独立を保てる強力な国家を建設する為には、旧態依然たる無能な
江戸幕府では無理であろうとの動機から、幕藩体制を革命的に破壊し、
朝廷を中心とした近代国家を作り上げ、軍事力も経済力も整え、
西洋列強に対抗することが、明治維新の目的であった訳である。
その為に幕末の動乱期、勤皇派と佐幕派とに選らず、憂国の至情から
多くの若者達が血を流し、命を賭して戦ったのであり、戊辰戦争という
内戦まで経験せねばならなかった訳であるから。
長州の高杉晋作であったと記憶しているが、彼は清国人と出会った際に、
「何故、戦わないのか?」と筆談を交わしたという。

特に、明治27年(1894年)7月から明治28年(1895年)3月に掛けての
日清戦争を経て、更に中国人を蔑む風潮が高まったようである。


嬉々として略奪450



昭和初期から戦中に掛けて、頻繁に使われるようになった言葉であるというが、
中国人を意味する「ちゃんころ」という蔑称があった。
甚だ下品な響きのある言葉であるが、そもそも軽蔑する中国人に対して
投げ掛ける卑語、俗語であった訳であるから、上品であるはずもない。

この如何にも軽侮の念が込められているように聞こえる「ちゃんころ」の
語源は一体、何であろうかと調べてみると諸説ある。

私が最も有力だと思う説は、台湾語の「清国奴=チェンコッロー」からの
派生ではないかという説である。

また別に、明治時代以降、アジアで唯一近代化した我が国に留学して来た
中国人留学生が自らを清国人「チンクォレン」、中国人「チュンクォレン」と
発音して名乗ったことから、日本人には「ちゃんころ」と聞き取れたのでは
ないかという説もある。

何れにせよ、「ちゃんころ」という言葉は、昭和初期の日本人が中国人
(漢民族)に対して軽侮の念を込めて用いた蔑称であるに違いないが、
それは、「清国奴」「清国人」「中国人」を意味する中国語の発音をそのまま
用いたに過ぎないことになる。


蔑称の作り方にも、民族性が顕著に現われるものである。
例えば、米国人が日本人を軽侮して、「ジャップ」或いは「ニップ」と呼んだが、
それはJapanを略して「Jap」、Nipponを略して「Nip」としたに過ぎない。


小日本鬼子450


それに比べて、中国人の日本人に対する蔑称には、「小日本」(シャオリーペン)
や「日本鬼子」(リーペンクィズ)、「東洋鬼」(トンヤンクィ)というのがある。

日本の「ちゃんころ」が、単に「清国人」「中国人」という原語の発音が
訛って出来上がった言葉に過ぎないのに比べ、「日本鬼子」にせよ、「小日本」
にせよ、「鬼子」だの「小」だのという余計な言葉が付けられている。
日本式であれば、単に「リーペン」辺りに近い発音の言葉で留まるところだ。
執拗なねちっこさを感じさせるネーミング方法であり、また垢抜けしていない。

世界中で「China」と呼ばれ、喜んで自称している癖に、同根の「シナ」を
日本人が口にすると蔑称だと文句を言い腐るが、中国人の方が遥かに軽蔑的な
言葉を創作しているのである。
「ちゃんころ」の語源が「清国奴」である場合でも、「清国」に「奴」を
付けたのは台湾人であって、日本人ではない。


因みに、ロシア人の蔑称として、「露助」(ろすけ)という言葉があるが、
これもロシア語で「ロシアの、ロシア人の、ロシア語」を意味する
ロシア語の形容詞「ルースキー」の発音が訛ったものという説がある。

幕末、アメリカのペリー艦隊は黒船の大砲を撃っ放して、時の政権、
江戸幕府を恫喝したが、ロシア艦隊は幕府の役人を艦内に招いて、
ロシア人女性のヌード写真を幻灯機で見せるという下卑た接待をした。
鎖国している国との最初の交渉で行き成り下ネタ、エロチック作戦とは
随分と日本人をおちょくってくれた話である。
今風に言えば、ロシア人は行き成りAV鑑賞会をやって見せた訳だが、
そんなエピソードがあるだけに、「ロシアの助平」から来ているのかも
知れないと思いもする。


デモ隊450


1945年、日本の敗戦に依って、台湾に大陸から蒋介石率いる中国国民党軍
が進駐し、行政を引き継いだ訳だが、日本の統治下で日本人としての生活を
体験していた台湾人は、彼ら中国人官僚や軍人の質の悪さ、強盗、強姦、
殺人と犯罪が多発する規律の無さ、驚く程の腐敗の凄まじさに失望し、
反感を抱いたという。

そんな状況下の1947年2月28日、二・二八事件または、台湾大虐殺事件
とも呼ばれる本省人(台湾人)と外省人(中国人)との大規模な抗争が
台北市から台湾全土に拡がり、非武装の台湾市民が無差別に発砲されて
殺害されたり、日本の統治下で高等教育を受けた裁判官や医師、教育者、
役人を始めとするエリート層が次々と逮捕、投獄、拷問され、その多くが
処刑されるという大事件が起きた。
2万8千人もの台湾人が中国人に殺害、処刑され、財産も奪われたというが、
実際の犠牲者数は更に多いであろうというのが通説である。


国旗を燃やす450


この事件での一つのエピソードとして、エリート狩りで逮捕された
ある台湾人弁護士は、刑場で銃殺される際、中国人兵士を「ちゃんころ!」
と大声で罵倒したという。

日本の統治下で「日本人」であった台湾人は、新たな支配者として台湾に
やって来た中国人の実態を軽蔑し、中国人に対する優越感を抱いて、彼らを
「ちゃんころ」と蔑んだのだそうである。

因みに、信じ難いことだが、この事件の際に発令された戒厳令は、
実に40年後の1987年まで継続し、中国国民党に依る恐怖政治が敷かれ、
多くの台湾人が投獄、処刑され続けたという。
中国人とは所詮、いつでも何処でも、そういう醜悪な生き物なのである。
台湾社会は、親日派の多い本省人(台湾人)と親中派の外省人(中国人)
とで成り立っていることを、日本人は充分に認識しておく必要がある。


警官隊黙認450




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尖閣諸島防衛戦 …日本国民は同胞の戦死に耐えられるのか?

 2012-07-17
尖閣諸島防衛戦 

…日本国民は同胞の戦死に耐えられるのか?



東京都が購入を計画している沖縄県・尖閣諸島への自衛隊配備が議論に
上っている。
東京都の石原慎太郎知事は13日の記者会見で、尖閣諸島に自衛隊が常駐す
べきであるとの考えを示し、「自衛隊が行けば良い。日本人が日本の領土に
何らかの作業で常駐しているという姿勢を作ることは必要だ」と述べた。

日本政府は、尖閣諸島は日本固有の領土であり、「領土問題」は存在しない
とする立場で、尖閣諸島の国有化に付いて、外務省は「日本国内の土地を巡る
所有権移転の話であり、外交問題ではない」としていながらも、尖閣諸島への
自衛隊配備に付いて、防衛省は「自衛隊を出せば、中国も軍を出して来る。
それだけで日本は紛争当事国になってしまう」と国境紛争勃発を恐れていて、
海上保安庁の巡視船に依る監視の強化と、アメリカ軍との離島防衛の共同訓練
実施で中国を牽制し続けるに留める方針であるという。
自国の領土に自衛隊を配備することさえ、日本政府が中国に遠慮せねばなら
ない国際関係は正常ではないが、これが日本国の現実なのである。


尖閣海図450


そもそも、日本国憲法前文にあるように、日本国の国家防衛は中国もロシアも
韓国、北朝鮮も、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に
除去しようと努めて」いて、「自国のことのみに専念して他国を無視」しない、
善良な国家群であることを大前提として、その「平和を愛する諸国民の公正と
信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」した上で、「日本国
民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争
と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(第2章第9条)のである
から、北方四島、竹島、そして、やがては尖閣諸島と、無法者の盗人国家に
日本固有の領土を掠め取られたとしても、「普通の」国家のようには軍事的に
領土奪還、領土防衛出来るはずもないのである。


今年5月、陸海空自衛隊三隊が昨年11月の統合演習で、尖閣諸島が中国軍に
占領されたことを想定し、奪還作戦を策定していたと報道されたが、純軍事的
には実に奇妙な話なのである。
尖閣諸島は日本が実効支配しているのであるから、本来、防衛戦闘の第一段階
としては、中国軍の領海、領空侵犯、島嶼への上陸を阻止する迎撃作戦を策定
すべきなのであるが、武力紛争が存在しないことを前提としている現行憲法を
頂点とする法体系の制約下に於いては、一旦は中国軍の領土領海内への侵攻を
許し、武力攻撃を受けない限り、自衛隊は戦闘行動を開始出来ないのである。


尖閣奪還作戦記事450


防衛省が想定している中国軍の上陸作戦は、太平洋戦争に於けるアメリカ軍の
様な正攻法の島嶼上陸ではなく、先ず中国軍は漁民を装った海上民兵を尖閣
諸島に不法上陸させた上で、中国海軍が尖閣諸島周辺海域に艦隊を派遣し、
水陸両用部隊及び空挺部隊を島嶼への上陸に展開するであろうと想定している。
中国空軍は制空の為に、戦闘機部隊を九州周辺の日本領空にも波状的に侵攻
させるであろうとしている。
中国軍の尖閣諸島占領の初動作戦が正規の戦闘部隊に依るものではなく、
民兵の上陸であろうと予想されるのは、この場合に日本の初動対応を担うのは
海上保安庁であり、殆ど戦力を伴なわない海上警備行動に留まるからである。
中国軍は、日本の法体系の間隙を衝いて来ることになる。


中国の民兵上陸後、中国軍の動向から明らかな侵略の国家意思を確認した段階
に至って初めて、自衛隊の反撃が合法的に開始されることになる。
防衛省の策定した奪還作戦では、航空自衛隊は築城基地(福岡)の第8航空団、
新田原基地(宮崎)の第5航空団、那覇基地(沖縄)の南西航空混成団、第83
航空隊の戦闘機が邀撃する。
防空戦闘は陸上自衛隊高射特科(砲兵)部隊と航空自衛隊高射部隊が担う。

海上自衛隊は佐世保基地の第2護衛隊群(第2護衛隊、第6護衛隊)を投入。
佐世保基地には護衛艦が15隻と、横須賀、呉、舞鶴、大湊との五大基地の中で
最も多く配備されていて、日本が保有するイージス艦6隻中3隻、「きりしま」
「ちょうかい」「みょうこう」を擁しているイージス艦のメッカでもある。
更に、最新鋭のあきづき型護衛艦DD(汎用護衛艦)の一番艦「あきづき」や
「はやぶさ」型ミサイル艇2隻が在籍しているなど、水上戦闘艦艇の一大母港
として、充実した戦力を保有している。


尖閣450


占領された島嶼への敵前逆上陸に投入される兵力は、佐世保市の相浦駐屯地に
駐屯する陸上自衛隊の精鋭「西部方面普通科連隊」の約600名が中核となる。
「西部方面普通科連隊」は島嶼防衛を主任務とする「離島対処即動部隊」で、
佐世保基地から海上自衛隊の輸送艦で緊急展開し、敵前で決死の着陸作戦、
上陸作戦を敢行の上、中国軍を島嶼から排除する。

「西部方面普通科連隊」は特別訓練を受けている部隊であり、アメリカ海兵隊
の特殊部隊であるアメリカ海兵隊武装偵察部隊(フォース・リーコン)に匹敵
するほど、優秀な特殊作戦隊としての能力を持つと言われている。
「西部方面普通科連隊」の島嶼部防衛訓練がアメリカ海兵隊の訓練支援の下、
アメリカ本土の海兵隊キャンプで行われているという報道もある。
部隊マークである五島列島のバラモン凧から、バラモン部隊とも呼称される。


米海兵隊とのボート操縦訓練450
     西部方面普通化連隊のアメリカ海兵隊とのボート操縦訓練



中国軍が侵攻する島嶼は、面積と地形からして、3.82 km²の魚釣島(うおつり
しま)か、1.55 km²の久場島(くばしま)、0.40 km²の南小島(みなみこじま)
になるであろうか。
因みに魚釣島の面積は、硫黄島(23.16 km²)のちょうど6分の1に相当する。
硫黄島の島嶼防衛戦で20,933名の日本軍は、アメリカ軍に戦死6,821名、
戦傷21,865名の大損害を与え、20,129名が戦死した。
魚釣島は最高標高が363mで、急峻な崖が東西に横断していることから、
陣地を構築された後の敵前上陸は困難であろうと予想される。
本来であれば、空爆や艦砲射撃、ミサイル攻撃を受けたとしても、自衛隊員の
安全を確保出来るように、魚釣島と久場島を地下要塞化することが望ましい
のであるが、中国軍はその構築に時間的猶予を与えはしないであろう。

中国は尖閣諸島の領有権を主張するどころか、沖縄にまで触手を伸ばしている。
中国国防大学戦略研究所所長の現役軍高官が「沖縄は中国の属国だった」と
発言し、「釣魚島問題に関しては、必ず行動を取ることが必要だ。更に大きな
見地からすれば、今後議論を始めなければならないのは、沖縄の帰属問題だ」
とほざいている昨今であるから、奴らは十中八九、尖閣諸島を盗りに来る。
正規軍の島嶼敵前上陸作戦では、地上軍の上陸以前に、地形が一変するほどの
猛烈な爆撃が行われるのが常道であって、自衛隊が駐屯していれば、皆殺しに
されるのは、火を見るよりも明らかである。
このような状況下で、自衛隊を無防備な尖閣諸島に配備することは、隊員を
死地に送り込むも同然であるから、島嶼は無人のままにしておく方が良い。
中国軍に島嶼を占領されても、「西部方面普通科連隊」などの地上兵力を投入
せずに、海上自衛隊と航空自衛隊の保有する兵器を駆使して、島嶼に上陸した
地上兵力を猛爆撃で殲滅しさえすれば、事は足りるのである。
昭和20年(1945年)の敗戦以降、不法占拠された北方領土や竹島さえも奪還
する為の武力行使をすることなく、一切の軍事衝突を経験していない日本国民
のメンタリティは、国境紛争の殺戮戦に耐えられないであろうと思われる。


硫黄島上陸450
                 アメリカ軍の硫黄島上陸
          

防衛省では尖閣諸島が中国軍に占領された場合の奪還作戦を策定しているが、
有事の際に最高司令官たる内閣総理大臣が作戦行動開始を下令しない限りは
机上の空論であって、自衛隊が自動的に反撃するシステムにはなっていない。
如何に自衛隊が優秀であろうとも、最高司令官が無能では意味が無い。
中国漁船衝突事件に於ける日本政府の惰弱な対応を考えると、尖閣諸島が、
韓国に占領された竹島の二の舞になる可能性が非常に高いであろう。

核武装していない日本は外交上、致命的に不利な立場に置かれ、核兵器保有国
の中国に舐められ切っている上、日本の国会議員や外務官僚には親中国派が多い
ようで、日本国籍は有していても、メンタリティは日本人らしからぬ売国奴が多い
という悲劇的な現実がある。

民主党政府は、中国大使に伊藤忠商事相談役だった丹羽宇一郎氏を財界から起用
したが、丹羽氏は「将来は大中華圏の時代が到来する」「日本は中国の属国として
生きて行けば良い」「それが、日本が幸福且つ安全に生きる道だ」と公言して
憚らないシナ崇拝の売国奴である。
その上、東京都の尖閣諸島購入計画に付いて、丹羽大使が「実行されれば、
日中関係が極めて重大な危機に陥る」と日本の領土である尖閣諸島を日中間の
外交問題と見做す発言をしても解任されないということは、正常に機能している
国家であれば、有り得ない異常事態なのだ。
このような国家としての体を為していない日本政府が、尖閣諸島に中国軍が
侵攻して来たとしても、防衛戦争を戦い抜けるはずがないではないか。
覚悟の無い政府の下では、尖閣諸島に地上配備される自衛隊は捨て駒として、
見殺しにされてしまうことになる。
現状では、尖閣島嶼への自衛隊地上配備など論外である。


魚釣島450
                     魚釣島             


日本政府は、「尖閣諸島は日本固有の領土であり、領土問題は存在しない」と
正論を唱えてはいるものの、対中国外交に於いては断固たる態度を取ることも
無く、その主張は内実の伴なわない空題目と化している。
日本政府が、領空を侵犯する中国軍機は容赦無く撃墜する、領海を侵犯する
中国軍艦船は容赦無く撃沈する、尖閣島嶼に上陸する中国軍部隊は容赦無く
殲滅するとの断固たる態度を取れないのであれば、領土紛争の存在を認め、
国際司法裁判所に尖閣諸島領有問題を付託する方が、昭和27年(1952年)
まで、日本を占領していた連合国軍最高司令官総司令部GHQのお仕着せ憲法
であるマッカーサー憲法を後生大事に崇め奉り続けている日本国には相応しい。


久場島450
                       久場島


 











            
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北京市地図出版社発行地図での尖閣諸島 …明確に日本領と認識

 2012-07-08
北京市地図出版社発行地図での尖閣諸島 

                     …明確に日本領と認識



石原慎太郎知事が推進する東京都の尖閣諸島購入計画に端を発して、
日本政府が尖閣諸島を購入し、国有化する方針を固めたとの報道に、
中国外務省は7月7日、「尖閣諸島は中国固有の領土で、日本側のいかなる
一方的な措置も不法で無効」と反発する談話を発表した。
「中国に属する事実を変えることは出来ない」「断固として主権を守る」と
息巻いているようであるが、歴史的にも国際法上でも、尖閣諸島が日本固有の
領土であることの正当性には疑う余地が無い。

そもそも、中国の文献にも、中国人が尖閣諸島に居住していたことを示す記録
は無く、明国や清国が領有を主張していたことを示す記録も無い。
近代に至るまで、尖閣諸島は何れの国の領有にも属していない、国際法上の
「無主の地」であった訳で、1895年1月14日の閣議決定に依って、正当に
尖閣諸島を日本領に編入した。
当然のことながら、中国は、日本が尖閣諸島を領土として取得した1895年から
1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して異議を申し立てていない。


尖閣諸島写真500


中国が1970年代に至るまで、尖閣諸島を日本領として認識していたことは
明らかで、昭和33年(1958年)や昭和41年(1966年)に北京市地図出版社
から発行された「中国全図」では、尖閣諸島は明確に中国領外に記載され、
昭和35年(1960年)に発行した「世界地図集」では、尖閣諸島は日本領と
表記されている。
これら、中国で発行された地図は、「歴史上、尖閣諸島は中国領に属していな
かった」という歴史的事実の確証となる。
中国人が神田古書街などで盛んに中国の古地図を買い漁り、既に地図が出回ら
なくなっている状態であると言われるが、実に姑息な証拠隠滅工作である。

このことは、平成22年(2010年)9月に、米紙ワシントン・タイムズも指摘
しているところで、同紙が入手した昭和44年(1969年)に中国政府が作成
した地図では、尖閣諸島を「尖閣群島」と表記し、「地図には尖閣諸島が日本の
領土であることを示す境界線が引かれている」ことを根拠に、中国政府が1960
年代まで尖閣諸島は日本の領土であると認めていたことを指摘した。
従がって、中国政府が「釣魚島(尖閣諸島の中国名)は昔から中国固有の領土」
であるとする中国外務省の主張は「矛盾する」と指摘している。

昭和44年(1969年)に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が尖閣諸島周辺
地域に石油天然ガスの海底資源が豊富に埋蔵されていて、その規模はペルシャ湾
クラスである可能性があると報告したのを受け、海洋権益の確保に欲を出し、
昭和46年(1971年)に至って初めて、中国政府は外交部声明で、尖閣諸島の
領有権を公式に主張したのである。


尖閣諸島500
        北京市地図出版社発行「世界地図集」1958年版日本図


1970年代に至るまで、中国が尖閣諸島を自国領と認識していなかったどころか、
明確に日本領であると認識していたという証拠がある。
大正8年(1919年)、魚釣島付近で遭難した中国福建省の漁民31人を、同島の
住民が救助し、本国に送還した救援活動に対し、中華民国の長崎駐在領事から、
大正9年(1920年)に感謝状が贈られたが、そこには尖閣諸島が日本の領土と
して、記述されていた。
そもそも当時の尖閣諸島が中国領であったとするならば、自国民を自国民が
救助したことになり、日本に感謝状を贈る必要など無かったはずではないか。


感謝状500


また、昭和28年(1953年)1.8付の中国共産党機関紙「人民日報」に於ける、
「米国の占領に反対する琉球群島人民の闘争」と題する記事では、「尖閣諸島」
という日本の呼称を使い、尖閣諸島を日本領土として認めていたではないか。


人民日報500
    昭和28年(1953年)1.8付の中国共産党機関紙「人民日報」記事


今年5月の中国新聞社電に依ると、中国国家測量地理情報局は、中国の雑誌
「中国国家地理」に掲載された地図に、尖閣諸島(中国名・釣魚島)が記載
されていかなったとして、雑誌社「中国国家地理」を摘発し、同誌の販売を
差し止め、関係者を罰金刑に処したという。
「無理が通れば、道理引っ込む」ということか。



尖閣500


尖閣2









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