祝詞とお経

 2018-04-21
祝詞とお経



神徒は祝詞(のりと)を奏上し、仏徒はお経を読誦(どくじゅ)する。



祝詞は、「宣り言(のりごと)」「宣り聞かせる言葉」を語源とするようで、
古くは神職がご祭神に対して、その霊力を讃え、祈願するところの成就を願う
言葉を申し上げる「奏上体」の祝詞と、祭祀の場に参集した人々に対して、
神に奏上するその祭祀の意義や目的を宣り聞かせる「宣命体」の祝詞に大別
されたようである。

奈良時代、律令体制が整備された段階で、神に向かって捧げられる言葉は
中国の「祝文」に倣い、総べて「祝詞」と包括されたということであるが、
そもそも、神々の霊力を讃える「タタエゴト」(讃えごと)
願い事の成就を祈る「イハヒゴト」(祝ひごと)
祭儀の前に祓い清める為の「ハラヘコトバ」(祓え言葉)
卜占の結果を文字に表わした「ノリト」(祝詞)
天皇の長寿を讃える「ヨゴト」(寿詞)
葬儀で死者を弔う「シノビゴト」(誄《しのびごと》)と
用途別に呼び名が細分化されていたとのことである。

神道に於いて際立つのは罪や穢れ(けがれ)を清める「禊祓え」
(みそぎはらえ)の思想であろう。
日々の祈りの中でも、祈願を目的としてご神前に奏上する祝詞と祓い清めて
頂く為に唱える「祓詞」(はらえことば)とは一線を画するものである。
祓詞にも、神社や神道教団の流派に依って、その言葉使いや漢字の訓みに
若干の違いはあるものの、本質的な相違ではない。


内宮


「天津祝詞(あまつのりと)」《「禊祓詞」みそぎはらへのことば》

『高天原(たかあまはら)に 神留坐(かむづまりま)す
 神漏岐(かむろぎ) 神漏美(かむろみ)の 詔以(みこともち)て
 皇親神伊邪那岐(すめみおやかむいざなぎ)の 大神(おおかみ)
 筑紫(つくし)の 日向(ひむか)の 橘(たちばな)の 小門(をど)の
 阿波岐原(あわぎがはら)に 禊祓(みそぎはら)へ給(たま)へし時(とき)に
 生坐(あれま)せる 祓戸(はらひど)の 大神等(おおかみたち)
 諸々(もろもろ)の枉事罪穢(まがごとつみけがれ)を 祓(はら)ひ給(たま)へ
 清(きよ)め 給(たま)へと 申(まを)す事(こと)の由(よし)を
 天(あま)つ神(かみ) 国(くに)つ神(かみ) 
 八百万神等共(やほよろづのかみたちとも)に 聞食(きこしめ)せと
 畏(かしこ)み 畏(かしこ)みも 申(まを)す』

この「祓詞」を簡略にしたものが、「略拝詞」(りゃくはいし)である。

『祓へ(はらえ)給へ(たまえ) 清め給へ』
或いは、『祓え給へ 清め給へ 守り給へ 幸栄え(さきはえ)給へ』

自宅などの神棚のご神前で唱える、祈願目的の祝詞には「神棚拝詞」がある。

『此の神床(かむどこ)に坐(ま)す 掛けまくも畏(かしこ)き 
 天照大御神等(あまてらすおおみかみたち)
 産土大神等(うぶすなのおおかみたち)の大前(おおまえ)を
 拝(をろが)み奉(まつ)りて 畏(かしこ)み畏みも 申(もう)さく
 大神等(おおかみたち)の広き厚き御恵(みめぐみ)を
 辱(かたじけな)み奉(まつ)り 高き尊き神教(おしへ)のまにまに 
 直(なお)き正しき真心もちて 誠の道に違(たが)うことなく 
 負(お)ひ持つ業(わざ)に励ましめ給ひ
 家門(いえかど)高く 身健(みすこやか)に 世のため 人のために
 尽くさしめ給へと畏(かしこ)み畏みも 申(まを)す』

このように、神道に於ける祝詞は「やまと言葉」を用い、
ご神前で語り掛けるように奏上する「祈りの言葉」である。
仏経との比較に於いて、私が強調したいのは、神徒はこの大和言葉の
祝詞を唱えて、日本語で祈りを捧げているということである。





「いのる」の「い」は「斎」であり、「のる」は「宣る」であろう。
また、「いのる」は「意乗る」で、「意」を言葉に「乗せて」
神々にお伝えすることであろう。
誠の心から湧き出ずる神聖な言葉を発することに依って、その言葉の霊力、
「言霊」が発揮され、捧げた祈りが現実化して、願いが成就するという
言霊(ことだま)への信仰が「祈り」の根底にある。
つまり、祈りはその内容を言葉にして、口に出すことが肝要なのだと言える。
私は日々、祈りを捧げつつ暮らしているが、神主さんのように朗々と祝詞を
唱えることはないが、自宅でも神社でも、祝詞も祈りの詳細も呟くように、
囁くように口に出して、ご神前で語り掛けている。


一方、仏経は鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーヴァ)(350年-409年)
や玄奘(げんじょう)(602年-664年)などの訳経僧(やっきょうそう)が
原典を求めてインドに渡り、持ち帰ったパーリ語やサンスクリット語の経典を
翻訳したものが我が国に齎された。

彼等が仏教の原典を求めて、インドに入った時代、既に仏教は衰退期にあり、
またヒンドゥー教などの影響を受けて大きく変貌を遂げた後でもあり、更に
仏教経典として収集した経典の中に、内容的には異教の経典も有った形跡がある。

我が国の仏教徒の「読経」は、そのパーリ語やサンスクリット語の仏典を
訳経僧達が漢訳つまり「意訳」したものを、そのまま漢音、呉音を織り交ぜて
「音読み」しているのである。
千数百年の間、我が国の仏教徒が、漢訳された仏典をやまと言葉で読み下して、
読経したことがあるなどとは寡聞にして、私は聞いたことがない。

どの経典を依所として教義を展開したかに依って、宗派が分かれているが、
それぞれ立宗の根拠とする経典を絶対的なものとして大層、有り難がっている
割には、その仏経を和訳して、やまと言葉で読経しようという運動が起こらない
のは至極、不思議なことである。
原典を「意」訳したものを「音」訓みして、その読誦には大変な功徳があると
充分に満足しているのであるから、その「音」自体に意味を見出しているとしか
考えられないのである。 
これでは、仏教とは言えない。

むしろ、ヒンドゥー教に極めて近い。
ヒンドゥー教のタントラ教義を取り入れて、ヒンドゥー化した仏教である。
世界観を表現した曼荼羅に向かい、口に呪文(真言、マントラ)を唱え、
手に印契(いんけい)を結び、心に大日如来を思い浮かべる密教の三蜜に
どこの宗派の行法も大なり小なり類似しているのである。
念仏を唱える浄土宗系にしても、題目を唱える法華宗系にしても、
顕教と自任していながら、自分でも訳の解らないお経を唱え続けて、その功徳
広大無辺と有り難がっているところなど、むしろ呪文に近いものがある。
結局、行法は密教そのものと言えるのである。





例えば、妙法蓮華経如来寿量品第十六(法華経)

自我得仏来(じがとくぶつらい)所経諸劫数(しょきょうしょこっしゅ)
無量百千万(むりょうひゃくせんまん)憶載阿僧祇(おくさいあそぎ)
常説法教化(じょうせつぽうきょうけ)無数億衆生(むしゅおくしゅじょう)
令入於仏道(りょうにゅうおぶつどう)爾来無量劫(にらいむりょうこう)

なんて、訳の解らない音訓みなどしていないで、
「私が仏になってからというもの、数えきれないほどの永い永い歳月が
 経っている。
 ずっと遠い昔より仏として法を説いてきた。
 そして無数億の数え切れないほどの沢山の者を教化して
 仏道に入らしめた。 そうして、その時以来、無量劫である」と、
日本人なのであるから、やまと言葉で読誦すれば良いではないか。

小難しい顔をして、押し殺したような渋い低声で
「爾時世尊」(にーじーせーそん)なんて唸ってないで、
「その時、世尊は」と素直に唱えれば良いではないか。
「如是我聞」(にょーぜーがーもん)なんて音訓みしていないで、
「私はこのように聞いた」と唱えれば良いのである。
やまと言葉にしてしまったら、勤行の格好が付かない、有り難味が
薄れるとでも思っているのだろうか。





しかも、教勢拡大に熱心な教団は世界百数十カ国にも信者を抱えている
とのことで、アメリカ大陸でもユーラシア大陸でもアフリカ大陸でも
白人も黒人も同様にサンスクリット語原典を漢訳したものを日本式に
音訓みして、「にーじーせーそん」などと唱えているというのであるから、
実に妙ちきりんな話なのである。
極め付けはインド人信者の場合で、私には至極、滑稽な図と感じられる。

「祈り」の本義を突き詰めて考えた時、このことは正に日本仏教界の怠慢と
言えるのではなかろうか。



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何故、日本語で祈らないのか?…仏教経典の起原を辿れば…

 2018-04-21
何故、日本語で祈らないのか? 

…仏教経典の起原を辿れば…


仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ逝去(北伝では、紀元前383年)の後、
その弟子達はブッダの教えを、話し言葉に近い簡潔な形に表現し、口伝えに
伝承して行ったと思われる。
暗唱の便宜を意図としたものと思われるが、如何にもインド人らしい韻文の詩
や簡潔な文に纏められた。
古代インド人は、宗教聖典は暗記するもので、文字に書き起こしてはいけない
という考え方をしていたようで、バラモン教では教師がヴェーダ聖典を唱え、
弟子がその後に付いて唱え、ひたすら暗記することが学問であったという。
そういう伝承文化を背景にして、仏教徒はブッダの教えを耳で聞いて、
口伝えに伝承して行ったのである。
そして、或る時期(アショーカ王以前であるから、紀元前268年以前)に
サンスクリット語のプラークリットと呼ばれる俗語(地方口語)である
パーリ語に書き起こされるようになり、それらがパーリ語の仏教経典
「スッタニパータ」や「ダンマパダ」に伝えられているということになる。
しかし、口伝えの伝承の経緯からして、仏典は飽くまでも読まれるものでは
なくて、「吟詠されるべきもの」として在ったのである。





ゴータマ・ブッダが2500年前に語った言語が何語であったのか、断定出来る
だけの明証はないが、古代マガダ語、或いは古代マガダ語の影響の強い俗語
(東部インド語の一種)ではなかったろうかとの説がある。
公用語であったサンスクリット語がバラモンなどの用いる難解な言語である
のに対して、古代マガダ語は庶民が日常的に使う話し言葉であったという。
パーリ語仏典の詩文に古代マガダ語の痕跡が見受けられることが、ブッダが
古代マガダ語を語っていたのではないかとの根拠とされているのだ。
そうであるから、パーリ語に書き換えられる以前は、同様にブッダの教えは
古代マガダ語、或いは古代マガダ語の影響の強い俗語で仏教徒に口唱されて
いたものと推察される。
古代マガダ語に依る伝承が何故、パーリ語に書き換えられたのかに付いては、
仏教を広めるに当たり、土着の言語である古マガダ語よりも広範に語られて
いたパーリ語の方が都合良いと判断されたものであろうと思われる。
当時の公用語として普及していたサンスクリット語は、学術用語、宗教用語に
適していたようで、パーリ語はその俗語であったという事情に依る。


こうして、パーリ語で書かれた原始仏典の中で最も有名な仏典はおそらく
「ダンマパダ」(Dhammapada)であろうと思われる。
日本語では「真理のことば」と訳されていることが多く、
中村元博士訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」(岩波文庫)や、
初代の日本仏教会事務総長を務められた友松圓諦(ともまつ えんたい)師訳
「法句経(ほっくきょう)」(講談社学術文庫)が有名である。

南アジア諸国の仏教徒は現代でも「自国語」で、この生活の指針となるような
人間の真理を端的に述べている「ダンマパダ」の文章を愛唱している訳である
が、当然のことながら、唱える人もそれを聞いた人も、聞いただけでその意味
を理解しているのである。
そもそもそのことに、ゴータマ・ブッダが庶民の日常的に使う話し言葉で
あった古代マガダ語で教えを説き、仏教徒が古代マガダ語で口伝えの伝承をし、
原始仏典がサンスクリット語の俗語であるパーリ語で書かれた意義があった
のである。


釈迦像400


しかし、思想、宗教は発展して行くもので、当初は韻文や簡潔な詩文で纏められた
ブッダの教えも、やがて散文で説明されるようになり、「経」だけではなく、
「律」と「論」の三蔵が成立し、サンスクリット語に訳され、紀元前後には
大乗経典が成立し、やがてシナに伝播し、シナでは創作、編纂を交えた漢訳が
為され、それらの大乗仏典が煌びやかな仏像を伴なって、ブッダの教えとは
似ても似つかぬ宗教が、これぞ仏教なり!として、日本に伝来したのである。
我が国は仏教を、先進国の神「蕃神(となりのくにのかみ)」として受け入れた。
その段階で既に、仏典を読誦すること、仏典を書写すること、仏典の首題を
口にすること、仏典に触れることにさえも「ご利益」があると考えるように
なっていたのである。


日本の仏教徒は仏典の読誦「読経」を、そのパーリ語やサンスクリット語の
仏典を訳経僧達が漢訳つまり「意訳」したものを、そのまま漢音、呉音を
織り交ぜて「音訓み」しているのである。
千数百年の間、我が国の仏教徒が、漢訳された仏典をやまと言葉で読み下して、
読経したことがあるなどとは寡聞にして、私は聞いたことがない。
キリスト教で言えば、英訳の聖書にカタカナのルビを振って、それを読み上げて
いるのと同様である。
キリスト教では既に、カソリックとプロテスタント共訳聖書が出版されている。


身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の機関紙「日蓮宗新聞」2009年12月
10日号に、「現代日本語訳の法華経読誦を考える」というテーマの論説が掲載
されたことがある。
さすがに、全国5200ヶ寺を包括する延山だけのことはあると、その慧眼には
敬意を表するが、その後の動向は耳にしていない。
その論説の中に「…これらを何とか違和感のないようにまとめて、人々が
釈尊の真意に触れ、生きる指針となるよう努力したい…」とあったが、
この『違和感』というのが、なかなかの曲者なのである。

かつて、中村元博士が「スッタニパータ」を岩波文庫で邦訳された時の
エピソードであるが、仏教界から「その訳文に聖典としての壮重さが無い」と
批評されたという。
それに対して、中村博士は「『聖典としての壮重さ』なるものは、漢訳を用いた
シナ・日本に於いて、教団としての権威が確立した後に必要となったもので
あり、インドや南アジア諸国では、それを目指していなかった。ただ、人間の
真理を端的に述べていただけである」と述べられた。


仏教伝来400


要するに、日本語にしてしまったら、勤行の格好が付かない、有り難味が
薄れるということなのである。

例えば、妙法蓮華経如来寿量品第十六(法華経)
自我得仏来(じがとくぶつらい)所経諸劫数(しょきょうしょこっしゅ)
無量百千万(むりょうひゃくせんまん)憶載阿僧祇(おくさいあそぎ)
常説法教化(じょうせつぽうきょうけ)無数億衆生(むしゅおくしゅじょう)
令入於仏道(りょうにゅうおぶつどう)爾来無量劫(にらいむりょうこう)

などと、訳の解らない音訓みをしていないで、
「私が仏になってからというもの、数えきれないほどの永い永い歳月が
 経っている。
 ずっと遠い昔より仏として法を説いてきた。
 そして無数億の数え切れないほどの沢山の者を教化して
 仏道に入らしめた。 そうして、その時以来、無量劫である」と、
日本人なのであるから、日本語で読誦すれば良いのである。

小難しい顔をして、押し殺したような渋い低声で
「爾時世尊」(にーじーせーそん)などと唸っていないで、
「その時、世尊は」と素直に唱えれば良いではないか。
「如是我聞」(にょーぜーがーもん)などと音訓みしていないで、
「私はこのように聞いた」と唱えれば良いのである。


どの経典を依所として教義を展開したかに依って、宗派が分かれているが、
それぞれ立宗の根拠とする経典を絶対的なものとして大層、有り難がっている
割には、その仏典を和訳して、日本語で読経しようという運動が起こらないのは
至極、不思議なことである。
現代ならば、シナ仏教に依る加上を排除して、パーリ語仏典やサンスクリット語
仏典から直接、日本語に翻訳出来る環境が整っているにも拘わらずである。
原典を「意」訳したものを「音」訓みして、その読誦には大変な功徳があると
充分に満足しているのであるから、その「音」自体に意味を見出していると
しか考えられないのである。
思考は言語に依るもので、日本の仏教徒の頭脳が常に、サンスクリット語を
意訳した漢字のその音で、物事を考えているなどということは有り得ない。


読経400


これでは、仏教と言い難いのではないのか。 
むしろ、ヒンドゥー教に近いのである。
ヒンドゥー教のタントラ教義を取り入れて、ヒンドゥー化した仏教である。
世界観を表現した曼荼羅に向かい、口に呪文(真言、マントラ)を唱え、
手に印契(いんけい)を結び、心に大日如来を思い浮かべる密教の三蜜に、
どこの宗派の行法も大なり小なり類似しているのである。
念仏を唱える浄土宗系にしても、題目を唱える法華宗系にしても、顕教と自任
していながら、自分でも訳の解らないお経を唱え続けて、その功徳広大無辺と
有り難がっているところなど、むしろ呪文に近いものがある。
結局、行法は密教そのものと言えるのである。


日本の仏教徒の「口唱」に付いては、鎌倉時代に大きな変革があった。
鎌倉時代には、貴族階級御用達仏教から庶民化への広がりの中で、
厳しい修行を求めない「易行(いぎょう)」の中で、唯一の救済方法を選ぶと
いう「選択(せんちゃく)」に依って選択した修行にひたすら専念するという
「専修(せんじゅ)」の傾向性を顕わにしながら、浄土信仰からは、法然の
浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、天台宗の法華経信仰から日蓮法華宗
などの新興仏教が生じた。


現代では、「念仏」とは、浄土教系の信仰で合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と
称えることを言うが、初期の仏教では本来、読んで字の如く、「仏を憶念する」
こと、つまり「仏を思う」ことを意味した。
仏弟子達が「南無仏」と唱えたのは、ブッダに対する追憶の念仏であった。
大乗仏教に於いては、多仏思想が生まれ、念ずる対象となる仏の多様化に伴い、
諸仏を礼拝、讃嘆することが行と化して行ったようである。
浄土教系の信仰では、「礼拝」「讃嘆」「作願」「観察」「回向」という方法があり、
「阿弥陀仏を拝み、阿弥陀仏の名号を讃え、阿弥陀仏の浄土の生まれることを
願い、阿弥陀仏の浄土の美しさを観察し、功徳を阿弥陀仏の浄土に生まれる為
の因として、差し向けるという行為」が「阿弥陀仏を思う」ということの内容である。

日本浄土教の基礎を築いた恵心僧都(えしんそうず)、源信はその著作
「往生要集」で、「観想」と「称名」の2つの念仏を立て、「観想念仏」を
重視した。
浄土宗の開祖、法然は「ナムアミダブツ」と唱える「口称念仏」「称名念仏」を
「正定(しょうじょう)の業(ごう)」とし、他を「助業(じょごう)」として、
補助的手段とした。
浄土真宗の開祖、親鸞は、それらの補助的手段である助業をも全否定して、
口称念仏の専修念仏思想を徹底させた。


平安時代中期、比叡山延暦寺の天台宗では、浄土教信仰に於ける称名念仏の
影響を受けたようで、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が漢訳した法華経の
タイトル(首題、題目)「妙法蓮華経」の五字を仏の名号と見做し、それに
帰依(帰命)するという意味のサンスクリット語「ナム(南無)」を冠して、
「南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)」と法華経の題目は唱えられていた。
「南無」は、サンスクリット語ナマス(namas)、ナモー(namo)の音写である。

天台宗の法華経信仰から、日蓮は浄土教に於ける専修念仏同様に、法華経の
題目「南無妙法蓮華経」をひたすら唱える「唱題(しょうだい)」を「正行
(しょうぎょう)」として選択し、他の法華経読誦などは補助的手段としての
「助行(じょぎょう)」としたのである。
サンスクリット語「namo- saddharma-pundariika-suutra」
「ナモー・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」の「namo」を音写して「南無」、
「saddharma-pundariika-suutra」を意訳して「妙法蓮華経」という。


比叡山400


我が国には古来、「言霊の幸はふ国」として、言葉には霊的な力が宿ると信じ
られたコトダマ(言霊)信仰というものがある。
万葉集の柿本人麻呂の歌に、
「敷島の大和の国は 言霊の幸(さき)はふ国ぞ 真幸(まさき)くありこそ」
「日本の国は言霊が幸いをもたらす国です。私のこの言挙げに依って、
 どうぞ、お幸せでご無事でいて下さい」とあるように、
声に出した言葉が、現実の事象に対して影響を及ぼすと信じられ、良い言葉を
発すれば、良い事が起こり、不吉な言葉を発すると、凶事が起こると考えられて
いたのである。
言葉に宿るカミ(神霊)の不思議な力に依って、モノ(物)やコト(事)に
宿る神霊に働き掛け、その相関関係に於いて、自分を取り巻く周囲の状況や
生起する現象を転換させることが出来ると信じたのである。
古代日本に於いては、「言」と「事」は同一概念であったのである。
コトダマ思想はアニミズム(自然崇拝・精霊崇拝)的で、太古からある
古神道的な信仰である。

法然、親鸞の「専修念仏」にせよ、日蓮の「唱題」にせよ、その根底に、
コトダマの働きの存在することが、成立する為の絶対条件となる訳であるが、
彼らがコトダマを意識したのか、否かは解らぬが、少なくとも日本人的な側面
を見せたとは言える。
カウボーイハットにウェスタンブーツを履いたアメリカかぶれの男性が、渋谷
の街を闊歩しているかのような違和感を覚えるインド&シナ合作の外来宗教で
ある仏教が、この段階で僅かながらも日本化したと言えるのかも知れない。


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法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか③…日蓮門徒に「祈り」の言葉はあるのか?

 2018-04-21
法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか③

……日蓮門徒に「祈り」の言葉はあるのか?



大和言葉の「いのる」の「い」は「斎」であり、「のる」は「宣り言(のりごと)
=祝詞(のりと)」「宣り聞かせる言葉」の「宣(の)る」である。
また、「いのる」は「意乗る」でもあり、「意」を言葉に「乗せて」、神々に
お伝えする意味がある。
誠の心から湧き出ずる、清く明るく温かく素直な言葉を発することに依って、
その言葉の霊力、すなわち「言霊(ことだま)」が発動し、捧げた祈りが
現実化して、願いが成就するという言霊への信仰が「祈り」の根底にある。
つまり、祈りはその内容を言葉にして、口に出すことが肝要と言える。
高度難聴の方は発語出来なくても、無音の脳内言語を捧げれば、良いのである。

当然のことながら、ご神前に捧げる祈りの言葉は神々への語り掛けであり、
個人個人の創意工夫は自由であるが、定型文としての祝詞は現代でも平安時代
中期に選進された「延喜式」巻第八「祝詞」に収められている27篇が規範と
なっている。
神道には、罪や穢れ(けがれ)を清める「禊祓え」(みそぎはらえ)の思想があり、
神徒の捧げる日々の祈りは、祓い清めて頂く為に唱える「祓詞」(はらえことば)と、
祈願目的でご神前に奏上する祝詞の二種に大別することが出来る。
神徒がご神前で唱える「祓詞」(はらえことば)には、「延喜式祝詞」の中の
「大祓詞(おおはらえのことば)」があり、また、復古神道(古道)の大成者である
平田篤胤が、神祇伯(律令制の神祇官の長官)白川家や伊勢神宮、その他の神社や
神道諸派に伝えられる祝詞を再編し、文化12年(1815年)、その著書「大祓太詔刀考」に
発表した「天津祝詞(あまつのりと)」がある。
因みに、この「天津祝詞」の作成経緯に就いては、中世以来の「美曾岐祓
(みそぎはらえ)」四篇を編修し、一篇に纏めたという説もある。
神社本庁では「天津祝詞」を正式採用してはいないが、「天津祝詞」を簡略化
した「祓詞(はらえのことば)」「略拝詞(りゃくはいし)」を制定している。

「略拝詞」(りゃくはいし)
『祓へ(はらえ)給へ(たまえ) 清め給へ』或いは、『祓え給へ 清め給へ 
守り給へ 幸栄え(さきはえ)給へ』 (文責在詠山史純)

自宅などの神棚のご神前で唱える、祈願祝詞には「神棚拝詞」がある。
『此の神床(かむどこ)に坐(ま)す 掛けまくも畏(かしこ)き 
 天照大御神等(あまてらすおおみかみたち)
 産土大神等(うぶすなのおおかみたち)の大前(おおまえ)を
 拝(をろが)み奉(まつ)りて 畏(かしこ)み畏みも 申(もう)さく
 大神等(おおかみたち)の広き厚き御恵(みめぐみ)を
 辱(かたじけな)み奉(まつ)り 高き尊き神教(おしへ)のまにまに 
 直(なお)き正しき真心もちて 誠の道に違(たが)うことなく 
 負(お)ひ持つ業(わざ)に励ましめ給ひ
 家門(いえかど)高く 身健(みすこやか)に 世のため 人のために
 尽くさしめ給へと畏(かしこ)み畏みも 申(まを)す』(文責在詠山史純)

このように、祝詞は「やまと言葉」を用い、ご神前で語り掛けるように奏上する
「祈りの言葉」であり、神徒は日本語で祈りを捧げている。


古代出雲大社3


キリスト教に於いては、「あなた方が祈る時は……。だから、こう祈りなさい」
(新約聖書 マタイによる福音書6章9-13)、「祈る時には、こう言いなさい」
(ルカによる福音書11章2-4)と、イエスが弟子に教えたとされる祈りの言葉を
定型文として、ほぼ全ての教派で唱えられている祈祷文に、「主の祈り(主祷文)」がある。

「天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください」
(新約聖書 マタイによる福音書6章9-13)
…聖書 新共同訳 日本聖書協会版

文語訳の「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。………」との文言は、キリスト教徒でなくとも
何処かで耳にしているのではなかろうか。
この様に日本のキリスト教徒も、礼拝用語である「アーメン(アメン、エイメン)」
以外は日本語で祈りを捧げている。


クリスチャンの祈り1


日蓮(1222年-1282年)は「祈祷抄」(1272年)と呼ばれる遺文で、
「大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、
日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」と述べている。
「法華経の持経者の祈りの叶わないことは、絶対に無い」という意味である。
また、石山中興の祖と称される26世日寛(1665年-1726年)はその著作
「観心本尊抄文段」で、「……故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と
唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として
来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と述べている。
「祈りが必ず叶う」ことが事実であれば、万病に効く薬と言われた越中富山の
万金丹の如くに、甚だ重宝するというものである。

石山系セクトには、「祈りは、祈り切ることから始まる。祈って祈って、
祈り抜けば、智慧が湧く。智慧が湧けば、行動が生まれる。行動すれば、
敵も味方に変わる。敵も諸天も諸菩薩も、全てを味方に、祈りを叶える。
それこそが、祈りのメカニズムだ」と、宗教である以上は当然のことながら、
「祈り」の重要性を強調した信仰指導をしている教団がある。
祈り抜こうが、祈り切ろうが、それは日蓮門徒のご勝手であるが、しかし、
そもそも、彼らは自国語である日本語を一語たりとも発しない読経、唱題の折、
一体どの場面で、どの様に祈っている積もりなのであろうか。

真言密教では、絵曼荼羅に向かい、手に印を結び、口に真言を唱え、
心に「大日如来」を描くという、身口意(しんくい)に依る三密を実践し、
大宇宙と一体化して、逆に宇宙の本体を動かして行くことが出来るという
「入我我入」の境地を目指す。
日蓮門徒は、文字曼荼羅に向かって、合掌し、法華経の題目を唱え、
虚空会の儀式(或いは久遠の本仏)を心に描くという身口意の三業を実践し、
「境智冥合」を目指す。
日蓮門徒は己の宗旨を顕教の頂点に立つ唯一絶対無二の正しい仏法とやらの
積もりでいる様であるが、その実、事相に於いて、真言密教と全く同様で、
所詮は天台宗の密教、台密(たいみつ)に過ぎないのである。
因みに、密教はヒンドゥー教化した仏教であり、淵源を辿れば、ゾロアスター教
であり、マニ教、ミトラ教である。
要するに日蓮門徒は、仏教の開祖ゴータマ・ブッダの教説とは何ら関わりの無い、
ヒンドゥー教やゾロアスター教もどきの信仰形態を取っているということである。


祈りのポーズ うさぎ1


鎌倉時代の易行ブームの結果、日蓮門徒は、浄土教に於ける専修念仏同様に、
法華経の表題である「妙法蓮華経」をひたすら唱える専唱題目を正行(しょうぎょう)と
している。
4世紀の訳経僧、鳩摩羅什(350年?-409年?)はサンスクリット語の
「saddharma-pundariika-suutra」(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)を、
「妙法蓮華経」と意訳した。
漢訳された「妙法蓮華経」の語を日本語的に「みょうほうれんげきょう」と
呉音読みし、その語頭に「namo」の音写である「なん」を付し、音韻自体には
何ら意味の無い呪文化した「なんみょうほうれんげきょう」との言葉を
ひたすら唱える。
サンスクリット語の「namo- saddharma-pundariika-suutra」は、「正しい教えの
白い蓮の花に帰依します」という意味であり、意訳すれば、「白い蓮の花のような
正しい教えに帰依します」という意味である。
この唱え言葉は、己の「信仰心の表明」であり、「宣誓の言葉」であって、
祈り言葉ではない。

日蓮門徒は助行(じょぎょう)として、妙法蓮華経第2章の方便品(ほうべんぼん)
と第16章の如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)の一部も読誦する。
「釈迦族の尊者(釈尊)」と称された、ゴータマ・ブッダの滅後から500年以上も
経た後に成立したと推定される、ブッダに仮託した宗教文学作品である法華経で、
ブッダがああ言った、こう言った、滑ったの、転んだのと物語が展開する訳である。
漢訳経典の読誦で「しっぽんしんこ」だの、「しょきょうしょこっしゅ」だのと、
訳の解らない音韻を神妙な面持ちで発するが、それが「失本心故」「所経諸劫数」の呉音読みで、
それぞれ「本心を失えるが故に」、「数えきれないほどの永い歳月が経っている」
との意味であることを、日本語を理解するように認識して唱えている訳ではない。

「じがとくぶつらい。しょきょうしょこっしゅ。むりょうひゃくせんまん。
おくさいあそぎ。じょうせつぽうきょうけ。むしゅおくしゅじょう。
りょうにゅうおぶつどう。にらいむりょうこう」(自我得仏来。所経諸劫数。
無量百千万。憶載阿僧祇。常説法教化。無数億衆生。令入於仏道。爾来無量劫)
との音韻を発しても、それが「私が仏に成ってからというもの、数え切れない程の
永い永い歳月が経っている。ずっと遠い昔より仏として法を説いて来た。
そして無数億の数え切れない程の沢山の者を教化して、仏道に入らしめた。
そして、その時以来、無量劫である」との意味であることを、読誦と同時に
認識している訳ではない。
「がじょうじゅうおし。いしょじんづうりき。りょうてんどうしゅじょう。
すいごんにふけん」(我常住於此。以諸神通力。令顛倒衆生。雖近而不見)との
音韻を発しても、それが「私は霊妙な力に依って、自らの姿を現わし、そして、
人々に加護を垂れる。人々は理性が転倒して愚かであり、私がそこに立っている
にも拘わらず、私を見ることはない」との意味であることを、読誦と同時に
認識している訳ではない。

要するに、日蓮門徒は読経、唱題に際し、サンスクリット語の原典を漢訳、
つまり「意訳」したものを、そのまま日本語的に呉音で音読みしているので、
一語たりとも日本語を唱えていないし、祈ってもいないということである。
これを日本のキリスト教に譬えたならば、ギリシャ語やラテン語の福音書の原文を
翻訳した英文をローマ字風に発音して読むような無意味な行為である。


白い蓮の花7


例えば、日蓮門徒が「一家和楽が実現しますように」「病が癒えますように」
「ヤクザに頼んで、批判者を抹殺した、教団の組織犯罪が露見しませんように」
との願望を念じつつ、唱題したとする。
御本尊様と称する文字曼荼羅に向かって、合掌し、「正しい教えの白い蓮の花に
帰依します」という意味のサンスクリット語「namo- saddharma-pundariika
-suutra」の漢訳を音読みした言葉を発している以上、心でも「正しい教えの
白い蓮の花に帰依します」と念じていなければ、身口意の三業が不一致で、
教理に整合しないことになる。
各々の日蓮門徒が礼拝時、法本尊を対境としている積もりなのか、人本尊を
対境としている積もりなのか、はたまた人法一箇の本尊とやらを対境としている
積もりなのかはいざ知らず、己の脳内言語を度外視し、日本語を一語たりとも
発することなく、祈った積もりになっている事相は不合理である。
勤行に於いても、「祈りの言葉」はお得意の「文底秘沈」とやらで、何処かに
秘し沈めているとでも言うのか?
      
0050 (2)



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法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか②…「なむ・さだるま・ふんだりきゃ・そたらん」

 2018-04-21
法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか②

……「なむ・さだるま・ふんだりきゃ・そたらん」



「法華経」は、大乗仏教経典「saddharma-pundariika-suutra(サッダルマ・プンダリーカ
・スートラ)」漢訳の「総称」であり、また、鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」の略称でもあって、
正式な経典名ではないことは既に述べた。

法華経完訳は6種類存在したとのことであるが、現存するのは3種類のみで、
三存三欠(六訳三存)と言われる。
それぞれの経典名は、
①「法華三昧経」(欠)六巻 正無畏訳 
②「薩芸芬陀利経」(欠)六巻 竺法護訳
③「正法華経」十巻 竺法護訳     
④「方等法華経」(欠)五巻 支道林訳
⑤「妙法蓮華経」八巻 鳩摩羅什訳   
⑥「添品法華経」七巻 闍那崛多・達磨笈多共訳で、日蓮が宣揚したところの法華経は、
亀茲国(ウイグル)の西域僧、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)訳「妙法蓮華経」である。


古代シナの訳経僧達がパーリ語やサンスクリット語の仏教経典を意訳するに際し、
選択して用いた漢字を殊更に掘り返しても意味は無い。
因みに、唐代の玄奘(602年 - 664年)に依る訳経を「新訳」、
鳩摩羅什(350年?-409年?)の訳経から新訳までの訳経を「旧訳」、
それ以前の訳経を「古訳」と呼ぶ。
西晋時代の敦煌の訳経僧、竺法護(230年代?-310年代?)の訳経は、
古訳に相当する。

「正」 「妙」

仏教学者、古代インド文学者の岩本裕氏(1910年-1988年)に依れば、
「saddharma」は「sat」と「dharma」の合成語で、「sat」は「存在する」
「現存の」「真の」「善き」「正しい」を意味し、また、「勝れた」性質を示す
形容詞として用いられているという。
(岩波文庫版「法華経」坂本幸男・岩本裕訳注)

竺法護は、「saddharma-pundariika-suutra」の「saddharma」を
「正法」と訳したが、鳩摩羅什は「妙法」と訳している。
「正」の甲骨文字は「□+止」で、□は国や集落の象形、「止」は足の象形、
他国へ真っ直ぐに進撃することを表わし、転じて、「真っ直ぐ」「正しい」の意味を
表わす。
「妙」には、「極めて良いこと」「表現の仕様が無いほどに優れていること」の外にも、
「不思議なこと」「変わっていること」「普通でないこと」「この上も無く、奥深いこと」
「人知では計り知れない優れた働きがあること」などの字義がある。
このように、「正」の文字と「妙」の文字とでは、字義が大いに違う。

サンスクリット語の「sad-」を単に「正」と訳さず、「妙」の文字を当てたことに依り、
漢訳された「妙法」の言葉の意味を解釈するに当たって、「saddharma」の意味を
拡大解釈してしまう余地が大いに膨らんだことになる。

「法」

「dharma(ダルマ)」は仏教に限らず、ヒンドゥー教、ジャイナ教など、インドに於ける
宗教上、思想上、重要視される概念であり、「保つ」「支持する」を意味する動詞の
語源「dhṛ」から派生した名詞、「保つもの」「支持するもの」を原義とするとされる。

仏教では「法」と漢訳されるのが通例であるが、この言葉は状況に応じて、
様々なニュアンスで用いられることになる。
漢字の「法」に拘れば、「世界を成立させている根本原理」としてのダルマが強調されて、
「倫理的規範」や「宗教的義務」「善業」「教え」としてのダルマの意味合いが薄れることになる。
そして、『大宇宙も、我が生命も、森羅万象悉く「妙法」であり、「蓮華」であり、
「経」である。宇宙生命の根源は「妙法蓮華経」であり、題目を唱えることで、
大宇宙のリズムと合致して、即身成仏し、絶対的な幸福境涯を確立出来る』などと、
訳の解らないことをほざき捲くる輩が何百万人も湧いて出て来ることになる。


白い蓮の花3


「saddharma-pundariika-suutra」(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)を
音写して、「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」(サダルマフンダリキャソタランor
サダルマフンダリシュタラ)とも漢訳されている。
法華経の表題は、鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」のみならず、「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」も
あれば、「正法華経」「法華三昧経」「薩芸芬陀利経」「方等法華経」「添品法華経」もある。
浄土教に於ける専修念仏同様に易行として、日蓮が法華経の表題を唱える唱題行を
正行とするに当たり、唱え言葉を「南無正法華経」(なむしょうほけきょう)や、
「南無薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」(なむ・さだるま・ふんだりきゃ・そたらん)とする
選択肢もあったことになる。

要するに、「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」と信仰心を表明し、
宣誓するに当たり、「南無」する対象は何も「妙法蓮華経」の五字でなくても
良いということである。
そして、鳩摩羅什が「saddharma-pundariika-suutra」を意訳した漢訳を、
日本語的に呉音で発音しているのであるから、「みょうほうれんげきょう」の音韻に
意味は無いということである。

外務省のHPのデータに依れば、世界の国家数は195ヶ国であるという。
日蓮系新宗教教団の宣伝では、「世界180ヶ国以上の国に日蓮仏法が広まった」
とのことであるが、我が国にもキリスト教徒やイスラム教徒等がいるように、
何処の国にも異国趣味の人はいるものである。

それにしても、世界中の日蓮信者が「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」と
信仰表明するに際し、サンスクリット語の「saddharma-pundariika-suutra」を
4世紀の訳経僧が意訳した「妙法蓮華経」をそのまま日本語的に「みょうほう
れんげきょう」と呉音読みし、それに「namo」の音写である「なん」を付けて、
音韻に意味の無い「なんみょうほうれんげきょう」との唱え言葉を一様に唱えて
いるのは、甚だ奇妙なことである。
特に、インド文化圏の日蓮信者が「namo- saddharma-pundariika-suutra」との
古語を現代のヒンドゥー語に変換して唱えず、「なんみょうほうれんげきょう」
との無意味な音韻を逆輸入してまで唱えているということは甚だ滑稽である。
創唱宗教というものは、げにも莫迦莫迦しきものかな。


デューラー 祈りの手1



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法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか①…「正しい教えの白い蓮の花」とやら

 2018-04-21
法華経の題目を日本語で唱えたら、都合が悪いのか①

……「正しい教えの白い蓮の花」とやら



浄土宗や浄土真宗など、浄土系教団の所依の経典は無量寿経(大経)、観無量寿経(観経)、
阿弥陀経(小経)の浄土三部経である。
浄土宗の開祖である法然房源空(1133年-1212年)は、シナ浄土教の善導(613年-681年)
撰述の観無量寿経疏(観経疏)に説かれた「一心専念弥陀名号」に基づき、
阿弥陀如来に縋り、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽往生出来るとして、
他力本願の易行道、専修念仏を説いた。

「南無阿弥陀仏」との念仏は、「阿弥陀仏に帰依します」との意味である。
阿弥陀を大乗仏教の「如来」だの、「仏」だのと言うも、所詮はヒンドゥーの「神」
アミターバ(Amitābha)である。
「アミターバに帰依します」という意味の「namo- Amitābha」「ナーモ アミターバ」を
音写して、「なむあみだぶつ」と唱えている。
「ナーモ アミターバ」の音写が「なむあみだぶつ」とは、随分と訛っている訳であるが、
更に訛りに訛って、「なんまいだ」や「なんまいだぶ」と唱える人もいる。
日本語を脳内言語に変換し、ものを考えている日本人であるならば、本来は素直に、
日本語で「アミターバに帰依します」と唱えれば良いのである。

「南無阿弥陀仏」という唱え言葉は、サンスクリット語の「ナーモ アミターバ」の音写に過ぎず、
「南」「無」「阿」「弥」「陀」の各文字は表音漢字であり、文字自体に意味は無い。これこれ


祈りの姿3A


天台宗や日蓮宗、日蓮系諸教団の所依の経典は、シナの天台大師智顗(ちぎ)
(538年-597年)の教説に従がい、本経としての「法華経」、開経としての
「無量義経」、結経としての「観普賢経」の法華三部経である。

「法華経」は、大乗仏教経典「saddharma-pundariika-suutra(サッダルマ・プンダリーカ
・スートラ)」漢訳の「総称」であり、また、鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」の略称でもあって、
正式な経典名ではない。
法華経完訳は6種類あったというが、現存するのは3種類のみで、三存三欠
(六訳三存)と言われる。
それぞれの経典名は、
①「法華三昧経」(欠)六巻 正無畏訳 ②「薩芸芬陀利経」(欠)六巻 竺法護訳
③「正法華経」十巻 竺法護訳     ④「方等法華経」(欠)五巻 支道林訳
⑤「妙法蓮華経」八巻 鳩摩羅什訳   ⑥「添品法華経」七巻 闍那崛多・
達磨笈多共訳で、日蓮が宣揚したところの法華経は、鳩摩羅什(クマー ラジーヴァ)訳
「妙法蓮華経」である。

日蓮(1222年-1282年)は天台宗の法華経信仰を前提として、浄土教に於ける
易行としての専修念仏同様に、法華経の題目「南無妙法蓮華経」をひたすら
唱える「唱題(しょうだい)」を「正行(しょうぎょう)」として選択し、
他の法華経読誦などは補助的手段としての「助行(じょぎょう)」としたのである。

鳩摩羅什(350年?-409年?)は、「saddharma-pundariika-suutra」を意訳して、
法華経の表題を「妙法蓮華経」と漢訳した。
その「妙法蓮華経」に「帰依する」という意味の「namo(ナーモ)」の音写「南無」を冠して、
「南無妙法蓮華経(namo- saddharma-pundariika-suutra)」という。
日蓮の教説は煎じ詰めれば、「法華経の表題を唱えれば、即身成仏出来る」と
いうものである。

日本の仏教徒は怠慢極まりないことに、仏教伝来の飛鳥時代552年(538年説有り)以来、
仏教経典の読誦「読経」は、シナの訳経僧達がパーリ語やサンスクリット語の仏教経典を
漢訳つまり「意訳」したものを、そのまま日本語的に音読みしているのである。
真言宗や禅宗などで例外的に、漢音や宋音の発音が用いられるものの、仏教経典の読誦は
呉音の発音で行なわれるのが殆どである。
従がって、読誦される経文の音韻に意味は無い。これこれ

法華経のサンスクリット語原典「saddharma-pundariika(サッダルマ・プンダリーカ)」は、
「正しい教えの白い蓮の花」という意味である。
好意的に意訳すれば、「白い蓮の花のような正しい教え」になろうか。
仏教経典では、蓮の花を「蓮華(れんげ)」と美称するが、「pundariika(プンダリーカ)」は、
蓮の花全部を一括りにした命名ではなく、飽くまでも「白い蓮の花」を指す。
赤い蓮の花はパドマと呼び、青い蓮の花はウトパラと呼ぶように、色の違いで
別の名前を冠するほどに、インド人は蓮の花に敏感な感性を持っている。

蓮の花は花弁が開くと同時に、その花弁の中から種子が落ちるという。
花が開くという「結果」と、種子が土中に埋まり、新しい蓮の花を咲かせるという
「原因」の同時性から、「因果倶時」という概念に通じる例示に相応しいとして、
大乗仏教経典、特に法華経では尊ばれるが、それが第一の理由であるならば、
何も白い蓮の花でなくても良い訳である。
仏教に限らず、古代インドに於けるヴェーダやヒンドゥー教に於いても、
蓮の花には宗教的な意味が籠められ、象徴的に愛用されている。
要するに早い話が、インド人は古代から蓮の花が好きなのである。

泥水の中から生じながらも、清浄な美しい花を咲かせる姿に、仏陀の尊厳を
象徴させたり、仏道修行に於いて、菩薩が上に向かっては自ら菩提を求めて修行し、
下に向かっては、泥中に生きる存在である衆生を悟りへと化導して行くという
「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」の象徴とする穿った意義付けも、
結局は後付けに過ぎない。


祈りの姿3B


日本語を脳内言語に変換し、ものを考えている日本人であるならば、
「namo- saddharma-pundariika-suutra」を「なんみょうほうれんげきょう」ではなく、
「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」、もしくは「白い蓮の花のような
正しい法に帰依します」と唱えれば良いのである。
「saddharma-pundariika-suutra」を意訳した漢訳を、日本語的に呉音で発音して
いるのであるから、「みょうほうれんげきょう」の音韻に意味は無い。これこれ

「南無」を延山系では「なむ」、石山系では「なん」と発音するが、何れにせよ、
「namo(ナーモ)」の音写で、「無」を「む」と発音することに拘る必要がある訳も無く、
どちらも訛りに訛っていることに変わりは無いのであるから、どうでも良いことである。
尤も、石山系でも勤行の際の引き題目では、「な~む~」と発音する。

題目を唱えることを唱題と言うが、一時間の唱題で「なんみょうほうれんげきょう」を
3000遍程唱えることになろうか。
「なんみょうほうれんげきょう」と唱えていれば、何やら深遠な祈り言葉のようで、
有り難く感じるかも知れないが、「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」
「白い蓮の花のような正しい法に帰依します」と、毎日、毎日、一時間も二時間も
繰り返し、繰り返し、唱え続けていたら、幾ら何でも虚しくなって来る。
0050 (2)
正行である唱題でこの有様であるが、助行としての妙法蓮華経第二方便品(ほうべんぼん)、
第十六如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)読誦も、サンスクリット語の原典を漢訳、
つまり「意訳」したものを、そのまま日本語的に呉音で音読みしているので、物語の意味を
充分に認識していないが、読経に於いても和訳した文章を唱えたならば、一層虚しくなって来る。
0050 (2)
自我得仏来(じがとくぶつらい)所経諸劫数(しょきょうしょこっしゅ)
無量百千万(むりょうひゃくせんまん)憶載阿僧祇(おくさいあそぎ)
常説法教化(じょうせつぽうきょうけ)無数億衆生(むしゅおくしゅじょう)
令入於仏道(りょうにゅうおぶつどう)爾来無量劫(にらいむりょうこう)
と漢訳を日本語的に呉音で音読みするのではなく、和訳して、
「私が仏になってからというもの、数えきれないほどの永い永い歳月が経っている。
ずっと遠い昔より仏として法を説いて来た。そして無数億の数え切れないほどの
沢山の者を教化して仏道に入らしめた。そして、その時以来、無量劫である」と
日本語で読誦すれば、自分が何を唱えているか明瞭になるであろう。

そうすれば、一所懸命に何事かを祈っている積もりでいたが、そこには祈り言葉が
一つも無いことに気が付くのである。
0050 (2)
「白い蓮の花のような正しい教えに帰依します」という唱え言葉は祈り言葉ではなく、
自分の「信仰心の表明」であり、「宣誓の言葉」に過ぎないことに気が付くのである。
0050 (2)


仏教にせよ、キリスト教、イスラム教にせよ、半ば狂気の宗教的天才が創始した創唱宗教で、
後代の天才的な宗教詐欺師どもがその教義を肥大化させつつ、継承している虚構の体系に過ぎない。
時空を超えてまで、壮大な法螺話の呪縛に己の尊い人生を委ねることはない。
創唱宗教を信奉するなんぞ、止めておいた方が良い。



祈りの姿5S





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